『フェイブルマンズ』 真実、嘘、意図せざるもの

外国映画

監督は『ジョーズ』『E.T.』『ブリッジ・オブ・スパイ』などのスティーブン・スピルバーグ

本作はスピルバーグの自伝的作品とされ、脚本にはスピルバーグに加え、『ミュンヘン』などのトニー・クシュナーが参加している。

アカデミー賞では作品賞、監督賞など計7部門にノミネートされている。

物語

初めて映画館を訪れて以来、映画に夢中になったサミー・フェイブルマン少年は、8ミリカメラを手に家族の休暇や旅行の記録係となり、妹や友人たちが出演する作品を制作する。そんなサミーを芸術家の母は応援するが、科学者の父は不真面目な趣味だと考えていた。そんな中、一家は西部へと引っ越し、そこでの様々な出来事がサミーの未来を変えていく──。

(公式サイトより抜粋)

プライベートな内容

50年以上にも渡って数々のヒット作を世に送り出し、すでに巨匠の名をほしいままにしているスティーブン・スピルバーグの初めての自伝的作品『フェイブルマンズ』

この作品が生まれた経緯には、新型コロナが影響しているようだ。パンデミックで明日のこともわからないという状況の中、「作らずには死ねない作品があるとすれば」とスピルバーグ が考えた時に、この自伝的な物語が浮かび上がってきたらしい。

また、『フェイブルマンズ』が今になって映画化されたのにはもう一つ理由がある。それは本作がとてもプライベートな内容を扱っているからで、それを描くことで“誰か”を傷つけてしまう可能性があったからだ。この“誰か”というのはスピルバーグの両親のことで、2017年に母親のリアが亡くなり、父親のアーノルドは103歳の2020年まで生きたとのこと。

ふたりがそんなふうに大往生したことによって、スピルバーグが抱えていた心配事は解消され、ようやく本作に着手することができたということらしい。とはいえ、本作に描かれる秘密は実際にあったことであり、その秘密を明かしてしまうことには葛藤もあったようだが、そのことは作品のテーマにも通ずるものにもなっているのだ。

(C)2022 Universal Pictures. ALL RIGHTS RESERVED.

芸術と家族の間

主人公サミー(ガブリエル・ラベル)が最初に観た映画は1952年の『地上最大のショウ』セシル・B・デミル監督)だ。サミーは両親に連れられて映画館に行くのだが、その際の両親の映画というものに対する説明が対照的なものになっている。

エンジニアである父親バート(ポール・ダノ)は映画とは光の明滅であるといった技術の話を語り始めるのだが、一方でピアニストであった母親ミッツィ(ミシェル・ウィリアムズ)は映画は「素敵な夢」だと語る。スピルバーグの映画が現実的な最先端の技術を取り入れながらも、見たことのない夢の世界に飛躍したりするのは、このふたりの影響ということなのかもしれない。

サミーが初めての映画で惹かれたのは、列車が自動車と衝突するというスペクタクルシーンだ。サミーは両親にねだって列車の模型を揃え、それを自動車模型と衝突させることに夢中になる。しかし高価な鉄道模型を何度も衝突させるわけにもいかないわけで、ミッツィはサミーに8ミリフィルムを買い与える。そんなふうにしてサミーは映画の世界へとのめり込んでいくことになる。

妹たちと撮ったミイラものから始まり、後の『プライベート・ライアン』とも言うべき戦争映画や、ジョン・フォード作品に影響を受けた西部劇まで自主製作で作り上げるのだ。

おじさんのボリス(ジャド・ハーシュ)はサミーにある予言をする。ボリスはサーカスのライオン使いとして活躍し、ハリウッドでも仕事をしていたらしい。そのためにボリスは家族を捨てることになった人だ。そんなボリスは、芸術はサミーに栄光をもたらすというのだが、その一方で芸術と家族との間で引き裂かれることになるだろうとも予言する。

(C)2022 Universal Pictures. ALL RIGHTS RESERVED.

物事の別の側面

フェイブルマン一家はユダヤ系だ。そのことによってサミーは学校で差別を受けることになる。特にカルフォルニアではユダヤ人が珍しかったのか、サミーはかなり酷いいじめに遭っている。「イエスを殺したことを反省しろ」などと難癖をつけられたりもするのだ。

ただ、本作はそのことを殊更に強調しようという意識はなさそうだ。サミーはユダヤ人であることで差別を受けたりもしたけれど、物事には別の側面もある。サミーはいじめっ子からのつながりでモニカという恋人とも出会うことになるのだ。モニカは敬虔なキリスト教徒だが、イエスがユダヤ人であったということから、ユダヤ人のサミーに興味を抱いて近づいてきたのだ。

それと同じように、映画にも色々な側面がある。サミーにとって映画は趣味以上の大切なものだ。サミーは映画という武器があるからこそ、周囲とコミュニケーションできているようにも見える。その意味で映画は喜びである。しかしながらボリスおじさんが予言したように、映画によってサミーは家族から引き離されるような苦しみを味わうことになるのだ。

(C)2022 Universal Pictures. ALL RIGHTS RESERVED.

