『ベルイマン島にて』 虚構は現実から生まれる

外国映画

監督・脚本は『グッバイ・ファーストラブ』などのミア・ハンセン=ラヴ

原題は「Bergman island」。

物語

映画監督カップルのクリスとトニーは、アメリカからスウェーデンのフォーレ島へとやって来た。創作活動にも互いの関係にも停滞感を抱いていた二人は、敬愛するベルイマンが数々の傑作を撮ったこの島でひと夏暮らし、インスピレーションを得ようと考えたのだ。やがて島の魔力がクリスに作用し、彼女は自身の“1度目の出会いは早すぎて2度目は遅すぎた”ために実らなかった初恋を投影した脚本を書き始めるのだが──。

(公式サイトより抜粋)

ベルイマン島とは?

本作のタイトルは「Bergman island」、つまり「ベルイマン島」だ。実際の島の名前は「フォーレ島」なのだが、映画界の巨匠として名を馳せたイングマール・ベルイマンが住んだ島として有名になってからは、ベルイマンの聖地としてそんなイメージで捉えられているということなのだろう。

ベルイマンは2007年に亡くなったが、その後、本人の遺志で家や財産などがすべてオークションにかけられた。最終的にはノルウェーのビジネスマンがそのすべてを買い取り、それらが散逸することを防いだのだという。そして、彼はベルイマンとリヴ・ウルマンの娘であるリン・ウルマンと財団を立ち上げて、アーティストなどの支援に当たっているらしい。この制度を利用して、本作の主人公である映画監督のふたりはフォーレ島に滞在することになるのだ。

本作を観ると、フォーレ島ではベルイマンの遺産によって観光業が成り立ってもいるようだ。劇中でも登場するように「ベルイマン・サファリ」というベルイマン映画の撮影場所などを巡るバス・ツアーなどもあり、島の大事な財産になっているのだろう。

ベルイマンとフォーレ島の出合いは、劇中での説明によると『鏡の中にある如く』の時だとされる。ほかの国で撮影しようとしていたベルイマンはフォーレ島を知り、その美しさに惹かれ、そこに住むようになったらしい。ほかにも『仮面/ペルソナ』『ある結婚の風景』などの作品がこの島を舞台にして撮られている。

また、私自身は観ることが出来ていないが、ドキュメンタリー作品として『フォール島の記録』『フォール島の記録1979』という作品もある(タイトルが「フォール島」になっているがフォーレ島のこと)。この島がどれだけベルイマン作品にとって重要な場所であったかということがわかるだろう。

本作に登場するふたりの映画監督もベルイマン作品の信奉者だが、私自身もベルイマン作品に大いに刺激されたひとりで、拙いながらもいくつかの作品のレビューを前のブログで書いたりもしている。本作はベルイマンが好きな人にとっては、単純にベルイマンの聖地巡りとしても楽しめる作品になっている。

それからあまり聞いたことのないエピソードもあった。牧師の息子であったベルイマンは「神の沈黙 三部作」など呼ばれる作品を撮っている無神論者なのだと思うが、幽霊は信じていたのだとか。ベルイマンは最後の作品『サラバンド』を、最後の妻であるイングリッドに捧げている。ベルイマンは先に亡くなったイングリッドの霊を、フォーレ島の自宅で感じていたのだとか(そう言えば、『ファニーとアレクサンデル』には幽霊が登場していたけれど)。そのほかにも様々なベルイマン情報が詰まっているので、ベルイマンのファンには興味深い点があるんじゃないだろうか。

(C)2020 CG Cinema – Neue Bioskop Film – Scope Pictures – Plattform Produktion – Arte France Cinema

賛辞と批判

本作の主人公カップルは共に映画監督だ。トニー(ティム・ロス)はすでに大御所らしく、多くのファンが彼の作品を待ちわびている。クリス(ヴィッキー・クリープス)はまだ若く売り出し中といったところ。どちらもベルイマン映画のファンであり、財団の人たちとの間でベルイマン談義が繰り広げられる。そんなわけで本作はベルイマン賛辞が続くのかと思っていると、意外にも批判めいた言葉も出てくる。

もちろんベルイマンは多くの人が認める巨匠であり、生涯に50本もの作品を発表した勤勉な人でもある。しかもそれ以外に演劇界でも多くの業績を遺しているので、その仕事ぶりはほかに類を見ないほどのものがあるだろう。

