『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』 消えゆく存在?

外国映画

原作はアメリカのジャーナリスト、デヴィッド・グランが書いたノンフィクション『花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』

脚本・監督は『タクシードライバー』などのマーティン・スコセッシ

主演は『ギャング・オブ・ニューヨーク』などのレオナルド・ディカプリオ

物語

地元の有力者である叔父のウィリアム・ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を頼ってオクラホマへと移り住んだアーネスト・バークハート(レオナルド・ディカプリオ)。アーネストはそこで暮らす先住民族・オセージ族の女性、モリー・カイル(リリー・グラッドストーン)と恋に落ち夫婦となるが、2人の周囲で不可解な連続殺人事件が起き始める。町が混乱と暴力に包まれる中、ワシントンD.C.から派遣された捜査官が捜査に乗り出すが、この事件の裏には驚愕の真実が隠されていた――。

(公式サイトより抜粋)

富豪になった先住民

『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は、オセージ族というアメリカ先住民(劇中ではインディアンと呼ばれている)の歴史から始まる。

オセージ族はミズーリあたりに住んでいたのだが白人に追い立てられ、オクラホマに住むことになったらしい。その土地を居留地として与えられたのだ。それまでの豊かな土地を追われ、狼がいる何もない土地に追いやられたというわけだ。これは多くの先住民たちが経験したことなのだろう。

ところがその貧相な土地には予想外のものが埋まっていた。石油が発見されたのだ。土地の所有者であるオセージ族は突然の降って湧いたような幸運により、みんなが大富豪になる。先住民が世界一の富豪になってしまうのだ。

そうすると彼らに群がってくる人もいる。その町では大富豪の先住民に対し、貧乏な白人が仕え、ご機嫌取りをするという珍しい光景が見られることになったのだ。ほかでは見られないような状況がその町にはあったのだ。

本作の主人公アーネスト(レオナルド・ディカプリオ)は、叔父さんのウィリアム・ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を頼ってその町にやってくる。ヘイルは町の有力者で、“キング”などと呼ばれていたのだ。ヘイルの下にはすでにアーネストの弟がおり、アーネストもそこで運転手として働くことになる。

ヘイルの表向きの仕事は牧場経営ということになるわけだが、その裏で企んでいることがあった。その土地の先住民には石油で得た利益を受け取る権利があり、何をしなくてもオイルマネーが入ってくることになっていた。

そして、白人でもオセージ族の女性と結婚すれば、オイルマネーの受益権が自分たちの子供に受け継がれることになるのだ。ヘイルが企んでいたのは、そんなふうにしてオイルマネーを先住民から巻き上げることだったのだ。

アーネストはヘイルの思惑の全貌は知らずに、運転手としてオセージ族のモリー(リリー・グラッドストーン)と知り合い、次第に懇意になっていく。

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消えゆく存在?

ヘイルは篤志家としてオセージ族に取り入りながらも、裏では「やりたい放題」のことをしている。ヘイルは先住民たちに毒薬を飲ませたり、銃で殺してしまったりもする。モリーの姉たちもその犠牲になっていくのだが、そんなことをしても問題にならないのは、ヘイルが町の有力者であり、予備保安官でもあるからだ。一部の町の有力者はヘイルのやっていることを知っているが、それを黙認しているのだ。

なぜそんなことになっているのかと言えば、白人は先住民を野蛮な存在と見ているからであり、劇中のヘイルの台詞にもあるように早晩消えゆく存在だとも考えているからだろう。あるいはヘイルのようなカトリックとしては、先住民は神から与えられた約束の地にいる邪魔な存在にすら感じられていたのかもしれない。

しかし、これはヘイルが特別に極悪だからというわけではない。多くの白人がそんなふうに考えていたのだろう。この土地では、先住民は能力者と無能力者に分けられる。これは野蛮な先住民の多くは、多額のオイルマネーを管理するような能力に欠けると、白人が考えていたからだ(もちろんこれは一方的な決めつけだ)。無能力者の先住民には後見人を設定することになっていて、その後見人のほとんどが白人だったようだ。

白人は先住民にそんな法律を押し付けていたのだ。そうなると、その後見人の判断がすべてとなり、無能力者の先住民は自分の権利を著しく制限されることになってしまうのだ。

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ディカプリオの慧眼

本作はヘイルの悪魔のような所業を丁寧に描いていく206分の大作だ。3時間半の映画となれば多少は尻込みすることになるが、始まってみれば意外にもそれほどの長尺には感じられなかった。テンポはゆったりとしているのだけれど、ダレることもなく見せてしまうのはスコセッシの技量ということだろうか。

ちなみに本作には原作があるようだが、映画はそれとはかなり構成が変わっているようだ。これには本作で主人公を演じ、製作総指揮にも名を連ねているディカプリオの意見が影響しているようだ。

原作はFBIの捜査官が「インディアン連続怪死事件」の謎を解決するノンフィクションという形式らしい。もともとの脚本では、ディカプリオは本作でジェシー・プレモンスが演じたFBI捜査官の役だったようだ。ところがディカプリオはその最初の脚本に疑問を抱いたらしい。

この話の中心にあるのは、アメリカでもあまり知られていない自国の汚点ということになる。アメリカの汚点を描くつもりならば、事件を解決した捜査官ではなく、被害者である先住民の側に立たなければならないということなのだ。だから本作はヘイルのターゲットとなってしまう先住民モリーの存在が重要になってくるし、主人公となるのはモリーと結婚することになるアーネストという男ということになる。

