『ザ・ホエール』 “おぞましい”姿に共感?

外国映画

原作は劇作家サム・D・ハンターの舞台劇(脚本もサム・D・ハンターが担当している)。

監督は『レクイエム・フォー・ドリーム』『ブラック・スワン』などのダーレン・アロノフスキー

主演のブレンダン・フレイザーは本作でアカデミー賞で主演男優賞を獲得した。

物語

恋人アランを亡くしたショックから、現実逃避するように過食を繰り返してきたチャーリー(ブレンダン・フレイザー)は、大学のオンライン講座で生計を立てている40代の教師。歩行器なしでは移動もままならないチャーリーは頑なに入院を拒み、アランの妹で唯一の親友でもある看護師リズ(ホン・チャウ)に頼っている。そんなある日、病状の悪化で自らの余命が幾ばくもないことを悟ったチャーリーは、離婚して以来長らく音信不通だった17歳の娘エリー(セイディー・シンク)との関係を修復しようと決意する。ところが家にやってきたエリーは、学校生活と家庭で多くのトラブルを抱え、心が荒みきっていた……。

(公式サイトより抜粋)

肥満男の最期の5日間

ほとんどが部屋の中だけで進行する室内劇だ。というのも主人公のチャーリー(ブレンダン・フレイザー)は体重270キロという巨漢で歩くことすらままならないからだ。

歩行器を使ってようやく移動はできるものの、あとはほとんどソファーの上で過ごすだけ。鍵やスマホを床に落としてしまうと、自分でそれを取ることができないほどの不自由な身体なのだ。それでも彼を世話してくれるリズ(ホン・チャウ)という女性がいて、彼女が食料の調達など必要なことをしてくれるから何とか生きていけるということらしい。

リズは看護師でもあり、チャーリーの現状が危機的であることを理解している。血圧も異常なほど高く、このまま行けばうっ血性心不全で死に至ることは明らかだった。それでもチャーリーは健康保険がないからという理由で病院に行くことを頑なに拒むことになる。リズ曰く、このままではあと一週間ももたないというのだが、チャーリー自身もそのことを理解しているのだ。宣伝文句などにも「最期の5日間」とあるように、本作はチャーリーの最期の日々を描くことになる。

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舞台劇の映画化

『ザ・ホエール』は舞台劇の映画化だそうだ。映画の冒頭では、荒涼とした風景の中でバスが止まり、そこから誰か(多分トーマスだろう)が降りてくる。この風景は有名な舞台劇『ゴドーを待ちながら』の舞台設定のように、何もない場所に1本の枯れ木が立っているだけなのだ。

本作はそのシーン以降、すべてがチャーリーの部屋の中と玄関先だけで展開していく。画面のアスペクト比がスタンダードサイズになっているのも、チャーリーの身体の大きさを誇張し狭苦しい感じを演出するためということになるだろう。

登場人物もごく限られている。チャーリーとその世話係のようなリズ。それからたまたま宗教の勧誘のために部屋を訪れたトーマス(タイ・シンプキンス)。そして、チャーリーがアランとの同性愛に走ったことで捨てられることになった娘エリー(セイディー・シンク)と元妻のメアリー(サマンサ・モートン)くらいだろうか。

すべてが部屋の中で展開するわけだから、当然会話劇に終始することになるし、派手な展開もない。それでもなぜか飽きさせることがないのは、チャーリーの巨漢がそれだけでサスペンスフルなものになっているからかもしれない。

チャーリーは大学のオンライン講座で教えているのだが、自分のカメラは常にオフにしている。その姿がほかの人から見たら異様なものだということを自覚しているからだろう。

そんなチャーリーにとっては、立ち上がること自体がかなり大変なアクションとなっていて、彼の健康状態からすれば転んだりすることがそのまま命の危険につながるような出来事になりかねないわけで、観客としてもハラハラさせられることになるのだ。

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矛盾に満ちた複雑なキャラ

本作に登場するキャラクターは図式的でわかりやすい存在ではなく、矛盾に満ちた複雑な存在だ。チャーリーは希死念慮に支配されているわけで、余程薄暗い人物なのかとも思えてしまうのだが、実際にはそんなことはなくリズと贅肉のネタで笑い合うシーンなんかを見ていると、とても愛嬌があって楽しい人物でもある。元妻メアリーもチャーリーのことを楽観的だと語っているから、チャーリーはそういう側面も持っているわけなのだが、それ同時に自暴自棄になってもいるというわけだ。

それからリズの存在も厄介だろう。リズはチャーリーに死んでほしくないから病院に行くことを勧めるわけだが、それと同時にバケツサイズのフライドチキンなんかを用意して、彼の緩慢な自殺を手助けしているようにも見える。

このふたりの関係は恋愛とは別のものだが、私は『リービング・ラスベガス』を思い出した。『リービング・ラスベガス』の主人公も酒によって自殺しようとしている男だった。この主人公は娼婦の女性と親しくなるものの、ふたりの関係は「酒をやめて」と言わないことが絶対的な条件となっていて、娼婦もそれを守り通すことになる。

リズも『リービング・ラスベガス』の娼婦と似たようなものなのだろう。リズはチャーリーのかつての恋人アランの妹だ。リズにとっては兄の記憶を共有しているチャーリーも、今では兄と同じように大事な存在になっている。だからチャーリーには死んでほしくないし、いつまでも一緒にいたい。本当ならば無理にでも病院へと連れていくことが最善なのかもしれないのだが、チャーリーはそれを望まない。リズはチャーリーと一緒にいたいと思えば、リズは彼の望むことだけをすることになり、それは緩慢な自殺に手を貸す形になってしまっているというわけだ。

