『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』 ある待合室

外国映画

原作は『飛ぶ教室』などのエーリッヒ・ケストナーが書いた大人向けの小説『ファビアン――あるモラリストの物語』

原題は「Fabian oder Der Gang vor die Hunde」。「 Der Gang vor die Hunde」というのはドイツ語で「犬どもの前に行く」ということで、これは「破滅する」という意味になるとのこと。

監督はドミニク・グラフ。日本で劇場公開されるのは本作が初めてのようだが、1979年に長編映画監督としてデビューしていてキャリアはある人のようだ。

主演は『コーヒーをめぐる冒険』『ピエロがお前を嘲笑う』などのトム・シリング

物語

時代は1931年のベルリン。狂騒と頽廃の20年代から出口のない不況へ、人々の心に生まれた空虚な隙間に入り込むように、ひたひたとナチスの足音が聞こえてくる。どこか現代にも重なる時代、作家を志してベルリンにやってきたファビアンはどこへ行くべきか惑い、立ち尽くす。コルネリアとの恋。ただ一人の「親友」ラブーデの破滅。コルネリアは女優を目指しファビアンの元を離れるが……。

(公式サイトより抜粋)

時代背景は?

冒頭は現代の地下鉄の風景から始まる。カメラがそこを通り抜けて階段を上り、地上へ出ると、そこは1931年のベルリンとなっている。そして、主人公のファビアン(トム・シリング)は顔の見えない誰かに声をかけられるのだが、その男は「戦争はクソだ」とか何とかまくしたてることになる。

1931年のベルリンはどんな時代だったのか? 顔の見えない誰かは、その後にもう一度登場することになるが、そこで彼の顔が映ると、戦争の傷跡なのか焼け爛れたようになっている。ドイツは第一次世界大戦で敗戦国となった。その戦争の影が未だに時代を覆っているということだ。さらに1929年起こった世界恐慌によってますます状況は悪化したということなのだろう。

ファビアンはタバコ会社の宣伝部で働いているのだが、次々と従業員は解雇され、ファビアンもその仲間入りをすることになる。職業安定所には長い列が出来、そこにはファビアンと同じく第一次世界大戦に出兵した元兵士もいる。

そんな景気のよくない状況なのだが、本作で描かれる夜のベルリンはなかなか賑やかな様子を見せる。ファビアンも友人のラブーデ(アルブレヒト・シュッフ)と共にそんなベルリンで飲み明かすことになるのだが、これは先が見えない現状に対する憂さ晴らしということだったのかもしれない。

(C)Hanno Lentz / Lupa Film

恋愛映画?

『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』は、その当時のモノクロ記録映像のコラージュなど細かいカットをつないで見せていく。映像としてはとても古風な印象なのだが、スプリット・スクリーンもあったりして編集は忙しない。登場人物の行動を説明してくれるナレーションはなぜか男の声と女の声が交じり合っていて、ゴチャゴチャして取っつきにくい感はある。それに何とか馴れるころになると、主人公ファビアンと、その友人ラブーデ、さらにファビアンの恋人となるコルネリア(ザスキア・ローゼンダール)の姿が浮かび上がってくることになる。

ファビアンは出会い系クラブみたいなところに出入りしていて、夜な夜な遊んでいるらしい。そこで出会ったイレーネ・モル(メレト・ベッカー)という女性は、旦那と契約書を取り交わしていて、彼女の相手をしてくれる男性には旦那から金が払われることになるのだという。ファビアンはそんなイレーネからは逃げ出すことになり、その後にコルネリアと出会うことになる。本作はそのコルネリアとの出会いをとても丁寧に描いている。

ちなみに映画の後に原作『ファビアン――あるモラリストの物語』を読んだのだが、コルネリアとの恋愛部分は原作よりも映画のほうがかなり大きくなっていて、本作はファビアンとコルネリアの恋愛物語にも見える

ファビアンとコルネリアは夜の歓楽街で出会うのだが、実は住んでいるところは同じで、それを知らずにファビアンはコルネリアのことを送っていくことになるのだが、辿り着いたのは自分と同じ下宿先だったということになる。そんなふうにして貧しいふたりは愛し合うことになるわけだが、蜜月期は長くは続かない。ファビアンは失業し、コルネリアも金を必要としていたからだ。

コルネリアは自分の女優としての成功のため、有名映画監督に身を任せることを選ぶ。ファビアンはそのことを知りつつも、それを止めることは出来ず、それどころかオーディションのために彼女が話す台詞を書いてやったりもする。つまりはファビアンはコルネリアを映画監督に売り渡すような役割をしてしまうのだ。コルネリアはそれによって女優として有名になり、ファビアンとは引き離されることになってしまう。

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コミュニズムかファシズムか

ラブーデはレッシングの研究者として論文を書き上げ、それを教授に提出したばかり。それと同時に政治的な活動も行っているらしい。ラブーデはブルジョアだ。だからこそなのか、彼はプロレタリア革命というものに希望を見出している。

