監督・脚本は『コレット』などのウォッシュ・ウェストモアランド。
原作は日本在住経験のあるスザンナ・ジョーンズの同名小説。
11/15から配信が開始されたNetflixオリジナル作品。一部劇場でも公開している。
物語
舞台は1989年の日本。アメリカ人女性リリー(ライリー・キーオ)が東京湾で遺体となって発見される。彼女と最後に会ったとされたルーシー(アリシア・ヴィキャンデル)は、警察に容疑をかけられることに。
ルーシーとリリーとの間には、カメラマンの禎司(小林直己)の存在があり、三角関係のような微妙な関係となっていたのだが……。
日本を舞台にした作品
ルーシーはスウェーデンから日本に来て5年という設定。翻訳事務所で働いていて、そこでは『ブラック・レイン』の字幕翻訳をやっていたりもする。これは製作総指揮がリドリー・スコットだったからだろう。
ビックリしたのはルーシー役のアリシア・ヴィキャンデルが流暢に日本語の台詞を話すところ。かなり日本語を練習したことがうかがえる。ルーシーのキャラは地味で孤独な女性という設定だからか、本作のアリシア・ヴィキャンデルは東京の電車に一般客と紛れていても違和感なくとけ込んでいる。
一方で遺体となって発見されるリリーを演じるのはライリー・キーオ。いかにも派手なアメリカ人女性というタイプで、ルーシーとは対照的な役柄となっている。
そして、そんなふたりを相手にすることとなる役得な禎司を演じるのが、EXILEのパフォーマー小林直己だ。妖しい雰囲気を雰囲気を醸し出している男で、英語の台詞も難なくこなしていて海外でも評判がよかったとか。
本作は最初のクレジットから英語と日本語の両方が使われていたり、スタッフにも種田陽平という美術監督が名前を連ねたりもしていて、日本側の協力も多かったものと推測される。冒頭は中央線と丸ノ内線が交差する風景から始まり、富士山や佐渡島など観光名所も取り入れたりもしているが、監督も日本滞在経験がある人らしく、日本の描写は総じて悪くなかったと思う。
タイトルは「地震の後に鳴く鳥がいる」という禎司の言葉から。実際にそんな鳥がいるのかは知らないのだが、日本に来た外国人が感じるのは地震の怖さということなのだろう。地面が揺さぶられる感覚は、あまり地震がない国から来た人からすればこれほど不気味なことはないのかもしれないわけで、その印象がこうしたタイトルに反映されているのだろう。
※ 以下、ネタバレもあり!
ルーシーの罪悪感
本作はルーシーが容疑者として警察から事情聴取を受け、ルーシーの過去を振り返る形式となっている。ルーシーは孤独な女性で、両親との連絡も取っていない。なぜルーシーが日本という異郷の地にいるのかというのが、ひとつの疑問として展開していく。
ルーシーは自分の周りに死がまとわりついていると感じている。これまでに彼女の周りでは何人も死者が出ている。日本に来てからも事故によって、彼女の目の前である女性が死ぬことになる。そうした死はルーシーのせいではないはずなのだが、彼女はそれらに罪悪感を覚え、リリーが死んだのも自分のせいだと感じることになっていく。
というのも、ルーシーは禎司という男を巡って、リリーと三角関係のような形になっていて、禎司との関係を邪魔するリリーを憎むようになっていたからだ。ルーシーは警察にリリーを殺したと嘘をつくことに……。
何がリリーに起ったか?
本作はルーシーが異郷の地をさまようことで変化が訪れることになるわけで、たとえば『シェルタリング・スカイ』のような作品と比較できるのかもしれない。ただ、日本人の観客にとっては、その異郷の地は自分たちの近くにある日常でしかないわけで、エキゾチックな感覚に欠けるところはあると思う。
また、ミステリーとしても犯人が禎司だということはほとんど明らかで、それよりもルーシーが抱えているいわれのない罪悪感のようなものからの回復が主題となっていると言える。
ひとつ気になったのは、「何がリリー起ったか?」というところ。もちろん普通に考えれば、禎司に殺されたということになるのだが、リリーとされていた遺体は別人のものだったことが判明するわけで、最後までリリーは不明のままなのだ。
以下は個人的な妄想に過ぎないのだが、「リリーはルーシーが生んだ妄想だった」という奇妙な説を展開してみる。
理由1 ルーシーとリリーが寝ていると地震に起こされてという場面では、ルーシーの横顔の向こうに、リリーの顔の半分が見える形で撮られていて、一見するとふたりでひとつの顔(ピカソ風)を形づくっているように見えなくもない。
追記:レビューをアップした後に公開された監督のインタビューでは、ベルイマンの『仮面/ペルソナ』からの影響も語られていて、「ふたりでひとつの顔を形づくっている」のはやはり意図的なもののようだ。
ウォッシュ・ウェストモアランド監督が語る『#アースクエイクバード』
作品のテーマ設定から80年代の東京の再現で意識したポイント、黒沢清監督の「CURE」をはじめとしたフィルムノワール、ヒッチコックなど多くの作品から受けた影響が語られるインタビュー。#ネトフリ pic.twitter.com/CWESmKdpZS
— Netflix Japan (@NetflixJP) November 22, 2019
理由2 後半の禎司のコレクション写真では、「ルーシー選別」と書かれたファイルのなかに、なぜかリリーの写真も混じっている。ルーシーの写真から始まったものが、次第にふたりが混じり合い、最後にはリリーが倒れた姿が現れる。禎司はふたりは同一人として見ていた可能性がある。
理由3 佐渡島で体調を崩したルーシーは、リリーによって介抱されるのだが、酷いことにその場に置き去りにされてしまう。常識的に考えても元看護師であるリリーがルーシーを放り出していくのは不自然だし、なぜかこの場面ではバイク2台で移動していて、ルーシーとリリーは1台のバイクに2人乗りをしていく。
通常ならば禎司の後ろに彼女であるルーシーが乗るところだが、女性2人が1台のバイクに乗っているのは、ふたりが同一人である証拠かもしれない。ちなみにその前日の夜には、3Pを思わせるシーンがあるのだが、これもルーシーとリリーが同一人であることを示しているのかも。
以上のような理由で、ルーシーとリリーが同一人であると匂わせるように撮られていると思うのは考えすぎだろうか。ルーシーは会社の仕事も放り出してしまい、幻覚すら見ている描写もあるわけで、リリー自体がルーシーの別人格に見えなくもないのだ。
もしかするとルーシーにとっては、自由で積極的なリリーは自分がなりたかった姿だったのかもしれない。禎司と出会い自分を解放していったルーシーは、リリーという別人格を生み出すのだが、その両方(リリーと禎司)をルーシーが始末することで、最初に抱えたトラウマを解消し、本来の姿を取り戻したということが仄めかされているのだろうか。
とはいえこの解釈ではあちこちに不整合な部分が出てくるわけで、単にミスリードを狙っただけなのかもしれない。そうだとするとかえって平凡なミステリーとなってしまうわけだが……。
とりあえずはアリシア・ヴィキャンデルやライリー・キーオが日本のソバ屋でソバをすするという不思議な光景は滅多に見られないだろうし、一見の価値はあるかもしれない。久しぶりにお見かけしたのが佐久間良子さんで、役柄としてすぐに亡霊となってしまうのだが、佐久間良子さん自身は亡霊ではないはずだが、年月を感じさせない美しいお姿だった。
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