『ドッグマン』 リアル・ジャイアンをどう扱うか?

外国映画

『ゴモラ』『リアリティー』などのマッテオ・ガローネ監督の最新作。
本作はイタリアの映画界で最高の賞であるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞において、作品賞・監督賞など最多9部門を制したとのこと。

物語

主人公のマルチェロ(マルチェロ・フォンテ)は寂れた海辺の町で、「ドッグマン」という犬のトリミングサロンを経営している。マルチェロが店を構える商店街の店主たちはみんな仲間で、ランチを食べる場所も同じなら、仕事が終わってからも一緒にサッカーを楽しむほど密接な関係にある。
しかし、マルチェロは厄介なことを抱えてもいて、それは地域でも札付きの問題人物であるシモーネ(エドアルド・ペッシェ)だ。シモーネは突然マルチェロの店に現れては麻薬をせびったり、無理やり空き巣の手伝いをさせたりする。マルチェロも少しは抵抗を試みるものの、自分より頭ひとつ以上デカくて腕っぷしの強いシモーネには強引に押し切られてしまう。

リアル・ジャイアンをどう扱うか?

マルチェロとシモーネの関係を説明するとすれば、『ドラえもん』におけるのび太とジャイアンの関係と言えば一番手っ取り早い。シモーネはジャイアンの名台詞「お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ」を地で行く態度で、マルチェロが何か文句を言おうとしても、腕っぷしによってマルチェロを従わせる。

アニメのなかのジャイアンはリサイタルで音痴な歌を聴かせる程度で愛嬌がないこともないのだが、シモーネはほとんど言葉すら発せずに巨漢の威圧感で力を示してくる。ひ弱で人のいいマルチェロにそれに対抗する手段はなさそうだ。マルチェロはのび太のようにドラえもんに泣きつくこともできないわけで、リアルなジャイアンを前にした時、のび太的な人間はどう対処すればいいのかということを問いかけるようでもある。

その町でシモーネの被害に遭っているのはマルチェロばかりではない。気に食わないことがあると暴力に訴える動物のようなシモーネには、普段は誰もが従うはずと思っている常識が通用しないことから、商店街の仲間も困り果てているのだ。

それでもシモーネを警察に突き出さないのは、たかが傷害程度の罪だと、すぐに戻ってきてさらに暴力が増すばかりだと知っているからだ。だから一度は裏稼業の連中に金を出して、シモーネを始末する計画すら持ちあがる。ただ、全員がその考えに賛成するわけもなく、その計画もうやむやになってしまい、そのうちにマルチェロはシモーネの重大な犯罪計画に巻き込まれてしまうことに……。

※ 以下はネタバレもあり!

(C)2018 Archimede srl – Le Pacte sas

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殺したいほど憎い奴は意外と生き残る?

シモーネほど酷い人物ではなくとも「死ねばいいのに」と思うような輩はちょっと見回せば結構いるはず。それでも実際に自分の手を汚してまでそれをやる人は少ない。そんな奴のために自分の人生を棒に振るのはアホらしいからだ。

だから「誰かが殺してくれればいいのに」と思いつつも、意外にもそういう悪党は生き延びることになるらしい。商店街の仲間も自分が被害に遭わなければ積極的な対応は面倒なのだ。

結局、ターゲットとなったのはマルチェロだったわけだが、マルチェロの対応も問題なしとも言えないのかもしれない。巻き込まれ型とはいえ、マルチェロは麻薬のおこぼれにあずかったり、バーでは女性と仲良くするためにシモーネを利用している部分もあるからだ。そういう部分がシモーネにつけ入る隙を与える原因となっているのだ。

さらにマルチェロは決定的な場面でなぜかシモーネを助けてしまったりもするのだ。シモーネからの報復を恐れているからというよりは、「あんな奴でも友達だから」という感覚があるようなのだ。マルチェロはシモーネたちが空き巣の際に冷凍庫に閉じ込めてしまった子犬を、自ら危険を冒してわざわざ助けにいくほど「人のいい奴」でもあるからなのかもしれない。

犬と飼い主の関係性

『ドッグマン』の冒頭は、牙を剥いて威嚇する犬をマルチェロが扱う場面から始まっている。ここでは最初は牙を剥いていた犬も、次第に協力的になっていき、マルチェロが狂犬を手懐ける様子が描かれている。もしかするとマルチェロはシモーネを手懐けることができると考えていたのだろうか

