『ゴジラ-1.0』 なぜ「イヤな気持ち」に?

日本映画

脚本・監督は『ALWAYS 三丁目の夕日』『アルキメデスの大戦』などの山崎貴

日本のゴジラシリーズとしては第30作となり、『シン・ゴジラ』以来7年ぶりの最新作。

主演は『桐島、部活やめるってよ』などの神木隆之介

物語

舞台は戦後の日本。戦争によって焦土と化し、なにもかもを失い文字通り「無(ゼロ)」になったこの国に、追い打ちをかけるように突如ゴジラが出現する。ゴジラはその圧倒的な力で日本を「負(マイナス)」へと叩き落とす。戦争を生き延びた名もなき人々は、ゴジラに対して生きて抗う術を探っていく。

『映画.com』より抜粋)

戦後世界に登場するゴジラ

第1作の『ゴジラ』は1954年に発表された。ゴジラシリーズは、すべてそれ以降の時代を描いた作品ということになっていたらしい。今回の『ゴジラ-1.0』では、最初の『ゴジラ』よりも前の時代を描くということで、これは初の試みということになるようだ。

山崎貴監督は『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズなどでもCGで昭和の時代を描いてきたわけで、本作もCGを使って最初の『ゴジラ』以前の世界でゴジラを暴れさせようというわけだ。

本作で最初にゴジラが登場するのは大戸島という場所で、時代は1945年の第二次世界大戦末期ということになる。主人公である敷島(神木隆之介)は特攻隊員だ。敷島は零戦に乗って出撃したものの、機体の故障によって大戸島に不時着した。その島は特攻隊が万が一の時にために退避する場所となっていたのだ。

島には整備士たちがいて、敷島が乗ってきた機体を調べるものの、その機体には異常は見受けられない。実は敷島は「生きて帰ってこい」という母親の言葉を頼りに、嘘をついて逃げたのだ。整備士の橘(青木崇高)はそのことに気づいたものの、「そんな特攻隊員がいてもいい」と言って受け入れてくれることになる。

ところがそんな島に現れたのがゴジラだ。まだサイズとしては恐竜程度で、後に銀座を破壊するほどの迫力はない。それでも今まで見たことのない怪獣の存在に、島にいた整備士たちは逃げ惑うことになる。唯一、武器の扱い方を知っている敷島は、零戦の機銃を使ってゴジラに反撃することを期待されていた。しかし敷島はゴジラを目の前にして身体がすくみ、何もすることができず整備士たちはほぼ全滅することになってしまう。

敷島はそのことで橘に非難されることになる。「お前が何もしなかったから、みんなが死んだ」と責められるのだ。さらに敷島は東京に戻っても同じように責められる。隣人の太田澄子(安藤サクラ)は、特攻隊員が何もしなかったから、敷島の両親も自分の子どもたちも殺されたと敷島を責めることになるのだ。

(C)2023 TOHO CO.,LTD.

ゴジラが示すものは?

最初の『ゴジラ』は第五福竜丸事件をきっかけに製作されたとされている。ここでのゴジラは原爆というもののメタファーになっていたとも言えるだろう。また、ゴジラシリーズとしての前作『シン・ゴジラ』の場合は、3.11の震災とコントロール不能となった原発のメタファーということになる。それでは本作においてはゴジラは何のメタファーなのか? それは戦争そのものということになるのかもしれない。

敷島は特攻隊員だが、戦闘には参加していない。彼が闘ったのはゴジラであり、何もできずに帰ってきたことになる。さらに敷島は、戦後になり再び東京・銀座の街で、より巨大化したゴジラと遭遇することになってしまう。

これから戦後の復興をしようという時に、銀座の街はゴジラによって焦土と化す。戦争ですでに無(ゼロ)になっていたのに、ゴジラの登場でさらに負(マイナス)へと突き落とされることになるというのが本作だ。

敷島は「戦争は終わっていない」と語っている。それは敷島にとっての戦争の敵とはゴジラのことであり、結局ゴジラに対して何もできないままだったからだろう。そういった意味で、本作のゴジラは戦争のメタファーとして機能しているということになる。

(C)2023 TOHO CO.,LTD.

