『ポッド・ジェネレーション』 女性の味方あるいは……

外国映画

監督・脚本は『ボヴァリー夫人』(ミア・ワシコウスカ主演)などのソフィー・バーセス

主演は『ターミネーター:新起動/ジェニシス』などのエミリア・クラークと、『それでも夜は明ける』などのキウェテル・イジョフォー

物語

近未来のニューヨークで暮らすレイチェルとアルヴィー。
大企業のペガサス社は、持ち運び可能な卵型の《ポッド》を使った気軽な妊娠を提案する。
ハイテク企業に勤めるレイチェルは新しい妊娠方法に心惹かれる。一方、植物学者のアルヴィーは自然な妊娠を望む。
そんな二人が、出産までの10ヶ月の間、《ポッド》で赤ちゃんを育てることを選択したー

(公式サイトより抜粋)

人工子宮が胎児を育てる

ナポレオンは「余の辞書に、不可能という文字はない」と言ったとか。これが本当の話なのかは知らないけれど、男だから生物学的に不可能なこともあり、男に出来ないことの最たるものが妊娠・出産ということかもしれない。

というよりも、女に出来ないことがないということだろうか。本作では、女はひとりでも妊娠できることになっているからだ。劇中に登場するペガサス社の技術があれば、欲しいのが女の子なら女性ひとりで妊娠することが可能なのだ。男の子の場合はY染色体が必要だから無理だけれど、女の子の場合は男の協力なしに産むことができる。しかも、人工の子宮で身体に負担をかけずに済ますこともできる。そんなわけで女は何でも出来るというわけだ。

では、実際に人工子宮は可能なのだろうか? この記事によれば、もう少し時間はかかるけれど理論的には可能ということになるらしい。今では人工授精はごく普通に行われていることなのだろうし、そこからちょっとだけ進めばすぐに人工子宮ということになる。それは自然の流れとも言えるのだろうか?

『ポッド・ジェネレーション』の世界は、そんな技術がごく当たり前となった世界となっている。ここではすべてがAIによってコントロールされている。朝起きてカーテンを開けるのも、コーヒーを入れパンを焼くこともAIが勝手にやってくれる。さらには気分の浮き沈みまでケアしてくれて、ストレスが溜まってくると自然ポッドでの癒しを勧めてくれる。本作の世界は、一種のユートピアみたいな近未来なのだ。

©2023 YZE – SCOPE PICTURES – POD GENERATION

願ったり叶ったり

レイチェル(エミリア・クラーク)はそんな世界にうまく対応している女性だ。AIをうまく使いこなし、会社でも高い評価を得ている。それに対して、夫のアルヴィー(キウェテル・イジョフォー)はちょっと変わっている。植物学者として自然を崇拝しているのだ。彼はAIのこともどこか胡散臭く感じているらしく、昔ながらのやり方に固執している男性なのだ。そんな対照的な夫婦が本作の主人公だ。

レイチェルは何となく人工子宮の《ポッド》を予約していたらしい。そんな時、会社からも《ポッド》での妊娠に対して奨励金を出すという話がある。会社としては優秀な戦力であるレイチェルには継続的に働いてもらいたかったのだ。レイチェルとしても、キャリアを諦めずに子どもを作ることも出来るわけで、願ったり叶ったりということになる。

ところがアルヴィーはそれに反対する。妊娠と出産という経験はかけがえのないもので、自分がその立場なら絶対に自然に産むことを選ぶと主張するのだ。

もちろんレイチェルは反論する。妊娠と出産は女性にとってはマイナスにもなると訴えるのだ。妊娠すれば色々と不便なこともある。身体に変化も起きるし、お酒を飲むことも憚られる。それが十月十日も続き、出産には甚大な痛みも生じるわけで、楽なほうを選択できる可能性があるのなら、それを選んで何が悪いのかということだろう。こうして《ポッド》を巡る争いが生じることになる。

©2023 YZE – SCOPE PICTURES – POD GENERATION

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すばらしい世界?

脚本・監督のソフィー・バーセスが本作を作るきっかけには、いくつかの要素があるようだ。そのひとつは日本の「たまごっち」があるのだとか。ソフィー・バーセスは日本びいきのところがあるのか、本作には盆栽みたいな植物がうまく美術の中に溶け込んでいる。劇中では植物は不要なものとされ、ホログラムで代用されたりするらしい。そんな中で辛うじて生き残っているのが、人工的に作られた自然としての盆栽ということなのだろう。

本作はそんなプロダクション・デザインがとてもよくできている(“新宿の目”みたいなAIは不気味だけれど)。極端な未来ではないけれど、ちょっとだけ新しい要素が付け加わっている。自然ポッドというのは街の中心に人工的に作られた自然であり、その中で人間は人工的に癒されることになったりするのだ。

