『ジョーカー』 感染する痛み

外国映画

『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』などのトッド・フィリップスの最新作。

ヴェネツィア映画祭では金獅子賞を受賞した。

ジョーカーというヴィラン(悪役)

アメコミの世界ではバットマンの宿敵として絶大な人気を誇るジョーカー。ジョーカーを演じることはそれだけで注目を浴びる。『バットマン』ジャック・ニコルソン『ダークナイト』ヒース・レジャー『スーサイド・スクワッド』ジャレッド・レトなどがこれまでジョーカーを演じてきた。

今回ジョーカーを演じるのはホアキン・フェニックス。『ザ・マスター』や『ビューティフル・デイ』などで様々な演技賞を受賞しているホアキンだけに、新たなジョーカー像が見られるのではと期待を集めている。

本作はコミックスでも描かれていないジョーカー誕生の秘密を描いたオリジナル作品で、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』『ジャスティス・リーグ』などのDCエクステンデッド・ユニバースとはつながりがない別物とされている。

確かに本作はアメコミ的なエンターテインメントとは一線を画す作品となっている。社会のなかで踏み付けにされ、誰からも省みられることのない男の重苦しい心理劇となっているからだ。

物語

本作はジョーカーへと変貌を遂げる前のアーサー(ホアキン・フェニックス)の姿から始まる。アーサーがピエロ姿で大道芸を披露しているのは、母親から「どんなときも笑顔で人々を楽しませなさい」と教えられていたから。ただ、アーサーには脳の障害で突発的に笑い出してしまう病もあり、周囲からは気味悪がられてもいる。

アーサーの笑いは、『バットマン』や『ダークナイト』に登場するジョーカーの高笑いとは異なり、泣き笑いのようなものに感じられる。笑いながらも苦しくて仕方がないという感じなのだ。というのもアーサーが置かれている状況は悲惨だからだ。

介護が必要な母のために大道芸の仕事で稼いでいるのに、街では悪ガキに襲撃され、護身のために持っていた銃のことがバレて仕事はクビになり、社会保障も打ち切られ薬すらもらえなくなってしまう。

しかし、アーサーだけが特別に貧困に喘いでいるわけではない。アーサーが地下鉄のなかで証券会社の社員たち3人を殺害した事件は、富裕層に対する貧困層の妬みを爆発させるきっかけとなる。舞台となるゴッサムシティでは貧富の差に対する不満感が高まっていて、たまたまアーサーがピエロの恰好をしていたこともあり、ピエロの仮面を被って社会に対する抗議をぶちまけることが一気に広まっていく。

※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics

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ジョーカーとは悪なのか?

本作ではアーサーという心優しい大道芸人が、ジョーカーという悪に変貌する過程を描いていくわけだが、ジョーカーは悪なのかという疑問すら湧くかもしれない。どこかでアーサーという男に同情してしまう自分がいるからだ。

アーサーは母親から「どんなときも笑顔で人々を楽しませなさい」と言われてきたわけだが、実はその母親からの虐待があったことが判明する。アーサーの突発性の笑いもそうした虐待のせいかもしれないのだ。そのことに気がついたアーサーは自らの人生をこんなふうに振り返る。「俺の人生は悲劇だと思っていたが違っていた。これは喜劇なんだ」

老いた母を支える優しい男。それがアーサーの人生だったはず。しかし、それが一気に崩壊するのだ。母親の言葉も、そうなってくると別の意味を帯びてくる。自分の苦境を他人に悟られないようにしなさいとでも言っているかのようなのだ。アーサーの「笑い」は何かを隠すための仮面のようなものであり、だからこそ「泣き笑い」のようにも見えるのだろう。

そして、母親の言葉を真に受けて、コメディアンとして生きていこうとしていたことも、悲劇でもあり喜劇でもあると言えるだろう。アーサーは笑うタイミングが人とまったく違う。笑いのツボがずれているというか、そもそもそんなセンスがないわけで、そのこともアーサーが追い込まれていく一因となっているのだ。

そんなアーサーが暴力を向けるのは、地下鉄で出会った3人や、アーサーに拳銃を渡した同僚の男、さらにはアーサーを笑い者にしたテレビ番組の司会者のように、人のことを低く見てバカにしているような連中ばかり。小人の同僚には手をかけることがなかったことからも、アーサーは相手を選別している。狂っているのは、人を人とも思わない富裕層の連中なのか、バカにされ政治からも見捨てられる貧困層なのか。そんな風に問われると、ジョーカーのことを単なる悪とは言えない気持ちになってくるのだ。

(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics

なぜ「R15+」指定なの?

