監督・脚本は『サラエボの花』などのヤスミラ・ジュバニッチ。
原題は「Quo vadis, Aida?」。
アカデミー国際長編映画賞にもノミネートされた作品。
物語
ボスニア紛争末期の1995年7月11日、ボスニア東部の街スレブレニツァがセルビア人勢力の侵攻によって陥落。避難場所を求める2万人の市民が、町の外れにある国連施設に殺到した。国連保護軍の通訳として働くアイダは、夫と二人の息子を強引に施設内に招き入れるが、町を支配したムラディッチ将軍率いるセルビア人勢力は、国連軍との合意を一方的に破り、避難民の“移送”とおぞましい処刑を開始する。愛する家族と同胞たちの命を守るため、アイダはあらゆる手を尽くそうと施設の内外を奔走するが――。
(公式サイトより引用)
スレブレニツァの虐殺
『アイダよ、何処へ?』で描かれるのは「スレブレニツァの虐殺」と呼ばれる実際に起きた出来事だ。「第二次世界大戦以降、ヨーロッパで最大の大量虐殺」(Wikipediaより)とされるもので、1995年7月13日から7月22日の間に8000人以上が殺されたと見られている。
背景となっているのはボスニア紛争で、「スレブレニツァの虐殺」でセルビア人がボシュニャク人と呼ばれるイスラム教徒を虐殺したのもそれまでのいざこざが絡んでいるわけだが、本作はそれをリアルタイムで体験する形で描いていく。
主人公のアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)は国連に勤務する通訳で、国連の指揮官やスレブレニツァの市長などが集まる場所で仕事をしているために、スレブレニツァに迫る危機をその中枢部分で体験することになる。
冒頭はセルビア人勢力がスレブレニツァに侵攻し、国連側が最後通牒を突き付けた場面から始まる。明日の朝までに撤退しなければ国連軍が空爆を開始するというのが、その最後通牒の中身だ。
それでも市長はその国連側の言葉を信用していない。スレブレニツァは国連が定めた安全地帯なのだから、必ず空爆をするという確約が欲しいと市長は指揮官に詰め寄るのだ。それでも捗々しい回答は得られず、市長の不安は的中することになる。その指揮官は国連本部から派遣された単なる伝令に過ぎず、国連本部はなぜか及び腰で結局空爆はされることがないのだ。
そうこうするうちにセルビア側は町の中心まで侵攻し、市長はあっけなく殺されてしまう。スレブレニツァの住民は自分の家を追い出されることになり、その多くは国連の基地に集まる。基地内が避難民であふれかえり、周辺にも見渡す限り人が押し寄せている。そんな状況の中でも国連軍は無力だ。本部はほとんど話すら聞きたくないというあり様で、スレブレニツァは見捨てられることになってしまう。
あの時、起きていたこと
「スレブレニツァの虐殺」を出来事の只中から描く本作では、過去のいざこざは示されることはない。ただ、1箇所だけ回想シーンがあり、そこでは亡くなった市長やアイダが普通の暮らしをしていたことが示されている。
それでも今ではスレブレニツァは紛争地帯だ。かつてはセルビア人とスレブレニツァの人たちは同じ場所に住んでいたようだ。昔は教師をしていたアイダは、セルビア側の兵士たちの先生でもあったのだ。それが今では、顔見知りの人たちがなぜか敵味方に分かれ、いがみ合っている。
本作で描かれるのは「スレブレニツァの虐殺」という事件であり、セルビア側は加害者になり、スレブレニツァの住民は被害者という構図になっている。それでもセルビア側が民間人が武器を持っていないかという点に神経質になっていることからすると、それまでセルビア側にも少なからぬ被害者が出ていることも推測されることになる。
ただ、本作が狙っているのは、「なぜそんな事件が起きたのか」という点ではない。あくまでも「スレブレニツァの虐殺」で「どんなことが起きていたか」ということを伝えるためなのだ。この事件では虐殺の首謀者としてムラディッチ将軍(ボリス・イサコヴィッチ)という人物が登場する。この人物はセルビアでは英雄なのだそうだが、スレブレニツァの住民にとっては悪魔のような存在で、何の手出しもできない国連の目の前で虐殺のための作戦を展開していくことになる。
アウシュビッツ?
