『宮松と山下』 生まれてはみたけれど

日本映画

監督・脚本・編集は、監督集団「5月」。

主演は『ゆれる』『トウキョウソナタ』などの香川照之

物語

宮松は端役専門のエキストラ俳優。ロープウェイの仕事も掛け持ちしている。時代劇で大勢のエキストラとともに、砂埃をあげながら駆けていく宮松。ヤクザのひとりとして銃を構える宮松。ビアガーデンでサラリーマンの同僚と酒を酌み交わす宮松。来る日も来る日も、斬られ、撃たれ、射られ、時に笑い、そして画面の端に消えていく。そんな宮松には過去の記憶がなかった。

(公式サイトより抜粋)

手法がテーマを担う

『宮松と山下』は3人の監督によって作られているのだという。その3人のユニットの名前を「5月」というらしい。CMや教育番組「ピタゴラスイッチ」を手掛けてきた佐藤雅彦と、その大学での教え子である関友太郎平瀬謙太朗がその3人だ。

「5月」は「手法がテーマを担う」ということを標榜している。ここで言う手法というのが何なのかは曖昧だけれど、とにかく映像としてのおもしろいアイディアがあり、テーマというものは後からついてくるという考えらしい。

通常ならば物語というものがあって、それを効果的に伝えるために手法が選ばれるというのが一般的なのだと思うのだが、それとは逆のことをやっているのが、この「5月」というユニットなのだ。実際にその映画を観てみた感想としては、今年一番の刺激的な映画と言えるかもしれない。

(C)2022「宮松と山下」製作委員会

エキストラの奇妙な世界

まずアイディアの発端にあったのが、エキストラの奇妙な世界を映像化するということだったようだ。本作の主人公の宮松(香川照之)はエキストラとして働いている。ほとんどが殺されたりするような端役ばかりで、そういう場合エキストラは1日に何役もこなすことになるらしい。

宮松はバッサリと斬り殺されると、しばらくそこで死んだフリをしているが、頃合いを見計らって起き出すと、次の役の準備に取り掛かる。それまで死んでいた人が急に起き上がる様子はちょっとおかしいし、どこかで異様な感覚もある。

本作の前半部分は、そんなふうに日常の感覚を異化していくような映像が続く。エキストラの日常はちょっとおかしなところがある。昼休みにはちょんまげ姿のエキストラたちが、サラリーマンたちに混じってラーメンをすすっていたりもするからだ。日常からちょっとズレたエキストラの世界と同じように、本作のほかの映像にもそんな異化作用を感じる。

冒頭の幾何学模様のような屋根瓦、観光用のそれとは異質なロープウェイからの風景、そして家の暗がりに寝転んでいる女性(野波麻帆)の赤い唇の極端なクローズアップ、これらの映像は不穏な音を響かせる劇伴もあって、日常的なものでもあるけれどどこか異様なものを感じさせるのだ。

そんな中で描かれる宮松の姿はどこからが虚構の中の出来事なのか、どこからが現実の宮松の姿なのかがわからなくなってくる。あえて虚構も現実もシームレスに描き、観客を混乱させているとも言える。しかし本当の宮松の姿がなかなか見えてこないのは、宮松自身が記憶を喪って本当の自分というものを見失っているからでもあるのだろう。

(C)2022「宮松と山下」製作委員会

宮松から山下へ

そんな宮松の前に谷(尾美としのり)という男が現れ、宮松のことを「山下」と呼ぶ。宮松はかつてはタクシー会社で働いていて、宮松の実家には妹がいるのだと語る。宮松にとっては寝耳に水の出来事だ。この出会いによって本作は後半へと移行していく。

宮松は妹の藍(中越典子)のところへ身を寄せる。宮松は自分が山下なのだと知っても、妹である藍の顔を見ても、自分のことを思い出せない。ここで印象的なのは、宮松は実家に戻ってきたものの、そこでやるべきことを見出せずにいるということだ。

