『ドント・ウォーリー・ダーリン』 男は仕事、女は家庭という幸せ

外国映画

監督は『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』オリビア・ワイルド

脚本も同じく『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』のケイティ・シルバーマン

物語

完璧な生活が保証された街で、アリスは愛する夫ジャックと平穏な日々を送っていた。そんなある日、隣人が赤い服の男達に連れ去られるのを目撃する。それ以降、彼女の周りで頻繁に不気味な出来事が起きるようになる。次第に精神が乱れ、周囲からもおかしくなったと心配されるアリスだったが、あることをきっかけにこの街に疑問を持ち始めるー。

(公式サイトより抜粋)

ユートピア的世界?

砂漠の中に現れた整備された街。そこには庭付きの白い一戸建てが立ち並ぶ。もちろんプールも付いている。住んでいるのは若い夫婦たちだ。旦那はみんな同じところに勤めているらしく、車で砂漠の中を走って仕事に向かい、妻たちは家に残ってそこを守ることになる。この頃はそうした役割分担が当然のものとされていた時代なのだ。この街の生活は、アメリカで1950年代に確立した幸せの典型的な姿、ある種のユートピア的世界を描いているようにも見える。

主人公アリス(フローレンス・ピュー)はそんな生活を存分に楽しんでいるけれど、どこかで違和感もある。旦那のジャック(ハリー・スタイルズ)は一体何の仕事をしているのかも知らないし、街には立入禁止とされている場所がある。空を飛んでいる飛行機の姿が一瞬だけブレるように見えたり、卵を割ろうとしたら中身はカラだったなんてこともあるのだが、それらは気の迷いとしていつの間にか忘れ去られてしまうようだ。

そもそもこの街はフランク(クリス・パイン)という男が作ったとされている。仕事もフランクが仕切っているらしい。フランクは「ビクトリー計画」ということを語るのだが、それはこの街全体を含む何らかの計画らしい。街はフランクの支配下にあり、奥さんたちはフランクの妻シェリー(ジェンマ・チャン)によってまとめられているのだ。

ところがマーガレット(キキ・レイン)は、この街がどこかおかしいということに気づいているらしく、みんなの前でフランクに疑問を投げかけることになる。するとマーガレットはフランクの片腕らしき医者によって精神的な病と診断され、自殺に追い込まれることになってしまう。アリスはその様子を目撃してしまうのだが、マーガレットは病院に運び込まれたまま姿を消す。この街は本当にユートピア(理想郷)なのだろうか?

(C)2022 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved

前作における理想的世界

もともとは『リチャード・ジュエル』などに出演していた女優だったオリビア・ワイルドは、2019年の『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』で監督としてデビューした。この作品はとても評価が高く、彼女は映画監督として一躍注目を浴びることになる。

『ブックスマート』は学園コメディだけれど、よくあるスクールカーストなどとは無縁だし、根本的に悪い人が登場しない。悪口を言ったりはするけれど陰険ないじめなどはない世界なのだ。主人公の女の子二人は“ブックスマート(ガリ勉)”と言われるような人種なのだけれど、その言葉のマイナスのイメージと異なり、二人はとても自己肯定感が強いところもおもしろい。

主人公の一人は同性愛をカミングアウトしているし、その学校ではトイレが男女共用となっていたりもする。若者の感覚とか多様性に対する意識がとても今風なのだ。ラジオで映画評論をしているライムスター宇多丸は、『ブックスマート』に関して「理想主義」的な世界と評している。

そんなふうにいかにも今風な理想的世界を描いた映画を撮ったオリビア・ワイルドが、その次の作品『ドント・ウォーリー・ダーリン』において、なぜ1950年代という古臭い社会をユートピア的に描いているのか。本作を観ながら感じるのは、そんな疑問なんじゃないだろうか?

※ 以下、ネタバレあり! 結末にも触れているので要注意!!

(C)2022 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved

スポンサーリンク

 

ありきたりなオチ

オチは“ありきたり”とも言える。50年代の世界は、実はアリスが見せられている仮想現実ということになる。つまりは『マトリックス』的な話だということになる。『マトリックス』には黒い服のエージェントという存在がいたが、本作では赤い服を着た男たちが出てくる。外部からの命令を、仮想現実内で実行に移す役割を担っている存在ということだろう。

それではなぜアリスはそんな仮想現実の中にいるのかということになるわけだが、それは夫のジャックの仕業ということになる。現実世界のアリスは医者として忙しい生活をしていて、夫のジャックは仕事もなく家にこもっているらしい。仮想現実世界とはまったく逆なのだ。

ジャックはそんな現実がいたたまれなかったのか、アリスを勝手に「ビクトリー計画」という仮想現実世界につないでしまったということらしい。アリスは仮想現実内ではジャックの稼ぎによって、優雅な専業主婦の生活を送ることになるわけだが、それはジャックがアリスの同意なしに勝手に押し付けたことだったわけだ。

(C)2022 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved

インセルの反乱?

