『すべてが変わった日』 現代の西部劇、女たちの闘い

外国映画

監督・脚本は『恋するモンテカルロ』などのトーマス・ベズーチャ
原題は「Let Him Go」。

物語

1963年、モンタナ州の牧場。ジョージ(ケビン・コスナー)とマーガレット(ダイアン・レイン)は息子夫婦と生まれたばかりの孫と一緒暮らしていた。絵に描いたような幸せな生活だが、ある日、息子のジェームズが落馬事故で亡くなってしまう。

遺された義理の娘・ローナは、孫のジミーを連れ3年後にドニーという男と結婚する。しかし、ドニーは得体の知れない乱暴者で、ふたりを連れて唐突にノースダゴタ州にある彼の実家へと帰ってしまう。マーガレットはドニーがジミーとローナに暴力を振るう姿を目撃しており、ふたりを連れ戻すことを決断するのだが……。

格調高い導入部

普段はあまり事前に余計な情報は入れないようにしているのだが、まったく何も知らなければ観る映画を選ぶこともできないわけで、多少はどんな作品なのかと調べることになる。『すべてが変わった日』はケビン・コスナーとダイアン・レインが共演した“サイコ・スリラー”だという触れ込みになっていた。某映画サイトだけなのかと思っていたのだが、日本版の公式サイトにもそう記されている。

ただ、本作をサイコ・スリラーのジャンルだと思って観始めると、ちょっと調子が狂うかもしれない。冒頭、牧場で馬を調教するジェームズと、それを見守るジョージが描かれる。静かで格調高い印象の導入部なのだ。それがドニーという乱暴者の登場と、その家族であるウィーボーイ一家の存在が明らかになるにつれて、劇伴もサイコ・スリラーっぽいものになり雰囲気も変わっていく。

ウィキペディアの記載によると批評家による本作に対する評価は、「老境に差し掛かった人間が織りなすドラマとスリリングな復讐劇をうまく調和させられなかった。」といったふうに要約されるようだ(私自身もそんなふうに感じた)。

本作はマーガレットが孫のジミーを連れ戻すことを決断してからも、目的地のノースダゴタ州までの道のりはのんびりとしたロードムービーとなっていて、荒野で独りで暮らしいるネイティブ・アメリカンの青年(ブーブー・スチュワート)とのふれあいなどもあり、人間ドラマといったテイストで進んでいく。ところがウィーボーイ家という常識が通じないヤバい人間たちの登場と共に映画のジャンルが変わる。人間ドラマから突如としてサイコ・スリラーに転調し、それが全体的な調和を損なっているように感じられるのだ。

(C)2020 Focus Features LLC. All Rights Reserved.

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サイコ・スリラーなの?

サイコ・スリラーと呼ぶからには、狂った人物が登場することになるわけだが、本作におけるそれはブランチ・ウィーボーイ(レスリー・マンヴィル)という女家長ということになる。ブランチは息子たちを支配し、誰も逆らえないような家庭を形成している。この家では彼女がルールであり、ブランチの言うことには誰もが従うしかない状況なのだ。

そんなわけで本作は、サイコ一家とそんな恐ろしい場所に連れ去られた哀れな孫を助けようとする老夫婦の対決になる。老夫婦はこっそりふたりを逃げ出させる計画を立てたものの失敗し、ジョージは斧で指を切断されてしまう。

確かにウィーボーイ一家はちょっと普通からはかけ離れているのかもしれないけれど、本作に対する“サイコ・スリラー”という宣伝文句はちょっと疑問に感じた。ブランチはジョージが銃を撃てないように、息子に指を切断するように命じる。これは異常な行為ではあるけれど、ブランチは別に嗜虐趣味でそんなことをしているわけではないし、そこまでやっても警察に何とか理由を付けられるという計算もある(ジョージは銃を抜いてブランチたちに向けていたから)。

ジョージが後で語るように、その土地にはその土地の掟があり、法の支配よりもそれがまかり通っている時代なのだ。だからブランチが異常だとしても、本作をサイコ・スリラーと称するのは、勇み足というか余計な先入観を与えてしまうだけだったんじゃないだろうか(そんなジャンルの映画に見えてしまう側面があることは否めない部分もあるのだが)。

そもそも本作はケビン・コスナーがプロデューサーにも名前を連ねているのだが、わざわざその本人がサイコなキャラクターの餌食になる役柄を演じようとするとは思えない。多分、コスナーとしてはジョージというキャラクターは、ヤクザ映画で敵地に乗り込んで華々しく散っていくといったイメージだったんじゃないのだろうか(原題で「Let Him Go」も、そのあたりに関わってくることになる)。

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現代の西部劇、女たちの闘い

本作が何を狙っていたのかといえば現代の西部劇だろう。本作は60年代を舞台にしているとはいえ、現代を舞台にした『グラン・トリノ』が西部劇であるのと同じように、本作も西部劇を意図していたのだろう。

ちなみに海外の記事の中では本作を「『シェーン』のように始まり、『大砂塵』のように終わる」と評しているものがあったが、『大砂塵』という西部劇において女同士が殺し合ったとしてもそれをサイコ扱いはしないだろうし、本作のブランチが狂った人物に見えたとしても、西部劇に出てくる悪党として狂っているということだったのだろうと思う。

本作の主役は女たちだ。ウィーボーイ一家の家長であるブランチと、ジミーを取り戻すことを決断するマーガレットとの対決なのだ。ジョージやドニーや用心棒のビリー(ジェフリー・ドノヴァン)はそれに巻き込まれる形で死んでいく。ブランチは息子たちを暴力で支配し、恐怖で彼らを操っている。一方のマーガレットもジョージをうまく操っているようにも見える。暴力ではなくて愛の力で

先入観でブランチがサイコな人物だと感じてしまうと、それに対抗するマーガレットもサイコっぽく思えてくる。ジョージは「失ったものの長いリスト。それが人生じゃないのか」と語るのに対し、マーガレットは“諦めない女”だとされる。ジョージを死に向わせたのは、そんなマーガレットの意地だったんじゃないだろうか。ジョージはマーガレットの苦しみについて語るのだが、それが何によるのかはよくわからなかった。

ケビン・コスナーダイアン・レイン『マン・オブ・スティール』でも共演しているだけあって、とてもいい雰囲気を醸し出していた。ダイアン・レインはいい歳の重ね方をしているように見える(若い頃はあまりいいとは思えなかったのだけれど)。一方の悪役(?)であるブランチを演じたレスリー・マンヴィルは、『家族の庭』での演技が印象に残っているが、本作ではそれとはまったく異なる役柄でこれまたインパクトを残したと思う。そんな意味では色々と見どころも多いわけだが、“サイコ・スリラー”という余計の情報が邪魔をして本作を素直に観ることができなかったような気もする。

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