『殺さない彼と死なない彼女』 地獄の沙汰もアレ次第

日本映画

原作は漫画家・世紀末の同名漫画。

監督・脚本は『ももいろそらを』『ぼんとリンちゃん』などの小林啓一

物語

「殺すぞ」が口癖の小坂れい(間宮祥太朗)は、留年して退屈な高校生活を送っている。ある日、死んだハチをゴミ箱から救い出して埋葬しようとする鹿野なな(桜井日奈子)に興味を抱く。鹿野は「死にたい」が口癖で、いつもリストカットを繰り返している女の子だった。

「殺すぞ」と「死にたい」

「殺すぞ」「死ね」という言葉を巻き散らすれいは高校生活が退屈で仕方がなく、無意味な日々にうんざりしている。一方で「死にたい」と繰り返すななは、実際にはリストカットで自分を傷つけつつも生き永らえている。

「死にたい」女の子と、「殺したい」男の子が一緒になれば、互いの願いが叶うわけで願ったり叶ったりということになる。れいは「だったら俺が殺してやろうか」とななに近づくものの、ななは「できもしないつまらないことを聞かされると、余計に死にたくなるんだよね」と返す。

ふたりの口癖がふたりの本心を示しているわけではないことは言うまでもない。ななは飢餓で死んでいく子供たちを思い泣き出したりするが、これはななが情緒不安定であるということでもあるし、理不尽な世の中に対して不満を抱いているということの表れでもあるだろう。

れいはサッカーをやっていたものの挫折して目標を喪失して茫然としている。人生の無意味さに苛立っている点では、ななと似ているのかもしれない。ななはその不満が内向きに働き「死にたい」とつぶやき、れいは外に向って「殺すぞ」と攻撃的になるだけで、抱えているものは同じなのかもしれない。

実際にふたりが一緒にいると「早く死ね」と「殺してみろ」という応酬で、ほとんど漫才みたいな掛け合いにも見えてくる。口は悪いけれど、相手のことを理解しているし、面倒くさいと言いつつも互いのことを必要としているのだ。

(C)2019 映画「殺さない彼と死なない彼女」製作委員会

隣にいてくれる誰か

『殺さない彼と死なない彼女』は「泣ける四コマ」と評判の漫画が原作。タイトルにもなっているれいななのエピソードが中心となっているが、さらにもう二組のエピソードも並列して描かれる。

一組目は「全人類に愛されたい」きゃぴ子堀田真由)と、そんな彼女が好きな地味子恒松祐里)。もう一組は何度も告白しては玉砕している撫子箭内夢菜)と、その告白を受け入れることができない八千代ゆうたろう)だ。

名前からしてすでに型にはまったキャラで、リアルとはかけ離れてもいるのだが、それも極端に突き抜ければかえって違和感はなくなるということもある。たとえば撫子は自分に振り向いてくれない八千代につきまとい、何度も告白を繰り返す。その台詞は棒読みだし、書き言葉をそのまましゃべるのもは明らかに不自然。ただ、それもしつこく繰り返されるうちに何だか納得してしまうのだ。

そして、ななの「死にたい」という言葉が本心とは裏腹であったのと同様に、きゃぴ子八千代もその表面に現れている態度とは別のものを抱えている。きゃぴ子は母親からのネグレクトの反動で「全人類に愛されたい」と考えているわけだし、八千代はまだ子供すぎて初恋に破れたことの反動で妙に大人ぶってしまい撫子の告白を素直に受け取れないのだ。

それでもきゃぴ子には地味子という親友がいるし、八千代には飽きずに告白してくれる撫子がいる。いつも隣にいてくれる誰かによって自分が肯定されることできゃぴ子八千代もトラウマから回復することになるのだ。

※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2019 映画「殺さない彼と死なない彼女」製作委員会

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突然の転調

これに対して、ななには試練が待っている。というのも「未来の話をしよう」と約束していたはずのれいが、通り魔に刺されて死んでしまうからだ。

ななは「死にたい」というのが口癖だったわけで、未来など考えもしていなかったはず。しかし、れいの存在によって、彼の隣にいることで未来を描くことができると考えるまでになる。ところが隣にいるべきれいは突然死んでしまうのだ。