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戦争と戦後

現実世界では、2023年現在、日本ではもちろん戦争は終わっている。しかし「戦後は終わっていない」という言葉は未だに聞かれたりもする。今年は戦後78年なのだそうだ。8月15日になるとそんな年数が未だに数えられているのは日本くらいだという話も聞く。

“戦後”と言っても様々なようで、ウィキペディアによれば、アメリカは未だに度々戦争をしているから“戦後”という概念はないのだとか。

そして、なぜ「戦後が終わらない」のかと言えば、曖昧な形で終戦を迎えたからなのかもしれない。本作がそうした問題を意識しているのかどうかはわからない。ゴジラという存在はもちろんフィションであるし、本作は日本の歴史とは別のものを描こうとしているようにも見えるからだ。

というのは、『ゴジラ-1.0』では日本政府やアメリカの存在はほとんど希薄だからだ。一応、「情報統制はこの国のお家芸だ」などと批判しているけれどそれ以上にツッコミはないし、アメリカはソ連との関係があるという理由で何もせず、結局は民間主導でゴジラとの闘いが描かれることになるのだ。

これはなぜなのかと言えば、本作においてはゴジラは戦争そのものだからで、日本政府やアメリカのせいで戦争が起きたというわけではないということを示すためだろう。本作における戦争が歴史上の戦争と同じだとしたら、そこにはそれを引き起こした責任者のようなものが存在することになってしまうわけだが、本作のゴジラとの戦争はそういうものではない。ゴジラが現れたのは誰のせいでもない。戦争が起きたのは誰のせいでもないということでもある。そういう時にわれわれは何をすべきかと問われているということになる。

(C)2023 TOHO CO.,LTD.

なぜ「イヤな気持ち」に?

私はいわゆる怪獣映画というものにそれほど親しんでいるわけではないので、ゴジラシリーズも最初の『ゴジラ』と、庵野秀明が監督した『シン・ゴジラ』と、ほかに昭和のゴジラ作品をいくつか観た程度でしかない。

本作はそんなにわか怪獣映画ファンが観ても、なかなか楽しめる作品ではあったと思う。ゴジラが登場してくる場面の破壊活動のCGは見事だったし、海の中を迫ってくるゴジラもよく出来ていたと思う。ドラマパートがツッコミどころなのかもしれないけれど、それは措いておくとしても、本作を観て最終的にはなぜかとても「イヤな気持ち」になったというのが正直なところだ。

山崎監督は『永遠の0』という作品も撮っている人で、この作品は特攻隊賛美だとも言われている(「そうではない」という意見もあるけれど)。もちろん『ゴジラ-1.0』では、特攻精神は否定されている。最後のゴジラとの闘いでは、誰ひとり傷つくことなく終わる。その意味で、特攻精神は否定されているはずだ。

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それでも何となく「イヤな気持ち」になる。敷島はごく普通の人だろう。『シン・ゴジラ』の異能のハグレ者集団とは異なるのだ。ごくごく普通の人間だから、「特攻して死ね」などというトンデモない命令には従うことができなかったというわけだ。それがごく普通の感覚なんじゃないだろうか。

しかし『ゴジラ-1.0』においては、そんな敷島が追い詰められ、誰かを守るためには「自分が犠牲に」という意識を持つことになる。敷島には戦後のどさくさの中で一緒に暮らすことになった大石典子(浜辺美波)とその娘がいた。

敷島と典子との関係は微妙だ。敷島は戦争で何もできなかったのに生き残ってしまったというサバイバーズ・ギルトの意識もあり、典子と結婚することを躊躇っていたからだ。しかし戦争で何もできなかったからこそ、ゴジラとの闘いではどうしても二人を守らなければならないという気持ちになるわけだ。これは麗しい精神なのかもしれない。

本作の戦争は誰のせいでもない。あえて言えばゴジラのせいとしか言いようがない。それでも戦争は起きてしまっているわけで、守りたい人を守るためにはどうすればいいのか。どうしても「貧乏くじを引かざるを得ない」人が出てくることになる。

最終的にはみんなが生き残る。一度は死んだと思われていた典子も生きていたことが明らかになる。そんな意味では特攻精神は否定されているのだろうが、やっていることはほとんど特攻精神と違いはないとも言える。敷島が生き残ったのは、橘が飛行機に脱出装置をつけてくれていたためで、敷島自身は死ぬつもりだったとも言える。そんなわけで特攻精神を否定しているようでいて、巡り巡って肯定しているようにも思えてしまうのだ。だから「イヤな気持ち」になる。

この「イヤな気持ち」というのは、もし万が一そんなことになったとしたら、敷島のやっていることを否定できないかもしれないとも思ってしまうからでもある。戦争なんかしないに越したことはないし、それを回避するための努力が大事なのだろう。しかし、あり得るのかどうかはわからないけれど、本作みたいな戦争が唐突に起きたとしたら、その場合に逃げることは正しいのか否か。というよりも、そんな問い自体が間違いとも感じられてしまう。

『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジが「逃げちゃダメだ」と言っていたのは、逃げたかったからであり、そんな厄介からは逃げたいのが普通の人なら当たり前だろう。しかし本作ではそれは許されないというわけで、だからこそ「イヤな気持ち」になったのだ。そんな意味では反戦映画としてよくできていたということなんだろうか?

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