『殺人鬼の存在証明』 そこがロシアだから?

外国映画

監督・脚本はラド・クヴァタニアで、本作が長編映画としてのデビュー作とのこと。

原題は「Kazn」で、英語のタイトルは「The Execution」。

物語

1991年、負傷した女性が森の近くで保護される。女性の証言から、10年以上殺人を続けていた連続殺人犯の手口に酷似していることが明らかになり、既に1988年に捕まっていた犯人は誤認逮捕だったことが判明する。新たな容疑者であるアンドレイ・ワリタ(ダニール・スピヴァコフスキ)を追い詰めた捜査責任者のイッサ(ニコ・タヴァゼ)は、尋問をする中でワリタがそれまでの連続殺人を犯した真犯人だと確信していくが、彼の口から驚愕の真実を聞かされることになる…

(公式サイトより抜粋)

連続殺人鬼が復活?

話の発端は、すでに捕まっていたはずの連続殺人事件の犯人が誤認逮捕だったかもしれないというところからだ。1988年に逮捕されたはずの連続殺人鬼。それと同じような犯行が1991年に起きたのだ。しかもその犯行は未遂に終わり、犯人の顔を見たという被害者はケガを負ったものの生きて確保されることになる。

これによって面目を失ったのが、本作の主人公である捜査責任者のイッサ(ニコ・タヴァゼ)だ。イッサが1988年に逮捕した犯人は実は誤認逮捕だったということになってしまったからだ。イッサは新たな容疑者とされるアンドレイ・ワリタ(ダニール・スピヴァコフスキ)を自宅で尋問することになる。

『殺人鬼の存在証明』は連続殺人鬼の謎を追うミステリーだが、1991年の現在時と過去の出来事を行ったり来たりする形で展開していく。現在時ではイッサがワリタを尋問しているわけだが、過去の場面ではどのようにして連続殺人鬼が逮捕されることになったのかが追われることになる。

簡単に整理すれば、1981年にはイッサが捜査の責任者として赴任してくる。彼は前任者の仕事を全否定して、新しい手法で犯人捜しに励むことになる。捜査は難航し、1988年になってようやく犯人を逮捕することになったのだが、それが1991年になって覆されることになるのだ。

逮捕したはずの連続殺人鬼がなぜ再び登場したのか? 逮捕は誤認だったのか? そうした謎が物語を牽引していくことになる。

©2021 HYPE FILM – KINOPRIME

モデルとなった連続殺人鬼

本作に登場するワリタという連続殺人鬼には、モデルがあるのだという。50人以上の女性や子供を殺したとされるアンドレイ・チカチーロという人物だ。「ロストフの殺し屋」などと呼ばれるこの人物はロシアを代表するような殺人鬼のようで、『チャイルド44 森に消えた子供たち』にも登場していた。

チカチーロという人物は逮捕され処刑されたようだが、本作のワリタの最期はそうならないわけで、あくまでもチカチーロはモデルということになる。ただ、チカチーロは体液から調べた血液型と、血痕から調べた血液型が異なるという珍しい体質(これがどういうことなのかはよくわからないけれど)であり、そのことが捜査の妨げになっていたらしい。劇中で「血液型が一致しない」云々といった台詞があったのは、そうした事実に基づいているということのようだ。

ワリタが最初に登場した場面では、気を失っている女性に土を食わせ、意識を取り戻した女性を追いかけて背中にナイフを突き刺している。ヒッチコック映画に出てくるような殺害場面を見せてくれるのだが、最終的に捨てられた遺体は散々に傷つけられていて、その犯行には猟奇的なものを感じさせる。

なかなか捕まえられない犯人に捜査官の側が翻弄される形になる部分は『追憶の殺人』などを思わせるし、別の殺人犯から連続殺人事件の犯人についてのヒントを得たりする場面は『羊たちの沈黙』を思わせるところがある。ただ、そこから先の展開はまったく予想がつかないものだったし、居並ぶ捜査官たちの顔ぶれがクセがあってよかったと思う。

©2021 HYPE FILM – KINOPRIME

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何がイッサをダメにした?

