「ブラック・エンジェル」「死の天使」などと呼ばれアルゼンチンの犯罪史に残る人物をモデルとした作品。
プロデューサーには『オール・アバウト・マイ・マザー』などのペドロ・アルモドバル。
監督はルイス・オルテガ。
原題は「El Angel」。
天使か悪魔か
冒頭、カルリートス(ロレンソ・フェロ)はたまたま見かけた家に何気なく入り込んで金目のものを物色する。まるで自分の家のようにくつろぎながら。そして、音楽をかけながら踊り出すと、そこにタイトルの「EL ANGEL」が……。
つまりはカルリートスは「天使」ということなのだが、やっていることは無茶苦茶だ。カルリートスは新しい学校で気に入ったラモン(チノ・ダリン)と一緒になって盗みを繰り返す。そのうちに殺人すらも当たり前になっていく。
カルリートスは「みんなどうかしている、もっと自由に生きられるのに」とつぶやく。彼には世の中の決まりなどあってないようなもので、彼は「天使」とはいえ「堕天使」であり、悪を悪とも思わない悪魔のような人間なのだ。
モデルとの相違
本作のカルリートスのモデルとなったカルロス・エディアルド・ロブレド・プッチは確かに美少年だ。それを演じているロレンソ・フェロのほうがちょっと悪っぽい雰囲気があるくらいで、実物はもっとかわいらしい。しかし、実際の事件の中身は、映画よりも現実のほうがえげつない。カルロスは11人を殺害し、17件の強盗、さらには強姦やら性的暴行に誘拐など、ありとあらゆる犯罪を重ねているのだ。
なぜ「永遠に僕のもの」なの?
邦題となっている「永遠に僕のもの」は、カルリートスと共犯者のラモンとの関係にフォーカスしたもの。映画のなかではいかにも男らしいラモンにカルリートスが興味を持って近づいたというように描かれていて、心情的には同性愛的なものを感じているように見える。実際には同性愛者ではないことはモデルであるカルロス本人も否定しているから、モデルはあくまでモデルということなのだろう。
それでも車の事故でラモンのモデルとなった共犯者が亡くなったことは事実のようで、それを同性愛的なものと解釈したほうが物語らしくなるということなのだろう。ラモンが自分の手の届かないところに行ってしまうくらいなら、死んでしまえばいい。そうすれば「永遠に僕のもの」ということだ。
本作で印象的に使用されているのが「朝日があたる家」という曲。フォークの伝統的な曲で、ボブ・ディランやアニマルズも歌っている。この曲の歌詞の初めて知ったのだが、Wikipediaによれば「娼婦に身を落とした女性が半生を懺悔する歌」とのこと。「朝日があたる家」というのが「娼館」だったとは……。
カルリートスのことがこの曲の堕ちていく女性になぞらえられているということなのだろう。劇中でもラモスがふたりの関係を「ゲバラとカストロ」と表現するのに対し、カルリートスは「エビータとペロン」と表現しているわけで、カルリートスは自分が女役ということをわかっているらしい。
やってることはおぞましいのだが……
本作を観て思い出したのは『エル・クラン』というアルゼンチン映画。『エル・クラン』は1980年代初頭に誘拐を生業としていたある家族の物語。家族で誘拐に手を染めるというのも唖然とするが、こちらの作品も結構おぞましいことを平気でやっている。
『エル・クラン』も『永遠に僕のもの』と同じで、製作にペドロ・アルモドバルが関わっていて、カメラマンも同じ人らしい。どちらも犯罪を犯罪とも思わずに軽々とやってのける点で一致していて、観ているほうの感覚がおかしくなってくる。やっていることはすごいのだが、それがあまりに平然として描かれるためにかえって薄気味が悪い。いつの間にかおぞましい殺人すらも平板なものと感じられてくるのだ。
本作のエンドロールの曲でも「理解できない」という言葉が入っていたように思うのだが、カルリートスの無茶苦茶な行動は全く理解できないし共感も抱けない。カルリートスのその姿に惚れた人にとっては楽しめる作品なのかもしれないのだが……。
カルリートスが誰も見ていないところで踊り出すところから始まって、最後も誰にも見られずに踊っている場面で終わる。「天使」であるカルリートスだけに、この踊りは神様に捧げられているということだったのだろうか?
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