『十二人の死にたい子どもたち』と「この世の終わり」についてのあれこれ

日本映画

『十二人の死にたい子どもたち』について

 ※ 以下、ネタバレもあり

先日、レンタルが開始された『十二人の死にたい子どもたち』(堤幸彦監督)を観た。いろいろとツッコミどころが満載の作品とはいえ、若手の俳優陣が揃い踏みでそれなり楽しませてくれる。ただ、予告編と中身が違うことが詐欺っぽく見えたり、ミステリーとしてはあまりにも都合が良すぎるところもあるからか、評判は芳しいとは言えないようだ。確かに最後のネタバラシの部分は、懇切丁寧で謎を残さないのだが、それゆえにかえって無理やり感は残る。

個人的に気になったのは、こうした題材が成立してしまうことがそれほど不思議ではないということのほうだ。発端は12人の子どもたちが集団自殺を決意して、廃墟となった病院に集まるというもの。実際に12人が集合してみると、すでにひとりの遺体があり、計画倒れになるのか否かというのがあらすじ。

映画好きならわかるように本作は『十二人の怒れる男たち』という作品を踏まえている。名作として名高い映画で、日本でもこれをパロディ化した『12人の優しい日本人』(三谷幸喜監督)が作られている。元ネタの『男たち』では、父を殺したとされる少年を裁くために集まった陪審員たちの話で、最初はひとりだけしかその少年の罪をいぶかしがる者はいなかったのだが、議論が続くうちに逆転していくという話。だから『子どもたち』でも最初は自殺をするという前提だったものの、そこから逆転していくことは予想されることでもある。

自殺したい若者たち

『十二人の死にたい子どもたち』では、12人の子どもたちの自殺を望む理由は様々。不治の病のために死を望む者もいれば、不幸な境遇ゆえに生まれてこなければよかったと思っている者もいる。死亡保険金を家族に残すために死にたいと言う者もいれば、逆に保険金をかけられているからその効力が発生する前に死にたいと言う者もいる。人を殺してしまったからと罪悪感を抱えている者もいれば、単にヘルペスが治らないから自殺したいという変な子もいる。その理由は万人に受け入れられるとも思わないが、本人にとっては重要なことらしく、それなりの切実さを持ってその場に集まってきているのだ。

2012年の『ヴァンパイア』(岩井俊二監督)のように集団自殺を描いた作品がなかったわけではないのだが、その時はまだごく限られた人たちの話と思えたのだが、本作では死にたい理由を抱えているのがまるで当然であるかのようでもある。

自殺願望を抱えた少女たちが犠牲になった「座間9遺体事件」のあらましを聞くにつけ、それを実行するか否かは別して、自殺したいと考えている人が少なからずいるということが明らかとなった。また、事件の犯人の供述によれば、その事件で犠牲になった人たちのほとんどが、実際には自殺を望んでいたわけではなかったとも言われている。
それでもわざわざネットで自殺したい人を探していたのは、「同好の士」を求めるような感覚だったのだろうか。自分の思いに共感してくれる誰かがいて、それで日頃のガス抜きができるとしたならば、実際には自殺行為までには及ばなくとも日常へと復帰する人がいても不思議ではない。だから『子どもたち』のラストで、それぞれが自分の思いを吐露したあとにスッキリして、あっけらかんと計画を中止してしまうというのは満更嘘でもないことなのだろう。

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ドクター・キリコ事件

『十二人の死にたい子どもたち』を観たあとで、1998年の「ドクター・キリコ事件」について書いた本を読んだ。私はこの事件のことをまったく知らなかったのだが、当時はワイドショーなどでも話題になったらしい。

ドクター・キリコと呼ばれる男が自殺志願者に青酸カリを送付し、それを受け取った自殺志願者が本当に自殺を決行してしまったというのが事件のあらまし。その後、ドクター・キリコは自殺ほう助の罪に問われることになるわけだが、その事実を知ったドクター・キリコは自らも青酸カリによって死を遂げたものらしい。
なぜ自殺を誘発するような薬を送付したのかという点は、そののちに明らかになったのだが、そのあたりについて取材して書かれたのが『Dr.キリコの贈り物』(著者:矢幡洋)という本だ。

この本によればドクター・キリコはうつ病を患っていた過去があり、自殺志願者であったとのこと。病院で処方される薬はあれこれ試してみたものの、一向に症状は改善せずに自殺念慮に脅かされる日々が続いていた。それが青酸カリを手元に置いてお守り代わりにしてみると、それまでのことが嘘のように自殺念慮がなくなっていったのだという。