「死にたい」と考えていたななを多少なりともこの世に引き留めていたのは、ななに「殺すぞ」とツッコんでくれるれいの存在があったからだ。そのれいが居なくなってしまったわけで、ななには「死にたい」という思いをさらに加速させる要因しかないように思える。しかし、本作ではそのドン底から一気に明るい未来へと上昇していくことになる。

(C)2019 映画「殺さない彼と死なない彼女」製作委員会

ドン底からの回復

大切な人を亡くしてしまうという出来事は原作者の実体験とのこと。そこからどうやって回復したのかという点でも、原作者の体験が活かされているのだろう。

きっかけとなるのは夢だ。なな夢のなかで救いを見出すことになる。れいは現実世界ではすでに亡くなっていて、二度と会うことは叶わない。それでも夢のなかではそれが可能になる。夢は現実世界の素材を利用しているし、夢見る人の願望によって見る夢も変化していく。ななはそれを理解し、夢のなかでれいをうまく操っている。そうした作業によって自ら前向きな夢を見ることで、ドン底から一気に回復していくのだ。

もちろん夢は現実世界を材料にしているから、よほどの妄想狂の人でもない限りは一からすべての夢を作り上げることはできないだろう。れいが「未来の話をしよう」と語ってくれた事実が、そこから先の夢物語をななが構築していく材料になっていることは間違いない。それによってななは夢を操作して、れいいつも自分を見守ってくれているという物語を生み出すのだ。

そして、その物語には続きがある。実はななれいのエピソードは、ほかの二組のエピソードとは時系列的には前の出来事であることも判明する。きゃぴ子地味子は殺された同級生の葬式で、ななの叫び声を聞いているし、撫子が最初にフラれたショックから立ち直ったのも、ななが「未来の話をしましょう」と語りかけたことがきっかけだったのだ。れいの語った言葉が、ななの夢を通してさらに強固なものとなり、その後に撫子にも受け継がれていくことになっているわけだ。

地獄の沙汰もアレ次第

れいななは絶妙な関係でとても心地いい雰囲気を持っているのだが、現実世界では距離感があったようにも見える。この距離感は本作の撮り方の問題だろう。れいの部屋でふたりが一緒にゲームをしている場面などでは、隣り合って座っているのに距離感を感じるのだ。

この場面ではふたりは極端に被写界深度が浅い映像で捉えられている。手前にいるれいの顔に焦点が当たると、向こう側のななの顔はぼんやりとしてしまうし、逆にななの顔に焦点が当たるとれいの表情は見えなくなってしまうのだ。いかにも仲の良さそうなふたりを、わざわざ距離感を感じさせるような撮り方をしているように見えるのだ。

そんなれいなな一気に距離を縮めるのは、現実ではなくて夢のなかだ。現実世界では屋上でななの飛び降りを防いだ場面を別にすれば付かず離れずという距離を保っているのだが、ふたりは夢のなかでしっかりと互いを抱きしめることになる。現実は思い通りになるわけではないが、夢はある程度操作できるからだろう。

そして、その夢を操っているのは夢を見ているななだ。ななは自分が夢を見ているということを理解して、自由に夢の物語を生み出している。これは生き残った者が過去の記憶をどのように捉えるかという問題でもあるように思えた。その捉え方次第で、ななのように大切な人を亡くした者でも生きていけると語っているのだ。

本作は露出オーバー気味の映像で、すべてが白い靄に包まれているようにすら見える。「キラキラ映画」風のルックということなのかもしれないし、実際明るい未来が語られる作品でもあるのだが、そこに至るまでがかなり屈折している。ドン底からのきりもみ式の急上昇はかなりの力技という気もするのだが、だからこそ原作者の切実なものを感じさせた。

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