それからもうひとつのきっかけは『すばらしい新世界』という本らしい。この本はいわゆるディストピア小説としてとても有名な作品だ。ただ、『すばらしい新世界』はどこかユートピアのように感じられる部分がある。

『すばらしい新世界』の住人はすべてが壜の中で生まれ、生まれる前にあらゆることを条件付けされマインドコントロールされている。だから極端な話、誰もがとても幸せに生きていけるのだ。不快なものはなくなり、もしあったとしても政府が与えてくれるソーマと呼ばれる麻薬でそれも忘れられる。いいことくめみたいにも感じられるのだ。

だから『すばらしい新世界』の光文社版のあとがきには、こんなことが書かれている。

ジョージ・オーウェルの『一九八四年』の世界と、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』の世界――この二つの反理想郷(ディストピア)のどちらかで生きなければならないとしたら、ほぼ全員が後者を選ぶのではないだろうか。

『一九八四年』のディストピアは極端な監視社会だ。そんな世界がイヤだというのは誰にでもわかることだろう。一方で『すばらしい新世界』の場合はどうか? もしかするとこの世界をユートピアのように感じる人もいるかもしれないのだ。

しかし、実際にはそんなふうに思わされているだけということになる。“環境管理型権力”という言葉があるけれど、その最たるものがこの社会であり、人はいつの間にか自由を奪われているのに、そのことに気づかないような状態になってしまっているということだ。『ポッド・ジェネレーション』の世界もどこかでそんな世界にも感じられてくる。ディストピアであるにも関わらず、それに気づきにくい世界なのだ。

©2023 YZE – SCOPE PICTURES – POD GENERATION

女性の味方あるいは……

《ポッド》で子どもを産むなんて素晴らしい。何と言っても、女性は自分のお腹を痛めなくても済む。さらには《ポッド》は男性が面倒を見ることも可能だから、男性がその役割を担うことができる。

男性もお腹に《ポッド》を抱えて生活することで、疑似的に妊娠の体験をすることが可能になる。《ポッド》によって女性に対する男性の理解が進むことにもなるというわけだ。

本作のレイチェルとアルヴィーも、《ポッド》を使うことで変化していくことになる。古臭い人間だったアルヴィーは、AIや《ポッド》の存在に理解を示すようになり、《ポッド》を通じて父性(あるいは母性)のようなものに目覚めていく。

一方でレイチェルも変わることになる。彼女の場合は、なぜか自然の中で子どもを育てるということに意義を見出すようになっていく。どちらも互いの立場に歩み寄った形にも見える。だから本作は《ポッド》によって理想的な世界、つまりユートピアが描かれたようにも思えるのだ。

©2023 YZE – SCOPE PICTURES – POD GENERATION

ただ、オチはちょっとぼんやりしている。レイチェルがペガサス社の管理する場所から逃げ出し、自然の中で子どもを産むという選択をしたのは、どこかでペガサス社の胡散臭い部分を感じ取ったからだろう。ペガサス社がやっていることは女性の味方というよりは、資本主義社会の企業にとって都合のいいことであり、すべてを金に換えようする手段に過ぎないのだ。

《ポッド》の予約待ちが一杯になると、出産の予定を早めて《ポッド》の空きを生み出そうとすることもその一例ということになるし、エンドロールの中でペガサス社の社長が語る言葉も、すべてをコントロールして金を生み出そうという恐ろしさみたいなものを感じさせる。

結局のところペガサス社が提供したのは、妊娠という苦行(?)を《ポッド》に代行させるユートピアみたいに見えつつも、実際は女を男と同様に働かせるための仕組みでもあったのだ。ペガサス社は女性の味方ではなく、企業と結託していただけなのだ。ただ、そのことに気づいたふたりがしたことは、とても些細な抵抗でしかないわけで、オチとしてはぼんやりしている。

とはいえ、ふたりがペガサス社をぶっ潰すみたいな展開になったとしたら、いかにもディストピア然とした作品になっていたかもしれない。ソフィー・バーセス監督が『すばらしい新世界』からインスピレーションを得たというのも、それがコントロールされていることすら気づかないディストピアの怖さだったとするならば、対応としても曖昧な形にならざるを得ないのかもしれない。でも何となくイヤな感じは残るわけで、ふたりが次の子どもを望むとしたら自然な方法を選ぶのだろうか?

というか、そもそも本作はコメディだし、目くじら立てずに楽しめばいいのかもしれない。その意味では、主演のふたりの雰囲気はよかった。キウェテル・イジョフォー『それでも夜は明ける』などのシリアスな役ばかりだったけれど、意外とこっち側もイケる。

エミリア・クラーク『ターミネーター:新起動/ジェニシス』の時はサラ・コナー役には童顔過ぎるイメージだったけれど、本作ではとても表情が豊かでコメディがよく似合っていた。とても整った顔をしているのに、感情次第でクチャクチャな表情になるところが好印象だった。

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