原作は『まぼろし』や『スイミング・プール』などの脚本家エマニュエル・ベルンエイムの自伝的小説。
脚本・監督は『8人の女たち』や『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』などのフランソワ・オゾン。
主演は『ラ・ブーム』や『ブレイブハート』などのソフィー・マルソー。
原題は「Tout s’est bien passe」で、「すべてうまくいった」という意味。
物語
小説家のエマニュエルは、85歳の父アンドレが脳卒中で倒れたという報せを受け病院へと駆けつける。意識を取り戻した父は、身体の自由がきかないという現実が受け入れられず、人生を終わらせるのを手伝ってほしいとエマニュエルに頼む。一方で、リハビリが功を奏し日に日に回復する父は、孫の発表会やお気に入りのレストランへ出かけ、生きる喜びを取り戻したかのように見えた。だが、父はまるで楽しい旅行の日を決めるかのように、娘たちにその日を告げる──。
(公式サイトより抜粋)
安楽死について
本作はフランソワ・オゾンにとって『まぼろし』と『ぼくを葬る』に続く、“死の三部作”の最後の作品となっているとのこと。内容的にはつながりはないけれど、すべてが“死”をテーマにしている。
『まぼろし』は大切な夫を亡くした妻がその死とどう向き合うかという話となっていて、『ぼくを葬る』では若くしてガンとなった主人公が延命治療などを拒否して静かに死んでいく姿を描いていた。
昨年9月には、ジャン=リュック・ゴダールが亡くなった。誰もが知る有名な映画監督であるから、その死がニュースになるのは当然だとしても、ちょっとした驚きだったのはそれがいわゆる安楽死と言われるものだったからだろう。
尊厳死とか安楽死とかいう言葉を何となく使っていたのだけれど、実際には違いがあるのだそうで、その違いを簡単に記すとすれば、尊厳死というのは延命治療などをしないといった意味合いであり、安楽死というもののほうが人為的に死をもたらすものということになるのだそうだ。ただ、この場合も終末期の医療患者に対してということが前提だったようだが、最近はその基準が拡大解釈されているような状況もあるようだ。
ゴダールの場合も病に侵されていたというわけではなく死を望んだようだし、本作の主人公の父親も脳梗塞からは回復して特段の苦痛を感じてはいないにも関わらず、それでも安楽死を望んでいるということになる。
論争を引き起こすテーマ
安楽死が様々な論争を引き起こすのは、場合によってはそれが殺人とみなされてしまうことがあるからだろう。日本では認められていないし、安楽死を法的に認めている国は、ゴダールが住んでいたスイスなどごく限られているのだ。
アメリカの医師ジャック・ケヴォーキアンは“死の医師”と呼ばれた人物で、アメリカではかなり有名だったらしい。2010年にはバリー・レヴィンソン監督、アル・パチーノ主演のテレビ映画『死を処方する男 ジャック・ケヴォーキアンの真実』になったりもしている。
ケヴォーキアンが物議を醸すことになったのは安楽死が認められていないアメリカで(一部の州のみで認められているらしい)、自作の装置を使って自殺ほう助の活動をしていたからだ。これはケヴォーキアンには医師としての信念があったからで、患者の苦痛を取り除くことが治療であり、患者が耐え難い苦痛を延々と感じているような場合には死をもたらすことこそが治療になるという考えからだった。
ケヴォーキアンの活動は多くの人の共感を呼ぶと同時に、多くの人から殺人者として非難されることになる。そして最終的には彼は逮捕されることにもなるわけだが、その啓発活動によって大いに論争が巻き起こり、安楽死というものが世間に知られることにもなったようだ。
日本の映画では、昨年『PLAN 75』という作品が安楽死を題材としていた。ただし、この場合の架空の設定は、国家が邪魔になった高齢者を安楽死させるというもので、本作で問題とされているような安楽死とは違ったものになっている。それでも、どちらにしても論争を呼んでしまうのが安楽死というテーマであることは間違いないとは言えるだろう。
