『グレート・ビューティー/追憶のローマ』などのパオロ・ソレンティーノ監督の最新作。
原題は「LORO」で、イタリア語の三人称複数形「彼(女)ら」を指すとのこと。
スキャンダルだらけの元首相
『LORO 欲望のイタリア』では、イタリアの元首相シルヴィオ・ベルルスコーニの一時期のことが描かれていくことになる。一度は失脚し復活を果たすことになる時期に焦点が当てられている。ちょっと変わっているのは、本作が政治劇とはまったく異なるということだろうか。
ベルルスコーニは世界でも有数の富豪として知られ、サッカークラブ・ACミランのオーナーでもある。女性スキャンダルは限りないし、失言の数々も有名だ。さらにはマフィアとの関わりすらも噂されているのだが、本作はそんな人物の内面に迫っていくアプローチを採っている。
ソレンティーノの過去作品『イル・ディーヴォ -魔王と呼ばれた男-』では、ジュリオ・アンドレオッティ元首相の疑惑にまみれた政治劇を描いていたわけで、ベルルスコーニに関しても同じような描き方もできたのかもしれないのだが、中心となっているのはベルルスコーニとその奥様の関係だったりもするのだ。というのも、本作はベルルスコーニという狂言回しを使いつつ、別のことを描こうとしているからなのだろう。
「彼」と「彼ら」
最初に登場してくるのはベルルスコーニではない。ある地方の手配士のセルジョ(リッカルド・スカマルチョ)の話からスタートする。この男は女を使ってその地方の有力者に取り入ってのし上がろうとしている。実際それは成功しつつあり、その地方の退屈さにもうんざりしてきたセルジョは、ローマに行って「lui(彼)」をターゲットにしようと考える。
ここで「彼」と呼ばれているのが、イタリアにおいて一番の権力者とされるシルヴィオ・ベルルスコーニということになる。ただ、本作ではなかなか「彼」は姿を見せない。それだけ「彼」は一般人である「彼ら」からすれば遠い存在ということだろうか。
セルジョは派手な女たちをたくさん手配し、「彼」の邸宅の近くでパーティを催す。裸の女性たちをはべらせて豪華絢爛なパーティを繰り広げ、「彼」がエサに引っかかるのは待ちかねているのだ。しかし「彼」はセルジョよりもっと上手だったのか、「彼」がうまくエサに引っかかることはなかったようで、セルジョは本作からフェイドアウトしていく。
セルジョからベルルスコーニへ
本作では上映開始から40分ほどしてようやくベルルスコーニ(トニ・セルヴィッロ)が登場する。ここで主役がバトンタッチした形になるのだが、セルジョとベルルスコーニは似た者同士にも見える。かつてのベルルスコーニも、セルジョのように欲望に目をギラギラさせてのし上がってきたことを思わせるのだ。
本作で「lui(彼)」と呼ばれるベルルスコーニは、「彼」以外のすべての人々「loro(彼ら)」と同じような存在なのだ。ただ、「彼」は「彼ら」のなかで一番うまくのし上がっていき、イタリアで一番の地位を獲得したのだ。
「彼」は「彼ら」の代表とも言える。政治家としてはもちろんのこと、欲望の体現者としても、「彼」は「彼ら」の代表なのだ。
相反するものが同列に置かれること
ソレンティーノの前作『グランドフィナーレ』のレビューを書いたときに感じたことだが、ソレンティーノの作品では「相反するものが同列に置かれる」ことになる。
「老い」と「若さ」が同列に置かれ、「聖なるもの」は「俗なるもの」と同列に置かれるわけだ。そして、『LORO 欲望のイタリア』においてはセルジョのいるゴミのような世界が、ベルルスコーニのいるきらびやかな世界と同列に置かれることになる。
セルジョたち「彼ら」は底辺の悲惨な生活を知っている。だからこそ「彼」のいるような世界に憧れる。本作においては「彼ら」も「彼」も同列に扱われることになる。たまたまベルルスコーニが頂点に立ったわけだが、「彼ら」と「彼」に違いはない。だから、ゴミが空に舞う場末の世界から、一気にパーティのきらびやかな世界へと移行するのだ。
ちなみに原題である「LORO」は「彼(女)ら」を意味する三人称複数形だが、これが「l’oro」となると「黄金」を意味するのだとか。このふたつの単語の発音は一緒だというから、このタイトルは「彼ら」という底辺の人たちでありながら、頂点である「黄金」のきらびやかな世界のことも指しているのかもしれない。
すべては十分ではない
そして主役が交代してからは、頂点に登り詰めたベルルスコーニの姿が描かれていくことになるのだが、さぞかし夢のような世界が待っているのかと思うと肩透かしを食うかもしれない。
むしろセルジョが開いたパーティの世界のほうが派手さもあって、にぎやかで楽しい世界だったようにすら思える。ただパーティの楽しさも長続きはせずに、いつまで経っても姿を現さない「彼」に待ちくたびれて宴の場は倦怠感が支配していくわけだが……。
本作でベルルスコーニが心を尽くしているのは、長年連れ添っている妻ヴェロニカ(エレナ・ソフィア・リッチ)との関係だ。ベルルスコーニはいつも笑顔を絶やさずにヴェロニカにもとても愛想がいいのだが、ヴェロニカは家庭外でのスキャンダルを知っているためか常に不機嫌な様子で、その関係を修復することはできそうにない。
さらに、ベルルスコーニは自分が見染めたステッラ(アリーチェ・パガーニ)という学生に、「口臭がおじいさんと同じだから」という理由でフラれてしまう。ベルルスコーニが語るところでは、同じ入れ歯洗浄剤を使っているから。イタリア一番の権力者と、世間一般のおじいさんが同じものを使っているということでもあるわけだが、どれだけ植毛して見た目に気を配ったとしても、結局は虚しいものだと思わせるのだ。
それらは「すべては十分ではない」という台詞に集約されているかもしれない。ベルルスコーニはあるサッカー選手を口説くために、「すべてが与えられる」ということを確約するのだが、その選手は「すべては十分ではない」と語り、そのオファーを断るのだ。ベルルスコーニは頂点に居ながらも、どこかで不足感を抱えている。その言葉が一番身に染みているのはベルルスコーニ本人だったんじゃないだろうか。
本作は正直に言えば、長くて退屈ですらある(上映時間は157分)。ただ、それは本作が描こうとしているのが、ベルルスコーニの人生などではなくて、人生そのものの虚しさだからなのかもしれない。
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