しかし、クリスはそんなベルイマンに対し疑問を投げかける。ベルイマンは6人の女性との間に9人の子供がいた。その子育てをベルイマンが映画を製作しながらこなしていたかと言えばそんなことはないわけで、要は、ベルイマンは仕事のために家庭を顧みないような人生を送ってきたということになる(最後の妻イングリッドは子供たちとベルイマンとの関係の修復を図ったようだが)。

クリスは「好きなアーティストにはいい人でいてほしい」とこぼすのだが、それに対して財団の人は「ベルイマンは作品でも私生活でも残酷だった」と告げる。ベルイマンの作品は認めるけれど、家庭を顧みない生き方はどうなのだろうか、そんな疑問をクリスは抱いているのだ。それはクリス自身もこれから映画監督として生きていくつもりだからだろう。

(C)2020 CG Cinema – Neue Bioskop Film – Scope Pictures – Plattform Produktion – Arte France Cinema

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虚構は現実から生まれる

トニーはフォーレ島でインスピレーションを受けたのか脚本執筆に精を出しているのだが、一方でクリスはいまひとつ筆が進まない。そんな時、クリスは下着姿でトニーの部屋を歩き回ったりするのだが、トニーは仕事に夢中であまり相手にしてくれない。ふたりの関係はそんな状態にある。

そのことはクリスが現在書き進めている脚本にも反映されているように見える。その脚本は、本作の後半でクリスがトニーにその大筋を聞かせる形で展開することになる。劇中劇「The White Dress」はクリスの脳内で映画化され、本作の後半はクリスたちの現実は後景に退き、その劇中劇が前面に出ることになる。

『ベルイマン島にて』のクリスとトニーは、本作の監督であるミア・ハンセン=ラヴと、元夫であるオリヴィエ・アサイヤス『イルマ・ヴェップ』『アクトレス〜女たちの舞台〜』などの監督)との関係がモデルとなっている。

そして、その登場人物であるクリスは、劇中劇「The White Dress」で自らをモデルとしてエイミーを生み出した。さらに、劇中劇「The White Dress」の中でエイミーはデビューしたばかりの映画監督であり、その作品はエイミー自身の体験を題材にして生まれたものとなっている。こんなふうに映画監督は自分の体験をもとに、映画という虚構を作り上げることになり、本作はそれが入れ子構造のようになっているのだ。

「The White Dress」について記しておくと、主人公エイミー(ミア・ワシコウスカ)はフォーレ島での友人の結婚式に出席するのだが、そこで彼女はかつての恋人ヨセフ(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)と再会することになる。彼とのことを描いた作品がエイミーのデビュー作なのだ。しかし、今ではふたりにはそれぞれ別の生活がある。エイミーには別の男性との間に出来た子供もいるのだが、それでもヨセフのことが気になって仕方がないのだ。

このエイミーとヨセフの関係は、現実のクリスとトニーの関係を反映しているのだろう。クリスがトニーのことを見ているのに、トニーは仕事のことばかりにかまけている。それと同様に、エイミーは久しぶりのヨセフと旧交を温めたいのに、ヨセフは彼女と距離を置こうとしているのだ。

最終的にはエイミーとヨセフは肉体関係を持つことになるけれど、切ない終わり方をすることになる。ヨセフには別の女性がいて、エイミーはヨセフがその女性と結婚することを知り、枕を涙で濡らすことになるからだ。そして、ヨセフは島にエイミーを残したまま、ひとりで先に帰ってしまう。

クリスはここまでの脚本をトニーに語り、結末について悩んでいると告げる。現在の案はエイミーが自分の白いドレスで首をくくるという結末なのだが、それはトニーに陳腐だと一蹴されてしまう。

(C)2020 CG Cinema – Neue Bioskop Film – Scope Pictures – Plattform Produktion – Arte France Cinema

劇中劇のラストは?

「The White Dress」のラストはどうすればいいか? 当然ながら、それは最終的には脚本を書いているクリスが決めることだ。トニーは仕事でフォーレ島を3日ほど離れることになり、クリスは劇中劇のエイミーと同じようにひとりで島に残されることになる。

そうなるとそこから先に描かれるのは、クリスが苦しみつつ見出した「本当のラスト」が描かれることになるのだろう。そんなふうに予想していたのだが、意外な展開を見せることになる。クリスの現実とエイミーのいる虚構が交じり合うような展開をしていくのだ。

まず、クリスがエイミーと同じ格好で登場する(なぜかふたりともノーブラだ)。もともとエイミーはクリスの分身だったわけで、このシーンではクリスが劇中劇「The White Dress」の中に入り込んだように見える。さらにクリスがベルイマン宅のイングリッドの部屋で出会うのはエイミーの元カレであるヨセフなのだが、クリスは彼のことを「アンデルシュ」と呼ぶ。劇中劇でヨセフを演じていたのがアンデルシュ・ダニエルセン・リーなのだ。しかもいつの間にかにその部屋には撮影機材が並んでいる。つまりはここでは劇中劇「The White Dress」の撮影が行われていたということになる。

これは一体どういうことなのか?