悲痛さもなければ涙もない
安楽死を望む当事者は別として、周囲は安楽死を正しい方法とは考えない場合も多いだろう。家族としてはその人に長生きして欲しいという思いもあるだろうし、積極的に家族の死に手を貸すということには躊躇もある。だからこそ賛成・反対で論争になるわけだが、本作ではそうした論争は封じられている。なぜかと言えば、安楽死を願っているアンドレ(アンドレ・デュソリエ)がワガママな人物で、言い出したら聞かない頑固者だからだ。
これは二人の娘たちが一番よくわかっていることで、そのため彼が安楽死をしたいと言い出したらそれに反対することは難しい。次女のパスカル(ジェラルディン・ペラス)はそれが辛くてアンドレの前から何度も逃げ出したりもするのだが、長女でありアンドレから直接安楽死を懇願されているエマニュエル(ソフィー・マルソー)の場合はそれも出来ずに、泣く泣くアンドレが望む手続きを進めるほかない。結局、アンドレは最後までワガママを押し通し、無事にすべてがうまくいくことになる。
こんなふうに概略を書くと陰鬱な話にも思えるのかもしれないが、観た印象はまったくそれとは異なる。というのも、この頑固者アンドレは人生を存分に謳歌している人だからだろう。
アンドレには娘が二人いるが、今ではゲイであることをカムアウトしているらしい。男性とのお付き合いもお盛んだったのか、今でも元カレに執着されてトラブルになったりもしているのだ。アンドレの仕事は美術品の収集で、美食家でもあるらしい。とにかく人生を楽しむことに貪欲な人なのだ。そんなアンドレの最後のワガママが安楽死ということになり、悲痛さはまったくないし、お涙頂戴的な展開とはなっていないし、ユーモアと共に描かれていく。アンドレはちょっと旅行にでも行くかのようにスイスに出かけ、安楽死することになるのだ。
久しぶりのソフィー
“死の三部作”の『ぼくを葬る』では、主人公はガンで死ぬことになるのだが、ほとんど一直線とも言えるほどシンプルに展開する。ガンがすでに手遅れで切除することは不可能だと知ると、主人公は化学療法などの治療は諦め、死を受け入れる。そして海辺でひとり静かに死んでいくことになる。これはある意味では自分勝手でもあるわけだが、そこは本作とも通じるものがあるのかもしれない。
本作のアンドレも自分の願いを実現することになる。多少のトラブルはあったし、娘たちには迷惑はかけたけれど、最後まで自分の思い通りに死んでいったわけでハッピーエンドということになるのだろう。
しかしながらアンドレがそんな好き勝手が出来たのも、エマニュエルのような優しくてしっかりした娘がいたからということになるだろう。アンドレと同じ病室だった老人はそのことを褒めていたけれど、アンドレ自身はそれをわかっていたのかどうか。
そんなエマニュエルを演じたのがソフィー・マルソーだ。オゾン監督は彼女との仕事を以前から望んでいたようで、本作でようやく実現した形になる。前作『Summer of 85』で、ソフィー・マルソーの初主演作である『ラ・ブーム』のオマージュを入れていたのも、本作のための予告みたいなものだったのかもしれない。
本作ではエマニュエルが海で泳いだり、ランニングに精を出したり、ベッドにダイビングして無邪気にはしゃいで見せたりもする。これはエマニュエルがアンドレと同じく人生を謳歌しているという表現だったのかもしれないけれど、ソフィー・マルソーのためのサービスカットみたいにも感じられた。
若かりし頃に買っていた某映画雑誌では、ソフィー・マルソーはアイドル的な存在だった。ちょっとだけアジアの血が混じっているように見えるところが、日本人にも親しみやすくて人気だったのだろう。2000年代に入ってからの彼女の作品はほとんどが映画館で公開されていないようで、本当に久しぶりという感もある。当時からしたらもう数十年という時が経過しているわけだけれど、未だにかわいらしいところがあってとても魅力的だった。
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