アカデミー賞国際長編映画賞にチュニジア代表としてノミネートされた作品。
監督はチュニジア出身の女性カウテール・ベン・ハニア。
物語
シリア難民のサムは、偶然出会った芸術家からある提案を受ける。それは、大金と自由を手に入れる代わりに、背中にタトゥーを施し彼自身が“アート作品”になることだった。美術館に展示され世界を自由に行き来できるようになったサムは、国境を越え離れ離れになっていた恋人に会いにいく―しかし、思いもよらない事態が次々と巻き起こり、次第に精神的に追い詰められてゆく。世界中から注目されるアート作品“サム”を待ち受ける運命とは…。
(公式サイトより抜粋)
自由のために何を捨てる?
本作においてシリアの内戦に関して詳しい説明があるわけではないけれど、政治的には混乱状態にあるらしい。サム(ヤヤ・マヘイニ)は電車の中で恋人にプロポーズする際に、「自由」や「革命」という言葉を勢いで叫んでしまったことから不当に逮捕される。そこからは何とか逃げ出したもののシリアには居られなくなり、隣国レバノンで難民として生きることになる。
そこでのサムは不法入国者として主張できる権利もないわけで、仕事にはありついたものの食べる物にも不自由するのか、パーティーに参加しては食べ物を漁るような毎日だ。しかしそれ以上にサムにとって辛いのは、恋人アビール(ディア・リアン)と離ればなれになってしまったことだ。自由に外国へ行く権利はないし、シリアに戻るわけにも行かないという八方塞がりの状況だ。
そんなサムの弱味に付け込むように、世界的なアーティストであるジェフリー(ケーン・デ・ボーウ)が声をかけてくる。メフィストフェレスのように「海外に行けるようにしてやろう。その代わりに君の背中が欲しい」と言うのだ。背中にアートとしてのタトゥーを入れれば、サムはアート作品としてどこへでも行くことができるというのだ。甘い誘惑にサムは乗ることになるのだが……。
現代アートの狙いとは?
マルセル・デュシャンの「泉」というアート作品は、“現代アート”の先駆けとして有名だ。これはただの便器に彼が署名しただけのものだった。アーティストがそれを「アートだ」と言い張れば、何でもアートになるらしい。そう言えば、ニューヨーク近代美術館では女優のティルダ・スウィントンがアート作品として展示されたこともある。これは一体どんなアートと言えるのだろうか。
現代アート界隈を舞台にした映画『ザ・スクエア 思いやりの聖域』に登場するアート作品は、美術館内のある区切られた四角の中では「誰もが平等で助け合わなければならない」というものだった。普段は実行することが難しい博愛精神を徹底する空間を生み出すことで、ある種の問題提起をしていたのだ。こんなふうに鑑賞する人に何かしらを問いかけ、価値観を揺さぶろうとするのが“現代アート”なのだろう。
『皮膚を売った男』の人体に描かれたアート作品も、さらには本作そのものも、様々な問題を提起している。サムの背中に描かれたのは“シェンゲン・ビザ”というものだった。このビザを持っている人は、シェンゲン協定に加盟しているヨーロッパの国々を自由に行き来することができることになるのだという。難民であるサムは国境を越えることはできないはずだが、サムがアート作品となると世界中を移動できてしまう。
そもそもシリアなどのアラブの人は好ましからぬ人物とされ、テロの予備軍みたいな警戒をされることになる。それに対して商品はいとも簡単に世界中を飛び回ることができる。それならば難民をアート作品にしてしまえばいい。この作品にはジェフリーというアーティストのそんな皮肉も混じっているのだ。
本作ではほかにも様々な問いが投げかけられる。サムはベルギーでアート作品として展示されることになるが、その後はオークションで転売されることになる。人身売買は許されないはずだが、これもサムがアート作品だから許されるのだろうか?