スポンサーリンク

 

映画が暴く真実

サミーは父親バートからの依頼で母親ミッツィを主役とした映画を作ることになる。ミッツィは母親を亡くしたばかりで沈んでいたからだ。

この映画は、家族みんなで出かけたキャンプの出来事をサミーが撮影し、ミッツィが車のライトをバックにして踊る場面をクライマックスとする作品だ。ところがその製作過程でサミーはあることに気づいてしまう。

ミッツィはバートの助手であるベニー(セス・ローゲン)と不倫の関係にあったのだ。ベニーはほとんど家族同然の存在で、子供たちもベニーおじさんと呼んでいるほどなのだが、ふたりは家族を裏切るような関係になっていたのだ。

サミーがこの事実に気づいてしまうシークエンスはとてもスリリングだ。ミッツィはピアノを弾き、バートはそれに聴き惚れている。別室でフィルムを編集しているサミーにもそのピアノの音が聴こえていて、別室の両親の姿を感じているように見える。

しかしサミーが編集しているフィルムの中には、ミッツィとベニーが気持ちを通じ合わせている姿が捉えられてしまっている。これは映画が何かしらの真実を捉えてしまったシーンと言えるだろう。しかもそれはサミーが意図して撮影したわけではなく、たまたま撮れてしまったものなのだ。

サミーはこの事実を家族には秘密にするけれど、ミッツィだけには明らかにする。サミーはクローゼットの中の特別試写室で“ある映画”をミッツィに見せる。これは完成した映画からは削除したものをつなぎ合わせた映画だったのだろう。ボリスおじさんに言われたように、サミーは映画監督らしく言葉ではなく映像として言うべきことを伝えたのだ。

そんなふうにして、この事実はサミーとミッツィとの間の秘密になる。スピルバーグが「実際にあったこと」だと語っているのはこのことで、だからこそ本作は両親が生きている間には作ることができなかった作品なのだ。映画を撮ることはサミーにとって喜びであると同時に、それによって誰かを傷つけてしまうような暴力的な何かを持っているということになる。

(C)2022 Universal Pictures. ALL RIGHTS RESERVED.

映画は嘘をつく

ミッツィの一件では映画が真実を捉えてしまっていたわけだが、一方で映画には別の側面もある。映画は嘘をつくこともできるのだ。

サミーは「おサボり日」の映画において、いじめっ子のチャド(オークス・フェグリー)に対して仕返しめいたことをしている。撮影した素材をうまく編集することでチャドのことを惨めな役に貶めたのだ。これは意図した嘘だったと言えるかもしれない。

ところがこの映画では予想外のことも生じている。いじめっ子のひとりであるローガン(サム・レヒナー)は被写体として抜群に映えるために、サミーは彼のことを主役のような扱いで撮ることになる。このことがローガンをなぜか狼狽させ、泣かせることになる。

映画の中のローガンは素晴らしい肉体を披露し、その姿は神々しいばかりに輝いている。しかしその姿はローガン自身のセルフイメージとは異なるものだったようだ。サミーは「映画はあるがままを映す」と語るのだが、ローガン自身にとってはその姿は嘘でしかなかったということなのだろう。これはサミーも意図しなかった嘘であり、それはローガンにとっては暴力的なものに感じられたということらしい。ここでもまた映画を撮ることが人に暴力的に働きかけてしまうのだ。

多分、サミー≒スピルバーグは、このことに驚いている。映画という芸術は時に意図せずとも人を傷つけてしまうことがあるのだ。だからこそスピルバーグは本作を撮ることに慎重にならざるを得なかったわけだ。この驚きにはスピルバーグの正直な感情が吐露されているようにも感じられて、感動的なものになっていたと思う。それでも映画を作らなければならないというのは、スピルバーグが抱えた業みたいなものだろうか。

ラストはジョン・フォード監督(演じたのはデヴィッド・リンチ!)の教えを忠実に実践して終わることになる。しかしながらスピルバーグは未だに西部劇を撮ってないわけで、そのキャリアのまだまだ先を見据えているということなのだろう。

created by Rinker
NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン

コメント

タイトルとURLをコピーしました