『聖地には蜘蛛が巣を張る』 シリアルキラー in Iran

外国映画

監督・脚本は『ボーダー 二つの世界』などのアリ・アッバシ

カンヌ国際映画祭では主演のザーラ・アミール・エブラヒミが女優賞を獲得した。

原題は「Holy Spider」。

物語

聖地マシュハドで起きた娼婦連続殺人事件。「街を浄化する」という犯行声明のもと殺人を繰り返す“スパイダー・キラー”に街は震撼していた。だが一部の市民は犯人を英雄視していく。事件を覆い隠そうとする不穏な圧力のもと、女性ジャーナリストのラヒミは危険を顧みずに果敢に事件を追う。ある夜、彼女は、家族と暮らす平凡な一人の男の心の深淵に潜んでいた狂気を目撃し、戦慄する——。

(公式サイトより抜粋)

イランの連続殺人事件

本作はイランで実際に起きた「16人娼婦連続殺人事件」をもとにして作られている。連続殺人犯を描いた映画は珍しくはないわけだが、場所や文化が異なると周囲の受け取り方も変わってくる。そこが本作の興味深いところとも言える。というのは、本作はイランというイスラム文化圏を舞台にした作品だからだ。

イランでは7歳を越えた女性はヒジャブをつけることを強制される。これはイスラム法に規定されたものだという。女性は手と顔以外はみだりに見せるべきではないということで、これはクルアーンに書かれていることに基づいているとされる(実際には髪の毛を隠せなどと書かれているわけではないらしいのだが)。

監督のアリ・アッバシはイラン出身で北欧のデンマークを拠点としているらしい。前作『ボーダー 二つの世界』でも、不思議な性行為のシーンをあからさまに描いていたところにインパクトがあったのだが、本作でも娼婦の裸をあからさまに描いている。

冒頭に登場する女性は子供がいる娼婦なのだが、その彼女が上半身裸で鏡に向って仕事に向かう前の身だしなみを整えている。そして、化粧を施すと彼女はヒジャブを身にまとうことになる。イスラム圏においては女性はヒジャブを被り肌を見せないこととなっているわけで、本作のようにヒジャブを身にまとう女性の裸が描かれるのはあまり見ないような気もする。

もっとも本作はイランで製作されたものではないようだ(撮影場所はヨルダン)。イランは検閲が厳しいらしいし、そもそもこのような内容の映画を作ること自体が許可されないのだろう。本作においては、娼婦たちはスパイダー・キラーと呼ばれる殺人犯に次々と殺されていくことになる。彼女たちがヒジャブで首を絞められ、顔をゆがめ、もがき苦しみ死んでいく様子をあからさまに描いているのだ。

(C)Profile Pictures / One Two Films

実在する道徳警察

『聖地には蜘蛛が巣を張る』の主人公は二人いる。ひとりは殺人犯のスパイダー・キラーであり、もうひとりがラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)という女性記者だ。彼女はスパイダー・キラーのことを追って、事件の舞台となっている聖地マシュハドにやってくる。公式サイトによれば、この土地はイラン国内における最大の聖地なのだそうで、「非常に保守的な宗教の中心地」ということだ。

ラヒミは地元記者の協力を得て取材を開始することになるのだが、彼女は女性ということだけであちこちで不当な扱いを受けることになる。

ラヒミはホテルの部屋を予約していたのだが、彼女が若い女性とわかると急にホテル側は宿泊を拒否しようとする。これがどういう意図なのかはわからないけれど、ジャーナリストだという素性を打ち明けてようやく部屋を貸してもらえることになる。女性が一人でホテルに部屋をとること自体も珍しいということなのかもしれない。

さらにホテルのスタッフはラヒミの髪がヒジャブからはみ出ていることに文句をつけてくる。ラヒミはそれを一蹴することになるのだが、イランでは周囲がそんな目で女性を監視しているということらしい。

劇中では“道徳警察”という言葉が出てくるのだが、私はこの言葉を比喩的なものと理解していた(“マスク警察”みたいに)。しかし、イランでは女性の服装の戒律違反を取り締まる「道徳警察」というものが実在するようだ。

2022年にヒジャブのつけ方を問題視されたクルド人女性が逮捕され、その後に死亡するという事件もあった。警察側はその女性が死んだのは心臓に問題があったからと発表したようだが、家族は警察から暴力を受けた可能性を指摘している。ヒジャブのつけ方が生死の問題にもつながってしまうほど保守的な社会ということなのだ。

(C)Profile Pictures / One Two Films

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“使命”としての娼婦殺し

ラヒミが追っているもう一方の主人公とも言えるスパイダー・キラーだが、その正体はすぐに明らかになる。サイード(メフディ・バジェスタニ)というその男は、妻とふたりの子供がいる家庭人だ。そんな家庭人の彼がなぜか連続殺人に及んでいる。

サイードの娼婦殺しは何度か繰り返し描写されることになるのだが、そこには快楽殺人の要素はまったくない。サイードはとても禁欲的にそれをこなしているのだ。一度は殺した娼婦に欲情を催すようなシーンもあるのだが、それを自ら間違ったこととして抑制している。