このことは宮松がエキストラの仕事をしていたことともつながっている。彼は記憶を喪い、自分が何者かもわからなかった。だから宮松は自ら役者となり、何かの役割を演じることでやるべきことを見出してきた。後半で宮松から山下になったとしても、彼には未だに記憶が戻っていないため、やはり自分の役割がわからないのだ。エキストラの仕事を失った宮松としては、自分の役割も失い、実家で手持ち無沙汰で茫然としているしかなかったのだ。

人は突然の啓示によって何らかの使命に目覚める人ばかりではない。生まれてはみたけれど、茫漠とした人生にはっきりとした目的地を設定することができずに途方に暮れている人もいる。宮松は自分の役割がわからずに、その空白をエキストラという役割によって埋めていたのだ。

※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2022「宮松と山下」製作委員会

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思い出したくない何か?

宮松は自分の過去と向き合うことになるわけだけれど、同時に記憶が戻ることが「いいこと」なのか否かという不安もある。このあたりは前半の不穏な雰囲気を引き継いでいる。

医者曰く、記憶喪失というのは外傷よりも心の問題が大きいとのことで、宮松の過去にも思い出したくない何かが潜んでいるかもしれないからだ。宮松は記憶が戻らないと、自分のなすべきことがわからない。しかし記憶が戻れば、それによって厄介なことが降りかかってくるかもしれない。そんな状況だ。

これは宮松と妹の藍とその旦那(津田寛治)の関係にも関わってくる。宮松はかつてタクシー会社にいた時、誰かに襲われて頭に傷を負った。宮松は人から恨みを買うような人物だったということだ。記憶を喪った宮松はいつもおどおどとしている印象だが、かつては今とは違っていたということになる。だからかつての宮松、つまり山下が戻ってくることは、ある種のサスペンスとして感じられるのだ。

(C)2022「宮松と山下」製作委員会

言葉では表現できないこと

そこから先は香川照之の独壇場だった。宮松は藍に促されてタバコを吸うことになる。車がひっきりなしに走る幹線通りにあるタバコ屋の前、その騒音は次第にタバコが燃える音だけになっていく。宮松はただタバコを吹かすだけ。しかしそれによって彼の中で何が変わったことが示される。

さらに宮松はその後、自宅の縁側で藍と会うことになる。香川は宮松の変化を微妙な顔の表情だけで示してみせる。これは見てもらうしかないわけだが、ほかの誰にも真似できないような香川の超絶技巧があったことは確かだろう。

その宮松の変化がどんなものなのかを語るのは、無粋なのかもしれない。言葉で表現しようもないことを雄弁に示してみせたのがこの見事なシーンだからだ。それでも私が感じたことを言っておけば、宮松は山下としてやるべきことを見出したということだったんじゃないだろうか?

香川照之はかつて『鍵泥棒のメソッド』というコメディでも記憶喪失の男を演じていた。しかも『鍵泥棒』でも記憶を喪いながら役者をやることになった。だから何となくそんな楽しい作品をイメージしていたのだが、本作は同じような題材を扱いながらもまったく違った映画になっている。あくまで静かに不穏なものを感じさせ、自分が見ているものが信じられなくなるような不安を煽る映画なのだ。

本作はほとんど宣伝というものもなくひっそりと公開されたようだ。これは言うまでもなく主演の香川照之のある騒動によって、そうせざるを得なくなったということだろう。それに関してはまったく擁護することはできないわけだが、だからといって本作が無視できる作品とも思えない。

本作の香川照之の演技はやはり驚くべきもので、控えめに言っても、ほかのどの作品を差し置いても今年一番観るべき作品になっているんじゃないかと個人的には思う。それから宮松に対し、ファザコンとブラコンを併発しているような藍を演じた中越典子のちょっとやつれた感じも印象深い。

「5月」によればテーマは後付けで手法が大事なのかもしれないけれど、記憶を自分の役割というものに結びつけたところは良かったし、単に手法だけに留まらない観賞後も色々と考えさせるものを含んだ映画になっていたと思う。改めて言うけれど、今年一番の刺激的な作品だったんじゃないだろうか?

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