改めて確認すると時代は1931年だ。この時代のドイツの人たちが希望を見出していたものとしては、一方に共産主義というものがあり、一方にはナチスのファシズムというものがあったということなのだろう。敗戦によってドイツに課せられた賠償金はさらにドイツを追い詰めることになり、そこからの脱却として多くの人がヒトラーのナチスに期待を寄せることになり、ナチスが台頭してくることになる。

ラブーデが希望を見出していたのは革命だが、そんな彼は「あること」で絶望して銃で自らの頭をぶち抜いて死んでしまう。これは提出した論文が却下されたことがきっかけとなっているのだが、それにはナチス党員と思しき者の他愛ないイタズラが関わっている。

さらにファビアンの運命を記してしまうと、ファビアンは別れたコルネリアに再び会いに行く時に、川で子供を助けようとして溺れ死んでしまう。このふたつの出来事自体は悲劇なのかもしれないけれど、本作はそれをかなりあっさりと描いている。

頭をぶち抜いたラブーデはその後に女性たちによって頭にタオルを巻かれ、歯痛に苦しんでいる人みたいなマヌケな姿になってしまうし、ファビアンの死も呆気なさ過ぎるからだ。そして、ラストではファビアンが来るのを待っているコルネリアの姿があり、彼の死を知らずに待ち続けることになる彼女の姿が哀れを誘うことになる。

(C)Hanno Lentz / Lupa Film

ファビアンの選択とは?

邦題は「ファビアンの選択」ということを謳っているわけだけれど、実際にファビアンがした選択とは何だったのだろうか?

コルネリアを映画監督に差し出すことを選択したとは言えるかもしれない。あるいは、何度か登場することになるイレーネ・モルの誘いを断るという選択をしたとも言えるかもしれない(イレーネの誘いはファビアンにとって経済的な豊かさをもたらすものだった)。しかしながら、映画監督に身を任せることを決断したのはコルネリアだし、イレーネとのことも積極的な選択とは言い難い。結局、ファビアンは選択らしい選択は何もしていないようにも見える。

というのは、ファビアンは作家志望であり、作家というのは傍観者であり、周囲を観察する人だからだろう。ファビアンはモラリストではある。浮浪者に同情し、自分のテーブルに誘ってビールを飲ませてやったりするし、溺れる子供を見たら、自分が泳げないことも忘れて飛び込んでしまうような人だ。それでも現実的にはファビアンは無力だったのかもしれない。

原作では、ファビアンは傍観者ではあったとしても、作家志望とは書かれてはいない。これは映画独自の設定で、ファビアンに原作者のケストナーの姿を重ねたということなんだろう。ラストではファビアンがメモしていたノートが焼かれることになるのだが、ケストナーの著書もナチスによって焚書にされたらしい。

ケストナーは1933年にこの原作小説を発表した。その頃すでに第二次世界大戦への兆しを感じ取っていて、警告としてこの原作を発表したのだ。その意味ではケストナーは単なる傍観者ではなかったということだろう。

ケストナーはナチスから目を付けられていたけれど、最後までドイツから離れることはなかったようだ。彼がドイツに留まることを選んだのは、そこで時代を目撃することを意識していたからなのだろう。

(C)Hanno Lentz / Lupa Film

ヨーロッパという待合室

本作は3時間という長尺だ。それが意外にも呆気ない幕切れだったもので、何となく気になって原作のほうも読んでみた。しかし、ファビアンの死に方は映画と同じだった。ただ、原作にはもっとこの時代のドイツの雰囲気が書き込まれている。一方で映画のほうは説明的言及を避けるためか、コルネリアとファビアンの恋愛部分が大きくなり、ふたりの別れというものが強調されているようにも感じられた。

原作を読んでわかることは、その時代はひとつの戦争が終わり、次の戦争までの過渡期という感覚があるということだ。最初の戦争が始まることがわかった時、ファビアンたちは「したい邦題」に暴れたのだという。そして、戦争が終わって戻ってきたわけだけれど、どこかでその火種は燻っている。それを感じているファビアンは、今も次の戦争が始まるまでの過渡期のように感じているのだ。原作において印象的な箇所を引用してみる。

ぼくの運命は早晩もう戦場の露ときまっていたんだからね。いったい、それまでぼくは何をして暮らしたらいいんだ? 本を読んだらいいのか? 人格を磨いたらいいのか? 金もうけをしたらいいのか? ぼくはある大きな待合室に腰を掛けていたんだ。その待合室はヨーロッパというんだ。一週間たつと汽車が出るんだ。そのことは分かってるんだ。しかし何処へ行くんだか、またぼくってものがどうなるんだか、それは誰にも分からないんだ。ところで、いまぼくはまた待合室に腰を掛けてるんだ。ところが、その待合室の名前がまたヨーロッパっていうんだ。そしてこんどもまたぼくたちはどうなるか知らないんだ。ぼくたちは過渡期の生活をしているんだ。いつになってもこの危機は果てしがないんだ

映画版のほうでもファビアンたちは怠惰に飲み歩いたりしているわけだけれど、その憂さ晴らしにはこういう背景があったということなのだろう。それを映像だけで示すというのはなかなか難しいのかもしれないけれど、こうしたことが示されればもっとわかりやすい話になったようにも感じられた。

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