『最後の決闘裁判』 微妙な差異の意図は?

外国映画

原作とされているのはエリック・ジェイガーのノンフィクション『決闘裁判 世界を変えた法廷スキャンダル』

監督は『グラディエーター』などのリドリー・スコット

脚本は『グッド・ウィル・ハンティング旅立ち』で共同でも脚本を書いたマット・デイモンベン・アフレック。さらにもう一人名前を連ねているのは『ある女流作家の罪と罰』などのニコール・ホロフセナー

原題は「The Last Duel」。

物語

中世フランス──騎士の妻マルグリットが、夫の旧友に乱暴されたと訴えるが、彼は無実を主張し、目撃者もいない。真実の行方は、夫と被告による生死を賭けた“決闘裁判”に委ねられる。それは、神による絶対的な裁き── 勝者は正義と栄光を手に入れ、敗者はたとえ決闘で命拾いしても罪人として死罪になる。そして、もしも夫が負ければ、マルグリットまでもが偽証の罪で火あぶりの刑を受けるのだ。果たして、裁かれるべきは誰なのか?あなたが、この裁判の証人となる。

(公式サイトより引用)

決闘裁判とは

中世のヨーロッパでは決闘裁判というものがあったらしい。目撃者や証拠などもなく決着のつけようがない問題を、裁判ではなく決闘によって代替したのだ。これは神はすべてを知っているから、正しい者に味方するはずという考えがあったからだ。だから決闘裁判に訴えれば、たとえ真実がどうであったとしても決闘によって勝ったほうが正しくなり、負けたほうには死が与えられる。本作は1385年にあった「最後の決闘裁判」とされる出来事について描いている。

出来事のあらましはこうだ。ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)が戦地から戻ってくると妻のマルグリット(ジョディ・カマー)がレイプされたと訴える。しかもその相手はカルージュの友人でもあるジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)だという。カルージュはル・グリを言うも憚られる不名誉な罪で訴えることになるが、ル・グリはそれを否定し、カルージュは国王に直訴し決闘での決着を望むことになる。

(C)2021 20th Century Studios. All Rights Reserved.

ラショーモンアプローチ

本作はその出来事を3人の視点から描いていく。第1章は被害者マルグリットの夫であるジャン・ド・カルージュの視点。第2章は加害者とされるジャック・ル・グリの視点。そして最後の第3章が被害者であるマルグリットの視点となる。

これは明らかに黒澤明『羅生門』と同じ構成だ。ただ、違う部分もある。『羅生門』の原作は芥川龍之介の「藪の中」という短編であり、映画『羅生門』が描くのは「真実は藪の中」という真理だった。

一方で『最後の決闘裁判』の真実はおおよそ明らかだ。それでも起きた出来事はひとつでも、それを受け取る側は様々に受け取ることになる。それぞれの主観は同じ出来事を少しずつ違う物語として紡ぎ出すことになるのだ。

勇猛果敢か直情径行か

第1章はカルージュの視点から語られる。これによるとカルージュは勇猛果敢で領主のために命を惜しまない忠実な家臣ということになる。妻マルグリットとの関係もカルージュは無骨ではあるけれど、妻を愛しているからこそ決闘に訴えることになったものとして描かれる。妻をレイプされ、その名誉の回復のために命を賭ける悲劇の主人公といったイメージだ。

しかし第2章になるとカルージュのイメージも変わることになる。ル・グリの視点からすれば、カルージュは直情径行の荒くれ者になる。ル・グリは領主ピエール(金髪になったベン・アフレックが好演している)の命令に忠実に領地を守ろうとしていたのに、カルージュは敵の挑発に乗り勝手に戦闘を始めてしまったからだ。

とはいえ本作の本丸であるレイプ事件に関してはル・グリの証言は分が悪い。ル・グリはレイプをしたことをピエールに認めている。やったことは事実だが、それはマルグリットも望んでいたことだというのがル・グリの言い分ということになるのだが、どう見てもル・グリの勘違いだからだ。ル・グリは領主ピエールと一緒に女遊びに耽ることも多かったから、普段ピエールたちとやっていたような“お戯れ”をマルグリットにもしてしまったということなのだろう。

(C)2021 20th Century Studios. All Rights Reserved.

微妙な差異の意図は?

第3章はレイプ事件の被害者であるマルグリットの視点から描かれる。マルグリットからすると、夫のカルージュは彼女のことを子供を産ませるための道具としてしか見ていないように感じられている。そしてレイプ事件の後にそれを決闘に訴えるのは、妻への愛情ではなくライバル関係にあったル・グリへの対抗心のようにしか見えないのだ。

本作では同じ出来事が微妙な差異をもって繰り返される。くだんのレイプ事件はル・グリの視点からと、マルグリットの視点から二度繰り返される。ル・グリから見るとマルグリットは貴婦人のために言葉では拒否しているけれど、それは嗜みのようなもので本心は別にあると感じられている。マルグリットはル・グリが住まいに押し入ったのを見て逃げ出すことになるのだが、ル・グリの視点の時はマルグリットは靴を自ら脱いで何か誘っているように見えなくもない。これがマルグリットの視点となると、必死に逃げたことで靴が脱げてしまうという描写になるのだ。