(C)2020 CG Cinema – Neue Bioskop Film – Scope Pictures – Plattform Produktion – Arte France Cinema

現実への回帰?

その後のラストシーンでは、島に戻ってきたトニーが娘を連れてきて、クリスが会いたがっていた娘と抱き合って終わる。最初は予想外の展開に戸惑うばかりだったのだが、後になって考えると、これはクリスが虚構の世界から現実へと回帰する話だったようにも感じられた。

映画監督は現実の経験をモデルにして映画という虚構を生み出すわけだが、その前には撮影という作業がある。現実から脚本を創造し、それを撮影し、映画という虚構が生まれる。

本作ではクリスはいきなり劇中劇「The White Dress」に入り込んでしまうわけだが、そこから撮影現場という虚構と現実の中間地点を通り、現実世界にいる娘と抱き合うことになる。こんなふうに虚構世界から現実への回帰が描かれているのだ。

そう考えるのはクリスがベルイマンへの批判として語っていたのが、映画という虚構世界に耽溺しすぎるあまり、家庭というものを顧みなかったということだったからだ。さらに言えば、クリスの相方であるトニーも自分が作り出す虚構世界にのめり込んで、クリスのことを気にかけていないからだ(女性がサディスティックにいたぶられている挿し絵が描かれた脚本を書いているトニーは、その仕事をひとりで楽しんでいるようにも見える)。だからクリスはそんな男たちを反面教師として、最後は娘を抱きしめることで終わることになるのだ。

以上が私自身の解釈だ。この解釈では、ベルイマン宅の撮影現場はクリスが見た夢のようなものとなる。だが、この撮影現場を未来のものと考え、クリスが劇中劇「The White Dress」を製作中だと解釈することもできる。どちらにも解釈できるように構成にされているのだろう。

後者の場合、なぜ「The White Dress」の結末がうやむやになってしまうのかが説明できないようにも感じられる。一方の前者(私の解釈)の場合、クリスは虚構よりも現実の娘を選んだということで、劇中劇の結末がなくても理解できる。ただ、その場合は『ベルイマン島にて』の監督であるミア・ハンセン=ラヴが現実には監督として活躍していて、本作を世に出している事実と整合性が取れないのかもしれない。つまりはどちらとも考えられるということなのだろう(あるいはどちらにも矛盾が生じる)。

繰り返しになるが、クリスのベルイマン批判は、映画という虚構にのめり込むあまり現実世界の家族を疎かにしているという部分だった。ちなみに『叫びとささやき』に対するクリスの評価は、「カタルシスを得られないホラーだ」というものだった。ホラー映画は現実には起きるはずもないことだとして観終わった後は安心できるのだが、ベルイマン映画の恐怖は現実そのものだからだ。『ある結婚の風景』における夫婦の言い争いなどは、まさにこの世の地獄のようだったではないかというわけだ。

こんなふうにクリスの考えは、われわれが住まう現実と、それをもとにして生み出される虚構との関係を基調にしているのだろう。そして、常に新作映画という虚構の世界のことを考えている映画監督という生き物は時に現実と虚構を混同してしまったり、時に虚構のほうにのめり込みすぎて現実に支障を来たすようなこともあるのかもしれない。かといって娘のことを放り出してまだ仕事に邁進するわけにもいかないわけで、クリスがフォーレ島まで出向いてベルイマンから学んだのは、仕事とプライベートとのバランス感覚ということだったのかもしれない。

本作はベルイマンの聖地で撮影されているとはいえ、ベルイマン作品とは似ていない。ミア・ワシコウスカの憂い(それとも怒り?)を帯びた視線が印象的な劇中劇「The White Dress」は切ない話だったけれど、クリスとトニーはそれなりに穏やかな日々を過ごしているのだ。そして、本作はベルイマンが使わなかったというシネマスコープのカメラが、フォーレ島の美しい風景や登場人物の姿を追っていく。その緩やかなカメラの動きがとても心地よい作品だったと思う。

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