『The Hand of God』 “神の手”に導かれて

外国映画

監督は『グレート・ビューティー/追憶のローマ』などのパオロ・ソレンティーノ

ベネチア国際映画祭では銀獅子賞(審査員大賞)とマルチェロ・マストロヤンニ賞(最優秀新人賞)を獲得した。

Netflixで12月15日から配信中(一部劇場公開もあり)。

ソレンティーノ版『アマルコルド』

『The Hand of God』パオロ・ソレンティーノ自伝的要素が強い作品とされている。ソレンティーノが37歳まで住んでいたナポリを舞台にした脈絡のないエピソードの羅列であり、ソレンティーノ版の『フェリーニのアマルコルド』とも言えるノスタルジックな作品となっている。

かつてソレンティーノは「私は、フェリーニ、マラドーナ、スコセッシ、そしてトーキング・ヘッズからインスピレーションを受けた」と語っていた。本作のどこまでが事実で、どこからが虚構なのかはわからないけれど、本作にフェリーニとマラドーナが登場するのはソレンティーノが率直に自分を形づくることになったものを示しているということなのだろう。

Netflix映画『The Hand of God』

「神の手」とは?

タイトル「The Hand of God」は、1986年のワールドカップにおいてマラドーナが左の拳でゴールを決めたことに由来する。マラドーナは試合後ハンドを認めずに、「ただ神の手が触れた」と表現したからだ。

ソレンティーノは『グランドフィナーレ』でもマラドーナっぽい人物を登場させていたが、ソレンティーノにとってマラドーナは単なるひとりのサッカー選手以上のもののようだ。Netflixで同時に配信されている『The Hand of God ソレンティーノの視点から』という短いドキュメンタリーでは、マラドーナのことを「神との関係を通して初めて理解できる神聖な人物」とまで評している。

ちなみにマラドーナの故郷のアルゼンチンでは、「マラドーナ教」という宗教まで存在するほどなんだとか。本作におけるマラドーナの登場シーンでは、彼を見たナポリ市民たちはまるで神の顕現にでも遭遇したかのように、その場に固まって遠巻きに眺めるだけになっている。マラドーナは親しみを込めて“ディエゴ”と呼ばれているけれど、同時に神聖な存在として描かれているのだ。

Netflix映画『The Hand of God』

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ナポリのゆかいな面々

本作はそんなマラドーナがSSCナポリに入団することになった1980年代を舞台としている。主人公のファビエット(フィリッポ・スコッティ)は学校では友達もいないようだが、家に帰れば優しい家族が迎えてくれる。いたずら好きの母親マリア(テレーザ・サポナンジェロ)は子供みたいな嘘をついて近所の人を激怒させたりする茶目っ気のある人だ。そんな母親を穏やかに諫める夫サヴェリオ(トニ・セルヴィッロ)は真っ当な人だけれど、実は外に浮気相手もいてマリアを悲しませたりもする。兄のマッキーノは役者志望でフェリーニ映画のオーディションに参加したりもしている。姉は引きこもり体質なのか、いつもトイレにこもっていてほとんどラストまで顔を見せることがない。

親戚と思しきジェンティーレ婦人は変人で、ナポリで一番の意地悪とされる。あまりの口の悪さにうんざりした義理の娘が中心となってジェンティーレ婦人を袋叩きにしたりするシーンもあるのだけれど、かといって関係が壊れるということもないようで、そんな変人も温かく(時に厳しく)受け入れているということらしい。親戚のおばさま連中にふくよかな女性が多いのも、フェリーニの影響ということなのかもしれない。

ファビエットがいつも気にかけているのはパトリツィアおばさん(ルイーザ・ラニエリ)のことだ。パトリツィアは旦那との間に子供ができないことを気に病んだからか、後半では精神科の病院に入院してしまう。そんな彼女はみんなが海で泳いでいると全裸になって日光浴を始めてしまう。

このシーンもマラドーナが登場した時と同じように、みんなはその姿を遠巻きに眺めるだけになっている。女たちが苦々しい顔つきなのは、パトリツィアの裸の美しさに対する嫉妬だろうか。そして、男たちはそれをこっそりと眺めつつも何か神聖なものを感じているようでもある。『グランドフィナーレ』で登場したミス・ユニバースの裸が一切卑猥なものを感じさせず彫像にすら見えたように、ソレンティーノにとってはマラドーナと同様に女性の美も神聖なものなのだろう。

Netflix映画『The Hand of God』

少年時代の終わり

しかし、そんなファビエットの幸福な少年時代は終わりを迎えることになる。というのは、両親が新しく購入した別荘で一酸化炭素中毒によって亡くなってしまうことになるからだ。ファビエットはそのことをすぐに受け入れることができずに苦しむことになる。

ファビエットが助かったのはマラドーナの試合が見たくて別荘に同行しなかったからであり、マラドーナの存在がファビエットを生かすことになるのだ。このことは「神の手」がファビエットに働きかけているということでもある。

ファビエットはまだ映画を3本か4本しか観ていないのにも関わらず映画監督になることを決意するのも、同様に神の力が働いているということを示しているのかもしれない。「現実は惨めだが、映画は気晴らしになる」という、兄から聞いたフェリーニの言葉が頭にあったからでもある。ファビエットは両親を亡くし、現実とは別のものを求めたのだ。

再起のきっかけのひとつにはナポリ出身の実在の映画監督アントニオ・カプアーノとの出会いもある(“ローマ教皇みたい”と揶揄していた男爵夫人との初体験もひとつのきっかけかも)。挑発的なカプアーノはファビエットに「勇気が必要だ。あるのか?」と問いかける。この言葉はファビエットに響いたのだろう。

“勇気”というのは古代ギリシャでは徳目のひとつとされていたようだが、今ではそれが必要とされる場面はあまりないのかもしれない。しかしながら両親を亡くしたファビエットは新しいことを始めなければと感じていて、そのためにはナポリを出ていく勇気が必要だったのだ。最後はファビエットがナポリを出発するところで終わることになる。

ソレンティーノは『The Hand of God ソレンティーノの視点から』では、ナポリという故郷についてこんなふうに語っている。「ナポリに戻るたびに相反する感情に直面する。限りない喜びと果てしない痛みだ」と。開巻劈頭の空撮ではカメラはナポリへと近づいていくのだが、上陸寸前になって海のほうへと引き返してしまう。このシーンはナポリの街の美しい景観を見事に捉えると同時に、ソレンティーノのナポリに対する複雑な感情そのものを示していたのかもしれない。

派手さはないけれど、あとからじわじわと滋味深さを感じさせるような作品。ナポリの風景はとにかく美しい。誰もがそんな故郷を持っているわけではないけれど、故郷に対するノスタルジアという点で誰にでも通ずるところがあるんじゃないだろうか。

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