それから搾取も問題になる。ある宣伝用の写真ではジェフリーはサムの背中に手を当て、サムを屈服させているようにも見える。困っている難民が裕福なアーティストに搾取されているという図式だ。
これに対して「シリア難民を守る会」は善意でサムを助け出そうとする。彼らからすれば、ジェフリーがサムから自由を奪い奴隷のような扱いをしているようにも見えるからだ。しかしながらジェフリーとサムの関係は契約書に基づいて決められており、サムは背中を提供する代わりに、アート作品としての収益の何割かを手にすることになる。サムは自由を獲得するために、背中を売ったわけだが、他人からはそうは見えないわけだ。これは搾取と言えるのか否か?
鏡のトリックが導くのは?
本作は刺激的なエピソードに溢れていて単純におもしろい。それと同時に何かしら意味ありげな描写もあり、深いテーマを秘めているようにも感じさせる。
特に冒頭の鏡を使った導入部は印象的だ。ここでは男性二人が丁寧にアート作品を運んでくる。鏡に映った二人は曲がりくねった道を進むのか、消えたり現われたりしながら登場する。
ある映画評論家は「方向感覚を失う冒頭のトリック」とこれを表現し、またある評者は「物事の二面性や認識のズレを観客に感じさせる」と解釈している。ほかにも様々な解釈ができそうだ。
人は自分の顔や姿を自分で見ることはできない。そのために鏡が必要とされる。さらにそれが自分の背中となると、なおのこと自分では見ることができないだろう。しかし劇中に登場する美術館には“背中が映る鏡”が登場する。これは自分の背中側から撮影した映像が、鏡のように見えている目の前の画面に投影されたものなのだろう。
こうしたトリックは映画のテーマと結びつきそうで興味をそそるわけだが、映画が終わった後によく考えてみると、鏡やそれに映る像が本作の何と結びつくのかはわからないような気もしてくる。というのも、ラストの展開はそれまで取り上げてきた難民の問題を放棄してしまっているようにも感じられるからだ。鏡のトリックも意味ありげなだけの見かけ倒しにも思えてきてしまった。
社会風刺とエンタメと
ラストはエンターテインメント風などんでん返しを迎える。そこまでの問いかけは放り出され、「最後に愛が勝つ」といったハッピーエンドになるのだ。それまで現代アートを題材にした社会風刺映画を観ていると思っていたら、いつの間にラブストーリーとして終わるために、入口と出口がつながっていないような据わりの悪さがある。エンターテインメントがよくないわけではないのだが、社会風刺の部分とそれが融合してないように見え、焦点がぶれているように感じてしまうのだ。
本作ではシリア難民の厳しい現実が描かれていた。サムは難民となり、自分の身体を商品とすることでかりそめの自由を手にするも、それは別の不自由を抱え込むだけだった。恋人のアビールもシリアから逃げ出すために、親が決めたらしき外交官との結婚を選ぶしかなかった。
サムがアーティストに背中を売ったことを見た彼の母親は、サムが何かしらの虐待を受けたのかと心配している。そんな息子思いの母親は、戦闘に巻き込まれたのか両足を失っている。こうした厳しい現実がラストのどんでん返しで一気に解決してしまうのは、能天気だし絵空事に思えた。
確かに、ラストの出来事はイスラム圏ならあり得るという偏見を逆手に取っている。思えば、その前段でオークションにかけられたサムが、テロリストのフリをして会場を混乱に陥れたのも、イスラムに対する偏見を利用していた。
それがサムがシリアに戻るきっかけとなっているわけだが、アーティストのジェフリーはいつからその計画を練っていたんだろうか? サムはジェフリーに対して「システムに愛されている」と評価する。つまりは資本主義のシステムをうまく利用して稼いだということなんだろうと思うのだが、ジェフリーはそんなことを求めていたようには見えなかったし、バレたらアーティストとしての評判はどうなるんだろうか? エージェントのソラヤ(モニカ・ベルッチ)がビジネス面を気にするのならわかるとしても……。
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