『バビロン』 ベタな映画愛だっていいじゃないか 

外国映画

監督・脚本は『セッション』『ラ・ラ・ランド』などのデイミアン・チャゼル

ゴールデン・グローブ賞ではジャスティン・ハーウィッツが最優秀作曲賞を獲得した。

物語

1920年代のハリウッドは、すべての夢が叶う場所。サイレント映画の大スター、ジャック(ブラッド・ピット)は毎晩開かれる映画業界の豪華なパーティの主役だ。会場では大スターを夢見る、新人女優ネリー(マーゴット・ロビー)と、映画製作を夢見る青年マニー(ディエゴ・カルバ)が、運命的な出会いを果たし、心を通わせる。恐れ知らずで奔放なネリーは、特別な輝きで周囲を魅了し、スターへの道を駆け上がっていく。マニーもまた、ジャックの助手として映画界での一歩を踏み出す。しかし時は、サイレント映画からトーキーへと移り変わる激動の時代。映画界の革命は、大きな波となり、それぞれの運命を巻き込んでいく。果たして3人の夢が迎える結末は…?

(公式サイトより抜粋)

“バビロン”とは?

デイミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』は夢のようなハリウッドの世界を描いた作品だったけれど、『バビロン』はその裏側を描いたということなのかもしれない。もちろんハリウッド自体は夢を叶えてくれる場所となっているのだけれど、そこにはそれだけではない汚いものもある。冒頭の象のクソの洪水から始まって、おしっこタイムにゲロの噴射と、品のない描写が連発する。

そもそも“バビロン”とは、メソポタミア文明が栄えた古代都市のことだが、聖書の記載ではそこは“バビロンの大淫婦”などと呼ばれている。キリスト教の考えからすれば認められないような、不道徳な場所の代表としてバビロンが選ばれているということだ。そして、1920年代のハリウッドもそんな場所だったらしい。

パーティーでは夜毎に豪華絢爛な乱痴気騒ぎが繰り広げられており、そこは何でもありの無法地帯となっている。女性は裸で踊りまくっているし、みんながドラッグをキメているのか放埓の限りが尽くされ、まさに酒池肉林の世界といった感じなのだ。

ドラッグの過剰接種で死んでしまった女優がいても、象が登場する出し物のどさくさに紛れさせ、うまい具合に処理してしまうことになる。そんなことがそれほど珍しくもないのが、“ハリウッド・バビロン”などとも言われた20年代のハリウッドだったのだ。

ハリウッドにとっては、あまり触れて欲しくないような時代を描いているということになる。だからだろうか、本作はアカデミー賞では作曲賞以外では無視されているようだ(アカデミー賞で特別賞に名前を残しているアービング・タルバーグも登場するけれど、いい役にはなっていない)。それでもそのテンションは凄まじいものがあり(特に前半部)、個人的には3時間9分という長丁場が全然気にならないほど楽しめた。

(C)2022 Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.

3人の主人公

観客をハリウッドへ導くマニー

中心となる登場人物は3人いる。まずは観客の目の役割となるマニー(ディエゴ・カルバ)だ。マニーは“何でも屋”としてハリウッドの片隅で働いている。映画監督としての才能というのは何なんだろうと思うことがあるが、この時代のそれは映画のためなら何でもやってしまうという強引さだったのかもしれない。

マニーはエキストラの荒くれ者たちを手懐けるために銃をぶっ放したり、必要とされるカメラを届けるためには勝手に救急車を拝借して爆走する。そんなマニーの献身ぶりが大スターであるジャックに認められることになり、それによってハリウッド・バビロンの中に入り込んでいくことになる。

大スターのジャック

マニーを引き上げることになるのが、サイレント時代からの大スターであるジャック(ブラッド・ピット)だ。彼は製作にも関わっているのか、新しい時代の映画についても探っている。「進歩を妨げてはいけない」と語り、古い時代の映画からの脱却を目指している。

ジャックはトーキー映画の噂を聞きつけ、マニーを偵察に出すことになる。それほど時代の動きに敏感だったのだけれど、ジャック自身はうまくその時代の波に乗ることが出来ずに、クソ映画にしか出られないような苦境に陥っていく。

“野生児(Wild child)”ネリー

マニーが恋することになるのがネリー(マーゴット・ロビー)だ。彼女は自分が招待されてもいないパーティーに潜り込み、チャンスを獲得することになる。どんちゃん騒ぎのパーティーの中にあってもひと際目立ってしまうのがネリーで、セクシーな姿が代役を探していた映画関係者の目に止まったのだ。それからネリーは“野生児(ワイルド・チャイルド)”と呼ばれ、あっという間にスターの仲間入りをすることになる。

マーゴット・ロビー演じるネリーが初めての出演作を映画館でほかの観客と一緒に鑑賞する場面は、同じくハリウッドを描いた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』とそっくりだ。どちらもハリウッドが夢の工場であることには変わりはないということを示しているということなのだろう。

ところがネリーもやはりトーキーへの移行で苦労することになる。サイレント時代は監督の指示に瞬時に反応する能力が活きたのだが、トーキーとなってサウンドという新たな要素が導入されて神経質気味の撮影現場には、ワイルドなネリーは合わなかったのだろう。さらにはもとからの素行の悪さも問題になり、次第に落ちぶれていくことになってしまう。