ムラディッチ将軍は国連の基地に集まった人たちを安全な場所へ移送すると国連に約束する。しかし、多くの人はその言葉を信用できない。アイダも国連のスタッフという立場を利用して、何とか旦那と二人の息子を基地内部に匿う。
アイダはこれまで3年半も紛争の中を生きてきて、セルビア側に連れていかれたらどんなことが起きるかわからないと感じているから、ほとんど半狂乱になって国連内部を奔走する。それでも国連側はムラディッチ将軍を止めることは出来ず、恐ろしい出来事が起きるとわかっているのに誰もそれを止めることができないのだ。
ムラディッチ将軍はスレブレニツァの住民を女子供と男たちに分けて移送する。女子供はバスに乗せられ、男たちはトラックに詰め込まれどこかへと運ばれる。アイダの旦那と息子二人もトラックでどこかへ運ばれ、それがアイダとの永遠の別れになる。
女性と子供たちは助かったわけだが、男たちの多くは殺されることになる。こうしたやり方を見ているとアウシュビッツのそれを想起してしまう。アウシュビッツでもユダヤ人はそんなふうに計画的にガス室へと送られることになった。国連基地内で精神に異常を来たした男が「ガスで殺される」と泣き喚くという場面が用意されているのは、スレブレニツァの住民の姿をアウシュビッツのユダヤ人と運命と重ね合わせる意図だったのかもしれない。
加えて言えば、本作では『ソフィーの選択』にあったような究極の選択が示される場面もある。アイダが息子二人のうちどちらかを選べと迫られるシーンがそれだ(アイダはそんな選択をすることはできないのだが)。『ソフィーの選択』もユダヤ人に対するホロコーストを描いた作品だったわけで、ここでもアイダはユダヤ人の姿と重ねられている。
また、アイダはすべてが終わった後にスレブレニツァの自宅へと戻ることになるが、そこにはセルビア人の家族が住んでいる。これと同様のことはアウシュビッツでも起きていた。ホロコーストを生き延びた人たちからのインタビューを中心にしたドキュメンタリー『ショア』では、かつてユダヤ人たちが住んでいた場所にポーランド人が住んでいる様子が描かれていた。
これは民族浄化ということが起きると、似たようなあり様を示すということなのかもしれないから、たまたまアウシュビッツのそれと似ていただけなのかもしれないけれど、どちらにしても同じような出来事を二度と繰り返してはならないと感じさせるのだ。
アウシュビッツは70年以上前の第二次世界大戦の時の話だが、誰でも知っている出来事だ。一方で「スレブレニツァの虐殺」は1995年という比較的最近の出来事にも関わらず、あまり知られていない(私も初めて知った)。だからこそ本作は作るべき価値があったということだろう。
というのも、本作は事実を元にしたフィクションではあるけれど、映像としてそれを体験することは、「8000人以上が殺された」と文章で読むのとは違った凄みがあるからだ。その意味ではかなり重苦しい作品ではあるけれど、観るべき価値がある作品でもある。
タイトルは聖書の言葉から採られている。「Quo vadis, Domine?(主よ、どこに行かれるのですか ?)」が元の言葉だ。イエスは自らの運命を知りつつも、ローマに赴き十字架にかけられることになる。アイダが虐殺事件の後スレブレニツァに戻ったことも、自らのつらい運命を引き受けたということだったのだろうか。アイダはスレブレニツァで再び教師として働き始めることになるわけだが、その心境は複雑だろう。アイダが教える子供たちは、自分の旦那と子供たちを殺したセルビア人の子供たちなのだから。
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