青酸カリには致死性の毒が含まれているわけで、それを飲み込めば確実に死が訪れることはわかっている。ちなみにドクター・キリコは薬学の専門家でもあり、そうした知識に詳しかったとのこと。つまり、いつでも死ねると思うと、開き直って生き直すことができるというのだ。

実際にドクター・キリコから青酸カリを譲り受けた人はほかにもいたらしいのだが、その人たちはそれをお守り代わりに持つことで自殺念慮から脱して生へと向かうことができたらしい。この本で一番読み応えがあるのは、ドクター・キリコから青酸カリを受け取った主婦が、一度は青木ヶ原樹海まで行き自殺を決行しようとするものの、死ぬことができずに帰ってくるというエピソード。ギリギリまで死の近くに行くことで、その境界線を越える勇気があるかどうかが試される。そして、自分にはそんな勇気がないということを改めて確認することで、かえって生へと反転するということが起こり得るのだ。

「この世の終わり」を描いた作品

1990年代の終わりのころには盛んに「世紀末」という言葉が使われていた。今ではもう忘れられてしまった「ノストラダムスの大予言」によれば、1999年7の月に恐怖の大王が来て人類が破滅するという与太話は誰でも知っているネタだった。

そのイメージがあるからか、この時代には「この世の終わり」を描く映画も多かったようにも思っていたのだが、実際はどうだったのだろうか。80年代の『風の谷のナウシカ』『北斗の拳』や、90年代後半の『新世紀エヴァンゲリオン』あたりは典型的なのかもしれないのだが、実際には意外と少ないようにも感じられる。というのも、かえって今のほうがそうした「この世の終わり」を好んで描く作品が多いようにも感じられ、ほとんどひとつのジャンルとして定着している印象すらあるからだ。

2012年にはマヤ歴による世界の終わりを喧伝する『2012年』という作品があったし、エル・ファニングが出演していて最近レンタルに登場した『孤独なふりした世界で』も同様なジャンルだった。Netflixのオリジナル作品でも『バード・ボックス』『すべての終わり』などが「この世の終わり」を描いていて、多分探せばキリがないほどあるのだろう。加えれば、今でも人気のゾンビものは「この世の終わり」というジャンルの亜種みたいなものだろう。

大体このジャンルでは、本当に世界が終わってしまうわけではない。わずかに生き残った人々は多くの人の死を間近に見ながらも、残っている資源を活用しつつ、みんなで協力しながら生きていくことになる。

『孤独なふりした世界で』では主人公の男(『スリー・ビルボード』にも出ていたピーター・ディンクレイジ)がある町で孤独に暮らしているという設定だが、彼が孤独に耐えられたのは男が小人であり、それまでの世界で差別を受けてきたからからだ。また、なかにはラース・フォン・トリアー『メランコリア』のように地球が消えてしまうような終わりがないこともない。ただ、これらの作品は特殊な事例だろう。

通常は「この世の終わり」が描かれると、生き残った人々はかつてよりも充実した生を送ることが推測される終わり方になる。これは「ドクター・キリコ事件」の際に言及したように、ギリギリまで死の境界に近づいたからこそ生へと反転することになったということだろう。

「自殺という行為」と「この世の終わり」は、どちらもギリギリまで死の境界に近づくという点では同じことだ。思えばすでに1993年の『完全自殺マニュアル』(著者:鶴見済)で「いざとなれば自殺してしまってもいいと思えば、苦しい日常も気楽に生きていける」という提言はなされていたし、その本の冒頭では、「もうデカイ一発はこない。22世紀はちゃんとくる。」とも宣言されていたのだ。

「デカイ一発」とはハルマゲドンのような「この世の終わり」ということだ。なぜこのことが宣言されなけれならなかったのかと言えば、「この世の終わり」が来ればそれまでの秩序が一変することになり、生きづらい世の中が変革される可能性があったからだろう。しかし、それは決して起こることはないわけで、この世界は21世紀どころか22世紀をも迎えることになる。だからこそ自殺を検討することの有用性が説かれたわけだ。

「いつでも死ねると思うと、開き直って生き直すことができる」とはいえ、一般的に青酸カリは手に入れることは難しいし、頻繁に自殺未遂を繰り返すのも現実的とは言えない。一方で「この世の終わり」を描く映画は、ごく簡単に死に近づいたような気分が味わえる。そうした映画が「この世の終わり」というひとつのジャンルとして成立するほど隆盛を極めているのは、死にギリギリまで近づくことで生へと引き返すための無意識の営みとしてあるのかもしれない、そんなふうにも思えた。

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