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盛者必衰の理

3人のハリウッドでの成功は長くは続かない。一言で言えば、「盛者必衰の理」というやつでありきたりとも言える。これらのキャラクターにはモデルがいるそうで、ジャックのモデルとなったジョン・ギルバートは声が高すぎてトーキーに合わなかったとされている。

また、ネリーは“野生児”と呼ばれたセックス・シンボルだったが、それが時代と合わなくなっていく。20年代のハリウッドは無法地帯だったけれど、30年代に入るとヘイズ・コードという自主規制を導入するようになり、モラルが取り沙汰されることになる。ネリーは彼女を助けようとしたマニーが準備したお上品な出資者たちに不興を買ってしまうことになるのだ。

話をこの3人の登場人物に絞っていたら、もしかしたら上映時間ももう少し収まっていたのかもしれないのだけれど、ほかにも黒人トランペッターのシドニー(ジョバン・アデポ)や、アジア系のレディ・フェイ(リー・ジュン・リー)のエピソードも加わってくる。

シドニーはトーキー移行に合わせて成功を勝ち取ることになるのだが、ハリウッド内での差別的な扱いに嫌気が差して去っていくことになる。レディ・フェイはサイレント期の字幕書きをしていた人であり、パーティーにも盛んに顔を出している。レディ・フェイはネリーといい関係になるのだが、同性愛が問題となって引き離されることになってしまう。

それからマニーがハリウッドを逃げ出すことになるきっかけとなるのは、ギャングであるジェームズ・マッケイという人物がいたからで、彼はハリウッドの裏社会を仕切っている。この人物を演じているのがトビー・マグワイアで、薄気味の悪い人物を好演している。マニーはマッケイと出会い、ハリウッドのさらに怖い側面を垣間見ることになる。

そんなこんなで脱線気味のエピソードも多い。特にネリーがガラガラ蛇と対決する場面なんかは、レディ・フェイとの関係を描くためとはいえかなり妙なシーンだったかもしれない。しかしながらそんな脱線も、ハリウッドにはこんなにも雑多でおもしろい人物がたくさんいたということを示すことになっていて、このゴチャゴチャ感がおもしろいところじゃないんだろうか。

(C)2022 Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.

自分よりも大きなもの

ネリーはマニーと出会った日、こんなことを語っていた。ネリーの叶えられるならどこに行きたいかという質問に対し、マニーは「映画のセット」と答える。マニーは映画なら何でも可能だからだと言う。そんな中で出てくるのが、「自分よりももっと大きなもの」の一部になりたいという発言だった。マニーにとってそれは映画製作に関わりたいという意味だった。

本作では「自分自身よりももっと大きなもの」という言葉が何度も登場することは、公式サイトのコラム欄町山智浩も指摘している。この時代の映画はまさに夢の世界だった。まだ、テレビもなければ、ネットもない時代だ。そんな中では映画はみんなの夢を叶えてくれるような世界だった。しかもそれは演劇のように高尚で、高価なものでもない。誰にでもアクセス可能で、みんなが夢中になるものだ。そんなエンターテインメントが映画だったのだ。

(C)2022 Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.

「自分自身よりもっと大きなもの」という言葉はほかでも使われている。ジャックはゴシップネタを書く記者であるエリノア(ジーン・スマート)に、彼の時代が終わったことを指摘されることになる。ここでの字幕は「抗えないのよ」となっていたけれど、英語の台詞では「bigger than you」となっていたと思う。エリノアが指摘していたのは、ジャックが彼よりももっと大きなものに飲み込まれたということだったのだろう(英語の台詞の詳細までは聞き取れていないが)。

マニーは自分自身より大きな映画というものに憧れ、その世界で成功をつかんだ。ジャックもそれは同様だったのだけれど、最終的にはサイレントからトーキーという時代の流れに乗ることはできなかった。ジャックも彼よりも大きな時代の流れには抗えなかったということだ。ジャックはそれに気づき、プロデューサーの友人と同じように拳銃自殺を選ぶ。このシーンは、使用されている曲のトーンもあって何とも物悲しいものとなっている。

ラストはひとり生き残ったマニーが、久しぶりに戻ってきたハリウッドの映画館で『雨に唄えば』を観るシーンだ。この映画は1952年の作品だが、時代としてはサイレントからトーキーの時代を描いているわけで、マニーがハリウッドで活躍していた時期と重なるのだ。

マニーは『雨に唄えば』を観ながらも、これまでの映画の歴史を振り返ってしまうことになる。1952年という時代を飛び越えて、『NOPE/ノープ』にも登場したエドワード・マイブリッジの「動く馬」から始まって、『マトリックス』『アバター』などの最近の映画まで、かなりの数の映画が登場してくる。最後はたしか『仮面/ペルソナ』だったと思うが、その合い間にはなぜかブルーバックみたいな映像が挟まれていたりもする。

ハリウッドのおもしろ人物のエピソードもふんだんに入っているけれど、この名作映画もしつこいくらいに続く。映画愛を謳う手段としてかなりベタだ。それでも「そんなことは関係ない」とばかりに様々な映画を並べている。これもやはりデイミアン・チャゼルが、「自分自身よりももっと大きなもの」の一部を担っていることの喜びがあるのだろうし、それを誇りにもしているからなんじゃないだろうか。

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