それというのもサイードは自分がやっていることが神のためだと信じているからだろう。彼はイラン・イラク戦争に従軍した退役軍人だ。彼は戦場で死ぬことこそが殉教と感じていたようだが、それは叶わず日常生活に戻ってくることになってしまった。それでもサイードは自分には果たすべき役割があるはずだと考え、それが彼を娼婦を殺して「街を浄化する」という極端な行動に導いたということなのだ。

サイードは敬虔なムスリムで、そのことが彼を娼婦殺しに駆り立てる。彼は娼婦殺しを“使命”のように感じているのだ。だから犯行は性急でもあり、かなり無理なこともしている。大柄な女性を狙った時には、反撃されて馬乗りになられたりもするし、遺体を運ぶのに難儀してケガを負ったりもする(その姿はちょっと滑稽でもある)。それほど必死になって娼婦殺しを続けるのは、やはり神のためなのだろうし、犯行が雑なのもどこかで神から守られているという意識もあったのだろう。

しかしサイードは囮になったラヒミと出会い、墓穴を掘ることになる。ラヒミの命懸けの行動でようやくスパイダー・キラーことサイードは警察に逮捕されることになる。当然これで一件落着ということになるのかと思いきや、それで終わりにはならない。むしろそこから先こそがキモであり、アリ・アッバシが撮りたかったところなのだろう。通常の連続殺人犯の映画とはまったく違った展開となっていくのだ。

(C)Profile Pictures / One Two Films

なぜ聖なる存在に?

それまでサイードは新聞社に犯行声明を送るなどして自分の主張を一部では訴えていたのだが、新聞社はその内容を詳しく発表することはなかったようだ。「宗教には触れるな」という上層部の方針があったからだ。だから連続殺人ということはニュースになったとしても、殺されていたのが娼婦ばかりだということはあまり知られてなかったようだ。

しかし裁判でサイードが娼婦を殺して「街を浄化した」という主張を繰り返すようになると、彼は恐怖の連続殺人犯スパイダー・キラーから聖なる人物ホーリー・スパイダーに祭り上げられることになる。マシュハドの市民たちは彼を英雄にし、釈放を求めるような動きまで出てくることになるのだ。

連続殺人犯に対して「死刑台に送れ」と怒りを表出するのなら理解しやすいが、この市民たちの反応は通常の連続殺人犯に対する反応とは正反対のものだろう。

市民からのエールによって、サイードはより一層自らの主張に自信を持ち、彼は自分の首に縄をかけられる直前まで、神によって救われることになると考えていたようでもある。快楽殺人者も異様かもしれないけれど、サイードには別の異様さがある。

通常なら連続殺人をするような人間には理解し難い異常性を見出したくなるだろう。サイードを捕まえたラヒミもそんな言葉を漏らしているのだが、サイードは裁判でも自らの“まともさ”を主張する。

サイードからすれば真っ当な精神で神のためにしたことが一連の犯行であり、それに対して申し開きすべきことはないことになる。道徳を乱していた汚れた女たちを始末することは、宗教的な務めだと主張するのだ。そして、多くの市民がそれに賛意を示すことになり、サイードは聖なる存在であるかのように一部では受け止められることになっていく。

こんなことはほかの土地ではあり得ないことのようにも感じられるが、「非常に保守的な宗教の中心地」であるマシュハドではあり得ないことが起きてしまっているのだ。

(C)Profile Pictures / One Two Films

ここにはイスラム文化圏におけるミソジニーが働いている。ちなみにミソジニーに関してはこの記事が説得的だったので紹介しておきたい。

記事によればミソジニーというのは一般的には女性嫌悪と訳されているけれど、それ以上に「家父長制的な社会秩序を監視し、それを実現しようとするシステム」ということになるのだそうだ。だから女性一般が嫌悪の対象となるわけではなく、伝統的な社会秩序を乱すと考えられる女性だけがその対象となるのだ。

そうだとすればラヒミのように聖職者や警察幹部に盾突くような女性は社会秩序を乱すものとして歓迎されないことになるだろう(実際に彼女は警察幹部に脅されてもいる)。そして、不道徳な行為をしている娼婦たちは服装規定などよりももっと正すべきものとされることになるのだろうし、そんな娼婦を始末したサイードは社会秩序の守護神ということになるというわけだ。

本作が恐ろしいのはそうしたミソジニーが受け継がれていくことが描かれているところだろう。サイードの息子は突然ヒーローとなった父親に憧れる。そして、それを後押ししているのはサイードがやったことに対する母親や周囲の反応なのだ。周囲がミソジニーの継承を促しているのだ。

アリ・アッバシ監督としては、それはイスラム教の影響というよりも、文化的で習慣的なものとして受け継がれていくと考えているようだ。

ラストでサイードの息子は嬉々として父親のやった娼婦殺しを真似してみせる。その瞳があまりにも純真なものだけに、余計に不気味なものを感じることになるだろう。

前作ほどの強烈なインパクトがあったとは言えないけれど、まったく違うジャンルでありながら本作も観客が揺さぶられるようなものを含んだ見応えある作品になっていたんじゃないだろうか。

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