『マーティン・エデン』 ふたりのマーティン

外国映画

監督・脚本はピエトロ・マルチェッロ

ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門では、評判の高かったホアキン・フェニクス(『ジョーカー』)を退しりぞけて最優秀男優賞(ルカ・マリネッリ)を獲得した。

原作はジャック・ロンドン『マーティン・イーデン』

昨年9月に劇場公開され、今月になってソフトがリリースされた。

物語

貧しい船乗りマーティンが優雅なブルジョワの“高嶺の花”エレナに恋したことから作家を目指し、幾多の障壁と挫折を乗り越えてついに名声と富を手にするが…。果たして彼を待ち受けるのは希望か、絶望か――。

(公式サイトより引用)

マーティン・エデンという男

船乗りとして生きてきたマーティン(ルカ・マリネッリ)の顔にはいくつもの傷があるのだが、それは荒くれ者たちの中で生きてきたからだ。彼は曲がったことが嫌いで、ある日、ヤクザ者につかまっている若者を助けたことが転機となる。そのことでマーティンは今まで出逢ったこともなかった上流階級の娘エレナ(ジェシカ・クレッシー)と知り合うことになるからだ。

貧しい船乗りとブルジョアの娘という身分違いの恋ということになるわけだが、マーティンにとってエレナは憧れのような存在になる。ひんのない言葉しか知らないマーティンは、彼女の家族のような言葉を学びたいと思うようになる。エレナは愛すべき対象であり、彼女やその家族のような人になることがマーティンの目標となるのだ。エレナはそのためにはマーティンには教育が必要だと助言し、文法書などを貸して彼を助けることになる。

『マーティン・エデン』

身分違いの恋の行方

それからのマーティンの努力ぶりは大変なもので、仕事に励みながらも読書に精を出し、刻苦勉励を続けるうちに、作家として身を立てることを考える。ただ、今まであまり勉強もしてこなかった人が突然「作家になる」と言い出したとしたら誰もが浅はかだと思うだろうし、エレナも彼の考えをすんなりと応援するのは躊躇する。エレナ自身もマーティンには惹かれているわけだが、エレナがマーティンに教育が必要だと言い渡したのは、ふたりが結婚するとしたら、彼女の階級にふさわしいような態度やマナーを身につけ、これまでの生活を維持できるような仕事に就いて欲しかったからということになるだろう。

しかし、マーティンはそれ以上のことを望んでいたのかもしれない。映画ではちょっとわかりづらいところもあるが、原作本ではそのあたりはマーティンの「僕の世界では、美は愛の侍女なんだよ」という言葉に集約されているかもしれない(映画の後に原作も読んでみた)。作家としての成功は金銭的なものを約束してくれるかもしれないが、それ以上に文学的な「美」というものが優先であり、その美は「愛」には劣るというわけだ。

マーティンの書く本は金銭を獲得するためのものではなく「美」のためにあるものだし、そしてそれはエレナへの「愛」があればこそということだ。しかし現実的で上流階級の世界を捨て去ることのできないエレナは、マーティンの夢物語のような考えを受け入れることはできず、ふたりは離れていくことになる。

『マーティン・エデン』

ジャック・ロンドンの自伝?

私はほとんど何も知らずに本作を観始めたのだが、原作本『マーティン・イーデン』ジャック・ロンドンの自伝的小説とされているものだとか。私自身は村上春樹がどこかで褒めていた「火を熾す」という短編を読んだだけでジャック・ロンドンに関してはほとんど知らないのだが、昨年ハリソン・フォード主演で映画化された『野性の呼び声』などが有名だ。

ジャック・ロンドンと本作の主人公であるマーティン・エデンは多くの部分で重なるようだ。作家としての刻苦勉励の部分はジャック・ロンドンの体験そのままだともされているが、一方で異なるところもある。調べてみるとジャック・ロンドンはモルヒネ中毒による自殺がその最期だったとされることも多いようだが、英語版のWikipediaによると実際にはそうとも言い切れないようだ。

マーティン・エデンは本作の最後で自殺をすることになるのだが、実際のジャック・ロンドンは『マーティン・イーデン』を1909年に書き上げた後も1916年まで生き、多くの作品を発表し続けたようだ。

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ふたりのマーティン

本作は前半と後半とでマーティンはその容貌からして別人のように変わっている。撮影も時期をずらして二度行われたらしい。前半のマーティンは野暮ったくて洗練されていないが、その目はどこか希望に満ちて輝いているように感じられる。しかし後半のマーティンは作家として成功を収めたのだが、その目は絶望感に満ちている。

マーティンを演じたルカ・マリネッリは本作でヴェネツィア国際映画祭の最優秀男優賞を獲得した。ルカはイタリアのアラン・ドロンなどと言われ、いかにも二枚目といった風貌だ。船乗り時代のマーティンは「港々に女あり」という言葉を地で行くタイプだったのだと思うのだが、それがエレナとの出会いによって開眼する。それによって成功を手にすることになり、マーティンはすべてを手に入れたかのようにも思えるのだが、後半では身を持ち崩していく。すべてを手に入れた人にしかわからない虚しさというものがあるのだろう。

マーティンはほかの人なら無理な仕事をやってのけた。その成功はエレナへの愛のためだったわけだが、エレナとの関係はすでに終わっている。作家としての成功でマーティン自身も名士として認められることになったわけだが、それが虚しいものと感じられるのは、かつて目指していた上流階級の人たちが俗物にしか見えなくなってしまったからだろう。

マーティンを唯一認めていたのは友人のブリッセンデン(カルロ・チェッキ)だけで、ふたりは互いを詩人だと認めているものの、雑誌の編集者や周囲はそのことに気づかない。マーティンは自分のやっていることは変わっていないとも自負しているから、成功した後になって周囲の態度だけが変わることがやるせない気持ちになったのだろう。どのみち作品の価値などわからないくせに、今更になって手の平を返すという嘘臭さに幻滅しているのだ。

かつて憧れたものが大いなる勘違いだと知って愕然としたマーティンは、半ば自暴自棄になり稼いだ金をあちこちでバラまき、自分がしたことの虚しさを噛みしめている。まだ希望に燃えている頃の自分の姿の幻影を垣間見てしまうシーンはとても切ないものがある。それは発展途上でその先に希望を抱いて邁進していた時代だったわけだが、その頃に戻ることはできないからだ。

『マーティン・エデン』

ピエトロ・マルチェッロ監督はドキュメンタリーを撮っていた人らしく、本作は昔のナポリの街並みや人を捉えたフィルムが使われたりもしている。フィクションの部分と昔撮られたであろう映像がうまくマッチして、古い映画を観ているようだった。

『マーティン・エデン』はルカ・マリネッリが最初から最後まで出突っ張りの独壇場だ。後半部の堕ちていく感じは観ていて痛々しいのだが、退廃の美みたいなものを感じさせなくもなくて、『ルートヴィヒ』ヘルムート・バーガーを想い出したりもした。

上流階級の娘エレナを演じたジェシカ・クレッシーはいかにもお嬢様然として美しいが、船乗り時代の一夜のお相手であり堕ちていくマーティンを見守ることになるマルゲリータ役のデニーズ・サルディスコの悲しみを湛えたような笑顔も印象的。

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