それからそれぞれの主観によって言い落されることもある。ル・グリ視点では事はあまりにもスムーズに進むわけだが、マルグリット視点になると組伏せられたマルグリットの上でル・グリがベルトを外す音が聞こえる。ル・グリ視点で言い落されていることが、マルグリット視点では恐怖の瞬間として印象的に捉えられていることになるのだ。

本作が構成を借りている『羅生門』では、すべてが森の奥で起きたことだから3人以外に出来事を知る者はいなかった。だから3人はそれぞれ自分に都合のいい嘘を証言する。しかし、『最後の決闘裁判』の場合はある程度は事件は明らかだし、衆人環視の中で起きることもあるから嘘の入る余地はない。ただ、それぞれの主観は同じ出来事を別のものとして受け取らせる。

たとえば三度繰り返される衆人環視の中でのマルグリットとル・グリのキスの場面。これはカルージュとル・グリの和解のためのキスということになるが、本作をそれを微妙な差異で三度描写している。ル・グリの側からすればマルグリットはその瞬間に秋波を送ったということになるかもしれないが、マルグリットからすれば女遊びが過ぎるル・グリに対し警戒した目を向けているように見える。出来事は同じでも、それを受け取る側によって三者三様に解釈されているというわけだ。

最初はこの繰り返しを冗長とも感じていたのだが、今になって振り返るとそれは意図されたものだったと理解できる。『羅生門』のように明確な差異がないように思えたのだが、これは『羅生門』が導き出そうとしているのが「真実は藪の中」というものであったからで、『最後の決闘裁判』の狙いはそれではない。起きた出来事は同じでも主観の違いによって受け取り方も違うものになることを強調するための繰り返しだったわけだ。

(C)2021 20th Century Studios. All Rights Reserved.

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女性の視点から

本作では章が変わるごとにタイトルが表示されるのだが、第3章では「マルグリットによる真実」というタイトルが表示された後に「Truth」という文字だけが残ることになる。第3章で描かれることが真実だということを示しているのだろうし、本作のキモも第3章にある。ちなみに本作の第3章は共同脚本として参加しているニコール・ホロフセナーが書いた部分とのこと。マルグリットの視点から描かれる第3章は女性脚本家の視点で描かれているのだ。

マルグリットはレイプ事件に泣き寝入りすることなく闘った女性だが、この第3章では当時の女性の弱い立場が見えてくる。カルージュの母親はかつて自分もレイプの被害にあったにも関わらず誰にも言わずに黙っていたと語る。この言葉は息子であるカルージュをマルグリットが決闘に巻き込んだことに対する恨み事なのかと思っていたのだが、それだけではなかったのだ。

決闘裁判では負けたほうが死ぬことになるわけだが、それには奥方であるマルグリットの運命も賭けられていることが判明する。しかもそれが判明したのは決闘裁判の儀式の最中であり、すでに後戻りできない状態なのだ。万が一カルージュが負けたとすると、マルグリットも嘘をついたということで同罪ということになり、丸裸にされて生きたまま火あぶりにされる。レイプの被害者が逆に死刑にされてしまうということもあり得るということで、理不尽極まりない話なのだ。

カルージュの母親がレイプを訴えなかったと語った時に「だからこそ私は生きている」と語っていたのは、決闘裁判に訴えれば、訴えた女性が殺される可能性があることを知っていたからだろう。それでもカルージュの母親はマルグリットのことが気に入らないのか、そのことを黙っているわけだが……。

(C)2021 20th Century Studios. All Rights Reserved.

カルージュは決闘裁判によりマルグリットを危険に晒すことを知りつつも、そのことをマルグリットに知らせることはなかった。恐らくカルージュはマルグリットのことを自分の所有物としてしか見ていない。カルージュが意識しているのは自分の面子メンツだけなのだ。マルグリットと身籠った子供のことを考えれば自分の面子など捨ててもいいはずだが、カルージュは自分の面子が第一で、そのために命を賭けているのだ。

ラストでは辛うじて勝利を手にしたカルージュがマルグリットと抱擁を交わし、集まった群衆は歓喜に沸く。マルグリットには群衆の声に手を振って応えるカルージュの姿がどんなものに見えていただろうか。マルグリットの唖然としたような視線は、その意味するものを如実に示していると言える。

『グラディエーター』で描かれたローマのコロッセオの戦いと同じで、決闘裁判も大衆に消費される見せ物でしかない。レイプ被害に泣き寝入りすることなく闘ったつもりだったマルグリットだが、結局は男たちの面子を巡る争いに巻き込まれてしまっていたことに気づかされることになるのだ。

史実によれば決闘裁判はこれが最後とされているわけだが、それ以降も私闘として「名誉のための決闘」というものは行われていて、19世紀半ばまではヨーロッパで広く行われたとのことだ。ちなみにリドリー・スコットの初監督作『デュエリスト決闘者』は1800年を舞台にした作品だった。男たちのバカげた闘いはその後も続いていたということなのだろう。そんなふうに言いつつも、映画の観客としては、ラストの壮絶な決闘シーンに血沸き肉躍るものを感じてしまう部分があるのは否めないというのが正直なところなのだけれど……。

『羅生門』は木漏れ日の輝きが鮮烈だったけれど、『最後の決闘裁判』はそれとは正反対の寒々しい曇天で統一されている。暗黒時代の中世というイメージをビジュアル化したリドリー・スコットの手腕は見事だったし、エンターテインメントにも仕上がっていて作品の完成度はとても高い。

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