古典落語の「柳田格之進」という演目を元にした作品とのこと。
監督は『死刑にいたる病』などの白石和彌。
脚本は『凪待ち』などの加藤正人。
主演は『ミッドナイトスワン』などの草彅剛。
物語
浪人・柳田格之進は身に覚えのない罪をきせられた上に妻も喪い、故郷の彦根藩を追われ、娘のお絹とふたり、江戸の貧乏長屋で暮らしている。しかし、かねてから嗜む囲碁にもその実直な人柄が表れ、嘘偽りない勝負を心掛けている。ある日、旧知の藩士により、悲劇の冤罪事件の真相を知らされた格之進とお絹は、復讐を決意する。お絹は仇討ち決行のために、自らが犠牲になる道を選び……。父と娘の、誇りをかけた闘いが始まる!
(公式サイトより抜粋)
落語から映画へ
脚本家の加藤正人は囲碁好きで、それなら囲碁が重要な要素となっている落語の「柳田格之進」をやればいいという話になり、そこから本作がスタートしたらしい。とはいえ、元ネタだけでは1時間ももたない話であることからか、落語の中ではほとんど触れられていない部分を大きく膨らませて、落語とは全く別の話となっているとも言える。
これは映画と落語が全く別のものだからということでもあるだろう。落語のことは全く知らないので勝手なことを言えば、そのおもしろさは“語り”そのものにあるということなのだろう。落語が好きな人は、その演目がどんな話なのかをすでに知っていて、それでもわざわざ聞きに行ったりするというのは、その語り口そのものがおもしろいということなのだろうと推測する。
一応、私も「柳田格之進」という本作の元ネタもyou tubeで聞いてみた。格之進という主人公は、萬屋源兵衛の家で盗みの疑いをかけられることになる。浪人とはいえ実直そのものの武士だった格之進は、そんな不名誉は受け入れられるわけもない。武士の面目を保つためにも腹を切ってお詫びするつもりが、娘のお絹に助けられることになる。お絹が犠牲になって金を用立ててくれたのだ。
格之進としては娘に多大な迷惑をかけているわけで、後日、無くなったとされる金がほかから出てきた場合はどうするかという話になる。格之進に嫌疑をかけた萬屋のところの番頭は、万が一そんなことになれば「首を差し上げます」と返事をすることになるのだ。
語られている内容は恐ろしい話だが、その語り口が軽い調子だから笑える話となっている。最終的には人情噺でオチがつくことになるわけだが、これを映画でやっても大しておもしろいものにはならないだろう。
時代劇らしい画づくり
『碁盤斬り』がやろうとしていたのは、時代劇らしい画づくりだったのだろう。白石和彌監督としては初めての時代劇ということもあり、これまでのやり方とは違うものが意識されている。
エンドロールにはいくつかの京都の撮影所の名前が連ねられていたのが確認できたのだが、本作は松竹と東映の両方の撮影所のお世話になっているのだとか。本作がどちらの会社の映画でもなかったことから(制作には従来の大手映画会社とは別のキノフィルムズが関わっている)、両方の撮影所のいいところを借りることができたということらしい。
本作では、萬屋の場面は松竹の撮影所で撮られ、長屋や吉原につながる橋は東映の撮影所だったようだ。うまい具合に松竹と東映のセットを使うことができたこともあってか、時代劇らしい画を見せてくれる作品になっているのだ。
雨の橋の上で格之進とお絹が佇むシーン(『人情紙風船』みたいだった)、吉原へと入っていくお絹の後ろ姿を捉えたシーン、江戸へと取って返す格之進が橋の上を駆けていくシーンなどは、これまでの時代劇のいいところを取り出したかのような画を見せてくれる。さらには富士山を望む庭の場面などは、表現主義的に凝ったシーンだったと思う。そんな意味で、古き良き時代の時代劇を思い出させてくれる作品だったし、見どころが盛りだくさんの飽きさせない映画になっているのだ。
武士の面目なんて
「柳田格之進」という落語では、格之進と番頭のやり取りが笑えたのだが、映画『碁盤斬り』の場合は、狙いが笑いではないからか、格之進(草彅剛)に嫌疑をかける役目は弥吉(中川大志)が担っている。映画で番頭を演じたのは音尾琢真だったから、それはそれでおもしろいシーンになっていた可能性はあるけれど……。
本作は、最終的には小林正樹の『切腹』のような重いテーマに踏み込んでいく。『切腹』では浪人の男が「武士の面目なんて上辺だけのもの」と気づく話となっていたわけだが、本作も格之進が「武士の面目なんてくだらない」ということに気づく成長譚となっているのだ。
そもそも格之進という男は、娘のお絹(清原果耶)にも「一度決めたら後には引かない」と言われている。実直そのもので清廉潔白を絵に描いたような人物だからこその頑固さなのだ。後ろめたいところがないから、そんなふうに真っ直ぐになれるということだ。しかしながらそれが要因となって格之進は職を追われ浪人になる。
劇中でも「水清ければ魚住まず」と言われるように、清廉潔白も度が過ぎると問題が生じる。正義感もそれを押し通し過ぎると、周囲からの反感を買うことになるのだ。格之進の場合は、上役の柴田兵庫(斎藤工)が格之進のことを目障りに思い、策を弄して彼を陥れたのだ。ちなみに兵庫に関わる部分が、映画で付け加えられたエピソードだ。
格之進が守ろうとしていたことは何だったのだろうか? それが「武士の面目」というものだろう。格之進は自分の真っ直ぐな正義を押し通したことで周囲に軋轢を生み、兵庫という男を敵に回すことになり、最終的には奥様を自殺に追い込むことになった。さらには盗みの嫌疑をかけられた時も、「武士の面目」を重んじるあまり不名誉を嫌い、今度は娘のお絹を吉原に沈めることになってしまった(これは小泉今日子演じるお庚が助けてくれたけれど)。
格之進は兵庫と闘い、復讐を遂げることになるけれど、その中でひとつ学んだのだ。彼が守ろうとしていた「武士の面目」というものは実はくだらないもので、命を賭してまで守るべきものではなかったということだ。そんなもののために犠牲になった奥様や娘のほうこそ、もっと大切で守るべきものだったんじゃないかということなのだ。
だから本作では落語にもあったオチとは別にもうひとつエピソードが加わっていて、それが格之進が清廉潔白を捨て、自分の手を汚してまでほかの人を助けることを選ぶことになるわけだ。武士という存在はすでに過去のものとなっているわけで、「武士の面目」というものも今では理解に苦しむ精神論ということになるかもしれない。格之進にそれを否定させることで、本作は時代劇ではあるけれど、現代にも通じるテーマを描く作品になっていたんじゃないだろうか。
格之進を演じた草彅剛は汚れっぷりが良かったと思う。ヒゲを蓄え、さかやきを剃ることもできないような状態になり、みすぼらしくなってからのほうが男臭さが増していい感じになっていた。
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