また、本作では同じ頃に起きた「タルサ人種虐殺」と呼ばれる事件が話題となっている。これは黒人たちが白人暴徒らによって虐殺された事件だ。

先住民に対して黒人の事件をわざわざ同列に扱っているのも、本作がアメリカがやってきた人種差別の酷いあり様を振り返るためのものだということを示している。この「タルサ人種虐殺」も長らく忘れられていた事件であり、本作で描かれる「インディアン連続怪死事件」も原作が登場するまで忘れ去られていた事件だったのだ。

私自身は原作は未読だが、調べてみると原作においてはFBIの事情が大きく関わっているらしい。ちなみにそれを指示していたのはフーヴァー長官ということになる。フーヴァー長官はディカプリオが『J・エドガー』で演じていた人物でもある。

創設されたばかりのFBIとしては、注目されるような事件を解決して存在意義を示したい。「インディアン連続怪死事件」の捜査にFBIが乗り出してくるのは、そんなFBI側の事情があったということだ。もしかするとそんな事情がなければ、さらに放っておかれた事件だったのかもしれない。

映画ではそんなFBIの事情は省略され、アメリカの汚点を掘り起こすことに主眼が置かれているのだ。この変更はディカプリオの慧眼と言うべきだろう。FBI捜査官が主人公の作品では、先住民に対してここまで光は当てられなかっただろうと思われるからだ。

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疑う女と優柔不断な男

本作では、ヘイルのターゲットとされるモリーを実際に先住民の血を引くリリー・グラッドストーンが演じている。彼女の相手役はあのディカプリオなわけで、その存在感と互角に渡り合うのは容易ではないはずだ。それでもリリー・グラッドストーンはそれをやってのけている。モリーには気高くて凛とした存在感があるのだ。

アーネストは運転手としてモリーと出会う。それはたまたまだったように見えたけれど、ヘイルは二人が出会うことは見越していたのだろう。それでも二人は好き合って結婚したことも確かで、子供たちも生まれ幸せな時もあっただろう。しかし、そんな結婚生活は次第に不穏なものになっていく。

なぜか姉たちは不幸な事故に遭い亡くなっていく。その中には爆弾で家ごと吹き飛ばされた者もいたわけで、何かしら物騒なことが起きていることは想像がつく。ヘイルの意図は明らかだが、アーネストはそれをどこまで理解していたのだろうか。

モリーが糖尿病の治療を始めた時、それは治療の必要があったからなのだろう。当時世界でも珍しい最先端のインシュリン注射をすることで、症状は改善されることになるはずだった。ところが逆にモリーの体調は悪化していくことになる。

このインシュリン注射は、ヒッチコック『断崖』におけるミルクと同じだろう。『断崖』では、夫が妻にミルクを用意することになるのだが、妻はその中に毒が入れられているのではと疑うことになる。モリーも『断崖』の妻と同じ立場なのだ。ただし彼女を守ると宣言しているアーネストのことを信じたい気持ちもあるから、難しいことになる。

しかし一方で、インシュリン注射をすることになるアーネストは、『断崖』の夫とは立場が異なっている。『断崖』の夫はミルクの中身を知っていたけれど、アーネストは知らないのだ。

インシュリンはヘイルの息がかかった医者が用意するもので、それにどんな効果があるかは無学のアーネストには確かめようがない。ヘイルの言いなりに動くしかなかったのだ。

アーネストとしては、ヘイルが用意してくれた最先端の治療にすがるような気持ちもあったのかもしれない。さらに、モリーのことまで殺そうとヘイルが考えているとは思っていなかったのかもしれない。もちろん最終的にはそれに気づくことになるわけだが、それは遅すぎたということなのだろう。

夫に殺されるかもしれないと疑う妻と、もしかしたら毒なのかもしれないと疑いつつも結局は優柔不断のままにそれを与え続ける夫。そんな複雑な葛藤が描かれているからこそ、長尺にも関わらず見せられてしまうのかもしれない。

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ラストを締めくくるのは……

ラストでは唐突にラジオドラマという形式になり、そこにスコセッシ本人が登場して話をまとめることになる。そこで語られるのは事件後の話だが、新聞に載ったモリーの死亡記事には「殺人に関する言及は一切無かった」と締められる。だからこそ本作が作られる必然性があるということなのだ。

前作に引き続きの長尺作品だが、どちらも退屈させるところはない作品だったと思う。個人的には前作『アイリッシュマン』のほうが好みだと感じるのは、本作は顔芸とも称されるディカプリオの演技がクドかったからかも。とはいえディカプリオは二枚目をかなぐり捨てて胸くそ悪いというよりも単に優柔不断でダメな男に成りきっているわけで、これはまた称賛すべきなのかもしれない。

本作は音楽を担当したロビー・ロバートソンに捧げられている。ロバートソンと言えば、ザ・バンドの中心メンバーとしても有名だが、スコセッシ作品の音楽担当としても何度もクレジットされていて、前作の『アイリッシュマン』や『キング・オブ・コメディ』『沈黙ーサイレンス』もロバートソンが担当した作品だ。

『沈黙』のエンドクレジットでは自然の音だけを響かせているのが印象的だったが、本作のエンドクレジットでも雨の音が使われている。劇中で先住民のモリーがアーネストに「嵐の音に耳を澄ませ」と言っていたわけで、本作のエンドクレジットもそれに倣っているということだろう。

実はロバートソンも先住民の血を引いていたのだとか。過去形になっているのはロバートソンは今年の8月に亡くなったからで、だからこそ本作はロバートソンに捧げられている。

劇中では先住民は“消えゆく存在”と見られていたかもしれないけれど、モリーを演じたリリー・グラッドストーンやロバートソンの活躍を見れば、まったくそんなことはないということがよくわかるというものだろう。

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