これだけでも十分におぞましい話なのだが、さらに以下の記事を読むとおぞましさが増すかもしれない。オリビア・ワイルド監督は本作で“インセル”という存在を取り上げようとしていたとされている。“インセル”についてウィキペディアにはこんなふうに解説されている。

インセルとは、恋愛やセックスの相手を欲しているが叶わず、その原因は女の側にあると考えるサブカル系インターネットコミュニティの女性蔑視主義者のことである。

自分がモテないのは女たちが悪いからだと決めつけ、その憎悪によって凶悪な事件を引き起こしてしまうような人を“インセル”というらしい。日本で言えば、秋葉原通り魔事件の犯人が典型的ということになるだろう。

そんなインセルたちの反乱を煽り立てるような人も一部にはいて、それが本作におけるフランクのモデルとなっているようだ。現代では、男女平等は当たり前の権利として認められている(それが実現しているかはともかくとして)。しかし男女が同じ土俵の上で闘うとなると、ジャックのような男は奥さんのアリスみたいに優秀な女性には何をやっても敵わないということになる。そんな男の脆弱なプライドを守ってくれるのが、50年代の「男は仕事で、女は家を守る」という性別役割分業がハッキリしていた時代だったということなのだろう。つまりは50年代をユートピアと感じていたのはインセルたちだということだ。

ジャックが「ビクトリー計画」というものにアリスを引き入れたことは、そんなインセルの自暴自棄的な行動だったということになるわけだ。とはいえ、本作ではフランクがそこまでの存在とは描かれていないところもあるため、“インセル”の問題が意図したようには浮かび上がってきているわけではないのが惜しいところと言えるかもしれない。

(C)2022 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved

男の欲望が生み出した世界

本作では、アリスが見る幻想なのか、モノクロで描かれる女性たちのショーが登場する。これはどんな意図なのかと思っていたのだが、仮想現実世界を経営するフランクが仕込んだ、女性たちが“見られる対象”であることを刷り込もうという映像だったのかもしれないとも思えた。というのも、本作ではアリスはその街の真実を“見る”ということを禁止されていたからだ。

アリスが街の立入禁止区域にある本部の内部を窺おうとするシーンは、印象的に二度登場する。アリスは窓ガラスの向こう側から、スクリーンのこちら側を窺うのだが、本部の内部に何があるかが示されることはない。一度目はアリスは意識を失いベッドで目を覚ますことになり、二度目には映画が終わることになる。この街では、アリスは本部の中にある真実を“見る”側になることを禁止されているということなのだ。

一方で本作には窓ガラスを掃除するアリスが、壁とガラスの間に挟まれて変顔になってしまうというおかしなシーンがあるが、これは額縁に入れられたアリスの姿がディスプレイされているようにも見える。もちろんこの時のアリスは家にひとりだけで、それを見ている人はいないはずだ。それでもアリスがプールで泳いでいる場面は空からのカメラでモニタリングされているわけで、この街では住人は行動を監視されてもいる。アリスは“見られる側”であることも示されているのだ。

旦那のジャックは普段は妻であるアリスと一緒に仮想現実世界を生きているけれど、仕事の間は姿を消している。多分、この時間にジャックは現実の世界に戻っているのだろう。その現実世界ではアリスはベッドに縛り付けられ、目には強制的に映像を見せられる装置を付けられている。ジャックはそんな寝たきり状態のアリスを世話することになるのだろうし、現実世界では意識を奪われている状態のアリスの姿を愛おしそうに眺めることになるのだ。

こんなふうに女性が“見られる側”であって、男性が“見る側”にいたいというのも当然ながら男のおぞましい欲望であり、この街はそれを実現するようなシステムを作り出しているということになる。ただ、ここでも仮想現実世界を外側から見る視線が最後まで登場しないため、“見る側”と“見られる側”という関係性も曖昧な形になっているようにも感じられ、色々ともったいない部分もあったような気もした。

とはいえ、フローレンス・ピューがサランラップで顔をぐるぐる巻きにされることは二度となさそうだし、オチはありふれてはいてもそれなりに見どころもないわけではない。フローレンス・ピューは最後に山の上にある本部までかけ上がっていくのだが、その疾走する姿がとても絵になっている。『ブラック・ウィドウ』ではアクションにも挑戦していたし、そっち方面でも活躍できる人なのかもしれない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました