監督は『シティ・オブ・ゴッド』などのフェルナンド・メイレレス。
脚本は『ボヘミアン・ラプソディ』『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』などのアンソニー・マクカーテン。
Netflixオリジナル作品として、12/20より配信中(一部劇場公開もしている)。
ローマ教皇の辞任劇
「ローマ教皇」はカトリック教会の最高位の称号のこと。日本では以前は「ローマ法王」と表記されることも多かったようだが、2019年になって「教皇」に統一されることになったらしい。ローマ教皇は一度その地位に就くと終身それを務めることになるのだが、本作では例外的なローマ教皇の辞任劇の裏側を描いていくことになる。
2013年にローマ教皇ベネディクト16世の辞任が発表され世界を驚かせる。教皇が自身の意思で辞任するのは700年ぶりの例外的な事態だったからだ。コンクラーヴェ(教皇選挙)によって後継者としてフランシスコ教皇が選ばれることになるわけだが、本作ではそんな2人の教皇の対話が中心となっている。
対照的な2人
アンソニー・ホプキンスが演じることになるベネディクト16世は保守的な人物で、カトリックの教義を守ることを重んじ、「教理の番犬」とあだ名されていたほどだった。一方、ジョナサン・プライスが演じるフランシスコは改革派で、両者はまったく相容れないほどかけ離れた人物だ。
フランシスコはカトリックも時代の要請に応えて変わっていかなければならないと考えるのに対し、ベネディクトは伝統的なカトリックの教義を変えることで、「何でもあり」になってしまうことを憂いている。
ただ、ベネディクトが教皇の地位にあった頃、バチカンでは様々な問題が持ち上がっていた。宗教事業協会(バチカン銀行)を舞台にしたマネーロンダリングが取り上げられ、映画『スポットライト 世紀のスクープ』などでも描かれた信徒に対する性的虐待事件などが起きていたからだ。ベネディクトは「教理の番犬」として伝統を守ることを望んでいたわけだが、時代がそれを許さない状況になってきていたのだ。
変化とは妥協か?
『2人のローマ教皇』では、ベネディクトとフランシスコが辞任する前に2人で話し合ったことになっているわけだが、史実としては2人が話し合ったのはフランシスコが教皇になった後とのこと。だから、本作はフィクションということになるわけだが、2人の台詞は彼らが本やインタビューなどで語っていたものから採られているのだという。「もしも2人がその頃に話し合っていたならば」、そんな仮定のもとに出来上がったのが本作ということになる。
フランシスコは保守的なベネディクトが教皇になったこともあり、カトリックの改革は無理と判断し、枢機卿を辞めて地元の司祭に専念しようと考えていた。そして、辞任の許可をもらいにベネディクトに会いにいくのだが、2人の対話が互いの相容れない立場を変化させていくことになる。
変化することは妥協なのか。2人の間ではそんなことが話題になるのだが、本作では変化は決して妥協ではないということを示している。人は歳を取れば取るほど頑固になることも多いわけだが、本作の2人は老齢ながらも対話のなかで、それぞれ変化を受け入れていくことになるのだ。
なぜ変化を恐れなかったのか?
「教理の番犬」と呼ばれていたベネディクトが変化を恐れるのは理解できるが、フランシスコはなぜ変化を恐れなかったのかという点は、フランシスコが語ることになる過去の出来事に関わっている。
アルゼンチン出身のフランシスコは、イエズス会のアルゼンチン管区長をしていた頃、仲間を見捨ててしまった過去があった。当時のアルゼンチンは軍事政権の支配下にあり、貧しい者を支援する司祭たちは反体制と見なされていた。フランシスコはイエズス会を守るために独裁政権と妥協した関係をつくろうとしていたようだが、それが裏目に出て仲間を裏切るような形になってしまったのだ。
フランシスコは「なぜ軍事政権に反論しないのか」と問われていたのだが、現状を維持することを求めたため、仲間は犠牲になることになった。もしかするとあそこで変化を求めていたら、結果は違ったのかもしれないとフランシスコは感じていたのだろう。
こうした過去の失敗が、時代の要請に応じて変化しなければならないという姿勢にもつながっていく。もともとフランシスコは一度は結婚しようと決心し、ある女性と婚約までしていた。しかし結婚の直前に神の声を聞き、すべてを捨てて司祭になったという過去があった。「変化することは妥協ではない」という信念は、フランシスコの来歴と密接に関わっているのだ。
人間として教皇を描く
本作においては、2人の「対話の場面」と、フランシスコの語る「過去の場面」は、明らかに質感が異なる形で撮影されているように見える。「過去の場面」は陰影があるドラマチックな(?)映像なのに、「対話の場面」はドキュメンタリーかと思わせるような生々しい映像なのだ。
ちなみに本作の中心となる会話は、バチカン内部のシスティーナ礼拝堂で行われるのだが、このセットはローマの映画スタジオ「チネチッタ」に再現されたものだという。
実際のシスティーナ礼拝堂内部がどんな様子なのかは知らないが、本作のシスティーナ礼拝堂は自然光が降り注ぎ、すべてがあからさまにされているように見えるのだ。
通常、高貴な方たちは御簾の向こう側に隠れ、下々の者たちの前には姿を見せないことになっているようだ。隠すことによって神聖さが保たれるということなのだろうか。しかし本作では、礼拝堂のなかに満ち溢れる自然の光によって、2人の教皇の真の姿が白日の下に晒されている。
だから本作を観ていると、ローマ教皇もわれわれと同じひとりの人間だということをまざまざと感じさせる。それは教皇ですら神の声がいつも聞けるわけではないという告白にも表れているし、2人の日常の姿にも垣間見られる。ファンタを飲みながらピザに舌鼓を打ち、ビールを傾けながらのサッカー観戦など、教皇という立場を離れた2人は何ともかわいらしいおじいちゃんなのだ。2人の教皇は本作によって人間としての弱さを暴かれることになるのだが、同時に人間的な魅力も感じさせてくれるのだ。
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