『ロスト・ドーター』 「失われた娘」とは誰のこと?

外国映画

『ダークナイト』などにも出演していた女優マギー・ギレンホールの初監督作。

ヴェネチア映画祭では最優秀脚本賞に輝いた(脚本もマギー・ギレンホール)。

原作はエレナ・フェッランテの小説『The Lost Daughter』。

Netflixオリジナル作品として昨年末から配信中。

穏やかなバカンスが……

バカンスのためギリシャの海辺の町を訪れたレダ(オリヴィア・コールマン)。レダは別荘の管理人ライル(エド・ハリス)や、ビーチでバイトしている大学生ウィル(ポール・メスカル)などとも交流したりしながら、穏やかなバカンスを過ごしている。ところがあることをきっかけにそれが不穏なものとなっていく。

レダはビーチへやってきた若い母親ミーナ(ダコタ・ジョンソン)とその娘の姿に目を奪われ、いつの間にかに自分と娘たちの過去のことを追想している。そして、そのことはレダにとっては辛い想い出だったのだ。

レダは自分の若い頃の姿(ジェシー・バックリー)を、ミーナの姿に重ねている。ミーナが娘に翻弄されうんざりしているように、かつてのレダも二人の娘に振り回され疲れきっていたからだ。

「子育ての責任って人を押しつぶすのよ」とレダは語るわけだが、それはレダのかつての経験から出た言葉だったのだ。レダは辛い記憶を蘇らせ、精神的に不安定になっていたのか、なぜかミーナの娘が大事にしていた人形を盗んでしまうことになるのだが……。

Netflixオリジナル作品 『ロスト・ドーター』

母性という幻想?

レダは「私、母性がないの」と告白している。これはレダがかつて一度は娘たちを捨てたからだろう。レダは現在では大学の教授という地位にある。しかしながら、その地位を獲得するために犠牲にしたものがあって、それが娘たちだったのだ。

かつてのレダは向学心に燃える若者であり、二人の娘の母親でもあった。そのあたりの事情を娘たちが理解するはずもなく、レダは傍若無人で小さな怪獣のような二人の世話に明け暮れる。しかも夫の協力もあまり得られないという状況は、レダを爆発寸前にまで追い込んでいく。そんな頃、著名な研究者の男性(ピーター・サースガード)に認められ、彼に惹かれたこともあり、レダは娘たちを捨てて家を出ることになるのだ。

母性というもの自体が、もしかすると社会が女性に対して押し付けている幻想なのだろうか。本作のレダはそんな母性を否定する。母性がない女性もいるのだと。

実際にレダは娘を捨て、3年間顧みることがなかった。多分、その身勝手な行動により、レダは自らのキャリアを手に入れることになったのだろう。しかし、バカンスでミーナと出会い過去を振り返ることになると、レダは自らの行動を悔恨と共に想い出すことになるのだ。もしレダが「母性がない」という言葉を完全に信じているならば、そんな悔恨は生じないはすだ。

レダはミーナに娘たちを捨てて家を出たことについて問われると、「最高だった」と答えている。しかし、そう言いながらもその目は涙に濡れていて、辛そうでもある。最高だったのは恋に溺れた時でもあったからだし、それが自分のキャリアにつながることだったからでもあるのだろう。しかし、そのことを想い出すことは悔恨の念に駆られることでもあるわけで、その意味ではレダは母性というものを完全に否定できているわけではないのだ。

Netflixオリジナル作品 『ロスト・ドーター』

スポンサーリンク

助言とその否定

レダとミーナの関係は最後に破綻して終わることになるのだが、なぜレダは自分が人形を盗んだことをわざわざミーナに告白しなければならなかったのか。そのことが不思議に思えたのだが、もしかするとレダはミーナに対して、自由という幻想を抱かせたことを否定したかったのかもしれないとも思えた。

レダが娘たちを捨てるきっかけのひとつには、ある女性に対する憧れがある。アルバ・ロルヴァケルが演じたこの女性は、「人は子供の頃から義務に縛られている」と語り、男に家庭を捨てさせ、二人で自由気ままな生活を享受している。レダはこの女性の生き方に感化されたとも言えるだろう。そして、ミーナはレダに感化されている。

ミーナは子供に翻弄される生き方よりも、ほかの自由な生き方を求めようともしている。それは娘を捨てた過去を持ち、ひとりで自立して生きていて、今は優雅なバカンスに来ている、そんなレダに感化されたからだろう。

レダは最後まで「好きに生きるべきよ」とミーナに助言している。これはかつてレダがやったように、家庭を捨ててでも自由に生きるべきだということだ。しかし、それと同時にレダがやったことは、彼女が人形を盗んだ張本人であることを示すことだった。これによってレダの助言も意味のないものになる。というのも、ミーナが人生の先達として助言を仰いでいたレダという女性は、信頼するに足る女性ではなく、頭のおかしな泥棒だったと明らかにする行為だったからだ。

レダは自由に生きることを勧めながらも、結局はその助言をわざわざダメにしているように見える。これはちぐはぐな行動なわけだが、それというのもレダは自分の過去の行動に関して、未だに揺れ動いているからだろう。「最高」でもあり、「後悔」でもある。そんなアンビバレントな感情がレダを支配し、レダは自分を肯定しつつ否定するような混乱に陥っているのだ。

Netflixオリジナル作品 『ロスト・ドーター』

「失われた娘」とは誰のこと?

『ロスト・ドーター』の最後では、レダは娘とのつながりを改めて確認している。つまりレダは娘を失ってはいないわけで、それではタイトル「失われた娘」が指し示しているのは誰のことなのだろうか?

本作で無くなることになるのは人形だ。ミーナの娘の人形が無くなったのは、レダが盗んだからだった。そして、このことはレダにかつてレダの人形が失われることになった出来事を想い出させる。

レダは母親から譲り受けた人形を娘のビアンカに与える。この人形の名前は“ミニ・ママ”だ。レダは自分が忙しくて手が離せないために、自分の身代わりとして人形をビアンカに与えたのだ。しかし、ビアンカはそれが気に入らずに人形を邪険に扱い、それに怒ったレダは人形を外に放り出して壊してしまうことになったのだ。

もともとこの人形は、レダが母親から“ミニ・ママ”として与えられた人形だったのだろう。それを壊してしまったということは、レダが母親を拒絶していることを示してもいるのかもしれない。学問の世界で生きていきたいレダにとって、学校すら出てない母親は、否定すべき人間だったからだ。だからレダは母親から逃げ出し、恐らく会うことすらしていない。つまりはその母親からすれば、レダこそが「失われた娘」ということだったのかもしれない。

劇中で印象的に使われるネーブルオレンジの“ネーブル”とは“へそ”のことを指す。へそとは母と子のつながりを示すものだ。レダが壊してしまった人形も、レダが母から譲り受け、それをレダが娘たちへとつなげていくものだった。レダは人形によって娘たちとの記憶を甦らせたわけだが、それと同時に母親のことを考えていたのだろうか? 劇中には一度も登場しない母親だが、タイトルにはそんな意味が込められていると考えるのは考え過ぎだろうか。

若く魅力的なミーナを演じたダコタ・ジョンソンと、レダの若い頃を演じたジェシー・バックリーも良かったけれど、やはりオリヴィア・コールマンの存在感で引っ張っていく映画になっていて、コールマンはレダの複雑で厄介な感情を繊細に表現していて見事だった。そして、同じ旋律が繰り返されるテーマ曲も妙に耳に残る。

コメント

タイトルとURLをコピーしました