というのも、マルチェロがシモーネを犬用の檻に監禁したとき、シモーネに謝罪を要求しているからだ。映画のなかでは最終的にはシモーネを殺してしまうことになるわけだが、それが積年の恨みを晴らすためというよりも、愛情を持って接すれば狂犬と同じで手懐けることができるだろうという、人のいいマルチェロならではの勘違いと思えなくもないのだ。

ちなみに本作にはモデルとなった事件があったらしい。現実の事件では残虐な拷問が加えられたようだが、本作ではマルチェロがシモーネを手懐けようとしているうちに、過って殺してしまったようにも見えるのだ。

マルチェロを追い込んだふたつの要因

本作のラストはシモーネを殺してしまったマルチェロの表情のアップで終わることになるのだが、何とも言い難い寂寥感が漂っていたと思う。というのも、本作はイタリアの海辺の町を舞台にしていながらも、「陽光溢れるイタリア」というイメージからかけ離れた風景を見せてくれるからだ。

舞台となっているのは『ゴモラ』でも使用されたゴーストタウンらしいのが、この寂れた町の雰囲気が本作のキモとなっている。『ゴモラ』ではある巨大団地そのものが主人公でもあるといった作品とも言えるが、本作もこの寂れた町そのものが重要な要素となっているのだ。

上記の通り、この町では人間関係がかなり密着している。いつも一緒にいる商店街の店主たちは仲間であり、それを裏切ることはすべてを奪われることだった。マルチェロはシモーネに協力したことで、その町での信頼を失い、居場所を失うことになる。

最後に残ったマルチェロの唯一の楽しみは、離れて暮らす娘とダイビング旅行に行くことだ。その町にもすぐ近くに海が見えるところにあるのに、寂れた町の陰鬱さから逃げるかのように、マルチェロと娘はほかの観光地にダイビングに行くのだ。本作ではわざわざ曇天を狙って撮影したと思われ、曇り空が続く風景はマルチェロの不安そのもの表しているようでもあった。

ラストでは、それまで受動的にしか行動してこなかったマルチェロが反撃することになる。しかし、そこまでマルチェロを追い込んだのは、その先も延々と続くかもしれないシモーネの存在に対する恐怖なのだ。マルチェロは劇中で娘との二度目のダイビング旅行の時、そうした不安からか娘と一緒の旅行すらも十分に楽しむことができなかったのだ。

そして、その最後の反撃はほとんど狂気すれすれのものだったとも言える。マルチェロは一度は焼却しようとしたシモーネの遺体を、町のみんなにアピールするような行動を選択する。マルチェロの狂気の一番の原因はシモーネに対する恐怖だったかもしれないのだが、この町の密接な人間関係もその一因となっているのだろう。この町では一度信頼を裏切れば一気にみんなから爪はじきにあうことになる。マルチェロもシモーネという狂犬の被害者のひとりでもあったはずなのだが、町の人々は彼を裏切り者として切り捨てたことで、マルチェロをそこまで追い込んだのだろう。

『リアリティー』という作品では、主人公がリアリティ番組を現実と混同してしまい、その幻想のなかに入り込んだままに終わったかのようにも見える。それに対して本作では、一度は狂気のなかで幻想を抱いたマルチェロだが、あっという間にその幻想は醒めてしまい、寒々しい現実を目の当たりにしたままラストとなるのだ。

その他の追記

主人公のマルチェロを演じているのはマルチェロ・フォンテという人物。『ギャング・オブ・ニューヨーク』などに端役では出演しているようだが、主演作は初めてのようだ。本作ではカンヌ映画祭主演男優賞を受賞したのだが、冴えない男の悲哀がとてもよく出ていたと思う。

もう一方のシモーネを演じたエドアルド・ペッシェはかなりの肉体改造をして本作に臨んだとのこと。犬の檻に入れられて絶体絶命というところから、その巨漢を力を存分に発揮してそこを抜け出そうとする場面は、まるでホラー映画の化け物のようだった。

全然関係はないけれど、前作の『五日物語-3つの王国と3人の女-』も最近ようやく観たので触れておくと、『ゴモラ』『リアリティー』のようなリアルな物語とは異なる残酷なおとぎ話で、凝った映像が印象に残る作品だった。『アマンダと僕』などのステイシー・マーティンが美しかった。

多分、イタリア映画界では重要な存在となっているマッテオ・ガローネだが、意外と日本で観られる作品は少ないようだ。初期作品がソフト化されたら、ぜひ観てみたいと思う。

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