それから本作では、善意でなしたことが他人に対して害を与えたり、逆に悪意でやったことがかえって相手に対して好都合になってしまったりする。

トーマスは宗教の力でチャーリーを救いたいと考えている。これは当然善意のなせる業だが、トーマスは聖書の言葉から同性愛者だったアランを非難するようなことを言い、チャーリーを激怒させることになってしまう。

一方でエリーは母親から邪悪なところがあると言われていて、実際に自棄やけになっているところがあるわけだが、そんなエリーがトーマスに対して悪意のつもりでやったことは、なぜか彼を助けることになってしまったりするのだ。

このあたりも人が生きていくこと自体が大いに矛盾に満ちたものであることを示しているのだろう。本作のラストは私には涙なしには見られない感動的なものだったと感じた。しかし、それがなぜ泣かせるものだったのかはすぐには自分でもよくわからなかったのだが、それも本作にはそんな矛盾や複雑さがあるからなのかもしれない。

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正直さという美徳

チャーリーは最後にエリーと対峙し、彼女のエッセイの素晴らしさを語ることになる。チャーリーはオンライン講座の講師としては、文章は何度も書き直すことが唯一の正しい道ということを語っていたのだが、それは世間一般に言われる常識的な理論であり、チャーリーの本音は違ったようだ。

チャーリーは冒頭から『白鯨』についてのエッセイをお守りのようにしている。心臓の発作が起きた時も、そのエッセイを読んでもらうと気持ちが落ち着くようなのだ。そして、そのエッセイの素晴らしさはどこにあるかと言えば、書き手の正直な気持ちが吐露されているところだろう。

『白鯨』は読み通すのに苦労するような難解な小説だ。このエッセイの書き手はそれを正直に吐露する。クジラに対する描写が延々と続くのは退屈であり、これは作者が何かを先延ばししているようにも思えると語る。それでもこの小説を読んだことで自分の人生について考えられたのはよかった。そんなふうにこのエッセイの書き手は語る。

実は、その書き手というのがエリーだったのだ。エリーはこのクジラの姿に巨漢の父親チャーリーを重ねているのだろう。そして、エリー自身は白鯨を倒すことに執着するエイハブ船長に自分を重ねているのかもしれない。

エリーはエイハブ船長の白鯨に対する執着を無意味なことだと分析している。そうするとエリーが父親チャーリーに執着することも無意味だと分析していることになる。つまりは父親がいないことを自分なりに納得させているということであり、エリーは『白鯨』を自分に引き寄せて読んでいたのだろう。チャーリーはそのエッセイがエリーの正直な気持ちが出ていることを評価しているのだ。

チャーリーは生来の楽観主義からか、邪悪と感じられないこともないエリーの極端な正直さを肯定している。そのことはチャーリーの最期の訴えによってエリーにもようやく伝わることになる。そして、エリーはチャーリーと向き合うことになり、チャーリーはエリーが見守る中で自らの足で立ち上がり、さらには宙に浮かぶような幻想の中で死んでいくことになる。

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依存と現実逃避

この幻想はチャーリーの主観でしかないだろう。実像は別にある。人から“おぞましい”と蔑まれている極度の肥満男が、娘に大金を残したということだけを唯一の慰めとし、自らの治療を拒否して死んでいったという事実だ。これは美談というよりも、自分勝手な男の自己満足とも言えるだろう。しかし本作では、そんなチャーリーの最期の姿が美しい幻想として描かれて終わるのだ。

リズは人は他人のことなど救うことはできないと語っていた。まさに現実的にはその通りだろう。だからそんなチャーリーが救われるとすれば、自己満足的な幻想しかなかったということなのだ。

ちなみにダーレン・アロノフスキー作品の中で、ドラッグ・ムービーという印象が強い『レクイエム・フォー・ドリーム』は、監督自身のDVDの音声解説によれば「現実逃避の映画」ということになるらしい。『レクイエム・フォー・ドリーム』では若者たちはドラッグにハマってしまうけれど、その一方でダイエットにハマって破滅する中年女性も描かれている。人は様々なものに依存して現実をやり過ごそうとするのだ。

ほかのアロノフスキー作品では、たとえば『π』の主人公は数学の世界にのめり込み、『ブラック・スワン』の主人公はバレエの世界をその対象とした。そして『ザ・ホエール』と構成がそっくりとも言える『レスラー』の主人公はプロレスの世界に依存することが最期の救いのようになっていた。

それが本作においては、極度の過食という形になったということなのだろう。そんなふうにして何かに依存して現実から逃避しなければ生きてはいけない人もいるということなのだ。トーマスが宗教に救いを見出していることだって、信心深くない多くの人から見たら現実逃避とも言えるだろう。

そんな意味では、チャーリーの最期は彼の自己満足に過ぎないとしても、そんなふうにしか生きられないという気持ちもわからなくはないのだ。だからラストでなぜか泣けてしまったというのも、いつの間にか“おぞましい”存在のように見ていたチャーリーの姿に共感してしまっていたということだったのだろう。

もちろんそれは主演のブレンダン・フレイザーの熱演が大きい。アカデミー賞での主演男優賞受賞も素直に納得という1作になっていたと思う。

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