本作はなぜか「R15+」指定となっている。エロもなければ暴力だってそれほどグロいものはないのに。これはなぜかと言えば、不穏な考えを煽るようなものとなっているからだろう。『ダークナイト ライジング』のときに劇場で銃乱射事件が起きたのと同様に、本作に観客が影響されることを危惧したものらしい。

ジョーカーは希代の悪だというのだが、本作のジョーカーはその過去が明らかにされると同情してしまう部分もある。ジョーカーが悪に走るのには理由があると考えた観客は、劇中で描かれる暴徒と同じように社会に対する憤懣を爆発させるかもしれないということなのだ。

アーサーはジョーカーとなって暴徒たちに祭り上げられることになるのだが、そこには何か思想があるわけではない。そもそも周囲のほうが勝手にアーサーの起こした事件に富裕層に対する恨みを読み込んだだけであって、アーサー自身はそんなことは意図していなかったはず。アーサーは「失うものはない」とまで宣言していて、半ば八つ当たり的な犯行だったわけだ。そんなアーサーが体制に対する抗議のアイコンとして持ち上げられることになってしまうところが恐ろしいところ。

どこまでが妄想でどこまでが現実

前半は陰鬱なチェロの音色がアーサーの悲哀を感じさせ、ジョーカーとして覚醒した後は一転する。重々しい足取りで長い階段を登っていたアーサーは、ジョーカーとなりRock and Roll Part 2という曲にのって踊るようにしてそこを降りてくる。

この場面ではどうしても気分が高揚してしまう。ただ、ジョーカーという悪に対してそうした共感を示してもいいものかという後ろめたさのようなものを同時に覚えるかもしれない。だからだろうか、最後にはジョーカーの存在自体を否定するようなシークエンスがある

本作は貧困層のアイコンとなる部分では『タクシードライバー』からの影響を感じさせるし、もう一つの重要な参考作品として『キング・オブ・コメディ』がある。わざわざその両作の主演俳優であるロバート・デ・ニーロに、本作の人気番組の司会者マレーを演じさせていることからもそれは明らかだろう。

『キング・オブ・コメディ』では、デ・ニーロはテレビ番組司会者に憧れる側であるパプキンという人物を演じていて、ラストで起きる事件も、その後の展開もそれがパプキンの妄想であったのか、現実に起きたことなのか、それを明確に判断することができないように描かれている。

『ジョーカー』もそれと同様のラストになっている。本作ではアーサーが彼女と考えていたソフィー(ザジー・ビーツ)との関係も、本当はアーサーの妄想だったことが先に示されているわけで、現実と妄想に境はすでに曖昧なものになっている。テレビ番組で地下鉄での3人殺害を告白したアーサーは暴徒たちに崇められる存在となるのだが、次の場面では女医と話しているアーサーの姿がある。もしかすると精神病院のなかで考えたジョークというのが、一連のジョーカー誕生として描かれたことだったのかもしれないのだ。

感染する痛み

本作は今年一番の問題作というのは間違いないのだが、冷静に考えてみると『タクシー・ドライバー』や『キング・オブ・コメディ』に似すぎているし、あのジョーカーのオリジンということで下駄を履かされているようにも思える部分もある。

しかし観た後の感覚は何かエグられるようなものがあったことも確か。アーサー=ジョーカーを演じたホアキン・フェニックスの憑依度が凄かったことの証左なのかもしれない。極端なダイエットをして臨んだというホアキンの身体は骨ばっていて、薄気味悪い異様な雰囲気を醸し出していたし、痙攣的な笑いの仮面に隠した痛みが観客にも感染するのかもしれない。上映時間以上に疲弊させる作品だったようにも思う。

『ダークナイト』のジョーカーは自分が道化であることを理解していて、その後の展開を読んでいたわけだが、本作のジョーカーはまだそこまでの存在にはなっていない。今後続きができるのかはわからないが……。富裕層と貧困層との分断・対立は、最近では『アス』などでも描かれていたが、一時的な抗議としては意味があるのかもしれないが、その後の展望や方策は誰にも見出せてはいないのかもしれないとも感じた。

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