本作は過去の名作映画を想起させる部分もあるわけだけれど、それらとは相容れないような特殊な部分もあるような気もして、それは背景となっているのがロシアという国だからかもしれない。

1981年に捜査の責任者となったイッサは、前任者のことを全否定することになる。前任者はレーニンの肖像画を飾っているような人物だ。時代は1981年でソ連は崩壊はしていないけれど、新しい時代になりつつあるということだったのだろう。イッサはそんな新しい時代の人として登場してくる。

当時の社会主義国家という楽園では、連続殺人鬼というものは存在しないとされていたらしい。というのは、連続殺人鬼というのは資本主義が生み出すものとされていたからだ。だからワリタが殺人を繰り返していても、その共通点を結びつける人がいないために個々の事件として扱われていた。イッサはそんな場所に「シリアルキラー」という新しい概念を持ち込むことになる。

さらに、証拠についても写真しか認めていなかったのに対し、イッサは記録係イワンの撮っていたフィルムも捜査資料として使うことにしたり、プロファイルという新しいやり方を捜査に取り入れたりすることになるのだ。

そんなふうに1981年の時点では、まだ若々しく意欲的だったイッサだが、なかなか進まない捜査に次第に疲弊していくことになる。1991年のイッサは白髪も増え、自分のポストにしがみつこうとする守旧派的な人物になってしまっている。

彼のことを信頼していたイワンも、イッサの変貌に落胆したのか、捜査から離脱していってしまう。それがなぜなのかと言えば、そこがロシアという国だから。そんなふうに言っているようにも見えるのだ(これ関しては、時代を1950年代というソビエト時代に設定している『チャイルド44』でも、より一層強調されているかも)。

イッサは「ロシアでは正義というものは技術的な問題にすぎない」と諦めのようなことを語るようになり、行き詰りを見せる連続殺人鬼の捜査に対して絶望的になり、最終的には「罪を負う人間が必要なだけ」という境地に至る。

ここにいるのはイッサが否定した前任者と同じ姿ということになるのだろう。真犯人が出てきた時も、自分の非を認めることはせず、結局は前任者と同じ轍を踏むことになってしまっているようにも見えるのだ。現在と過去を行き来する形となっているのも、ロシアという国の狂ったシステムにおいてスポイルされていくイッサのような人物の変化を、より強調するためということかもしれない。

©2021 HYPE FILM – KINOPRIME

強引さはあるけれど……

本作はなかなか複雑で、途中で混乱してくるところもあるし、一度観ただけでは詳細までは理解が追いつかない部分もある。それでも最後に「ネタばらし」がされると、謎が一気に解けることになる。如何せんそのネタに関しては強引さは否めないところはあるけれど、最終的にはある種の正義は達成されたということかもしれない。

劇中ではある処刑のことが話題になっていた。英語版のタイトルは「The Execution」というもので、これは「処刑」を意味する言葉でもある。その処刑はたしか「エトルリアの処刑」と呼ばれていたと思うが、被害者と加害者をつなげて死ぬまで一緒に居させるという処刑法だ。加害者は被害者自身によって殺されるということになるのだ。

そして、本作の章分けにも使われている「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」というのは、エリザベス・キューブラー=ロスが書いた『死ぬ瞬間』という本の中に出てくるプロセスだ。エリザベス・キューブラー=ロスは、これを「死の受容」のプロセスとして書いたわけだが、本作ではそれを避けがたい出来事が起きた時の受容のプロセスとして捉えている。

ラストは、ある人物とある人物が「エトルリアの処刑」の形で最期を迎えることになる。それが誰なのかは伏せておくけれど、両者とも先ほど挙げたプロセスを辿っていたようにも感じられた。しかしながら一方は最後の最後にそれを否定しようとし、もう一方はそれを受容したということのようにも思えた。

本作は現在時と過去を行き来する形式になっていた。それは登場人物の変化を際立たせるためとも感じられたけれど、映画を最後まで観終わると、現在時と過去とでは話が別のものにすり変わっていて、ふたつの話が同時に進行していたようにも感じられる。それが明らかになるところがなかなか鮮やかだったと思う。

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