『月』 何を言っても言い足りない?

日本映画

原作は2016年に起きた相模原障害者施設殺傷事件を題材にした辺見庸の同名小説。

脚本・監督は『生きちゃった』などの石井裕也

主演は『紙の月』などの宮沢りえ

物語

深い森の奥にある重度障害者施設。ここで新しく働くことになった堂島洋子(宮沢りえ)は“書けなくなった”元・有名作家だ。彼女を「師匠」と呼ぶ夫の昌平(オダギリジョー)と、ふたりで慎ましい暮らしを営んでいる。洋子は他の職員による入所者への心ない扱いや暴力を目の当たりにするが、それを訴えても聞き入れてはもらえない。そんな世の理不尽に誰よりも憤っているのは、さとくんだった。彼の中で増幅する正義感や使命感が、やがて怒りを伴う形で徐々に頭をもたげていく――。

(公式サイトより抜粋)

他人事ではない事件?

主人公・洋子(宮沢りえ)には、三歳で亡くなってしまった子供がいた。ところが最近になって新たに妊娠したことが明らかになる。そうなるとまた同じことが起きないかということが心配になり、妊娠を旦那の昌平(オダギリジョー)には言い出せないでいた。

本作には原作があるけれど、洋子は映画オリジナルのキャラクターだ。その主人公がこんな背景を持っているのは、相模原障害者施設殺傷事件を障害者施設で起きた特殊な出来事としないためであり、他人事ひとごとではないということを示すためだろう。

洋子の子供には心疾患があり、胃ろうで栄養を補給しながらも生きていたが、その努力も虚しく亡くなってしまったようだ。次の子供も同じような運命を背負うことになったとしたら、それはさらに耐え難いことになる。しかも今回の妊娠は高齢での出産になるわけで、洋子はその不安から出生前診断を検討することになるのだ。

劇中でも触れられるように、出生前診断で問題があることが判明した場合の堕胎率は96%だとされる。あえて厳しい言い方をすれば、これは障害のある子供が生まれるならば、それは価値がないと言っているにも等しいわけで、それは本作の“さとくん”(磯村勇斗)が染まる優生思想につながっていくことになる。しかし、こうした問題は誰にでも起こり得ることでもあるわけだ。

(C)2023「月」製作委員会

純粋さが反転し

後に事件を起こすことになるさとくんは、最初からそんな過激思想を抱いていたわけではない。最初は施設の入所者に楽しんでもらおうと紙芝居を読み聞かせたりする優しさを持っていた。しかし、施設の業務は過酷だし、職員の中にはさとくんのやっていることをうとましく感じバカにしてくる者もいる。

さとくんの純粋さは後に反転し、意思疎通ができない者は「人ではない」わけで殺すことが社会のためになるという考えを抱くことになってしまう。劇中でこの変化が丹念に追われるわけではないのだが、こうした反転はありふれているのかもしれない(もちろんさとくんの場合はかなり極端なケースだが)。

たとえば『町田くんの世界』では、“聖なる愚者”と言える町田くんには、吉高という理解者がいた。吉高は新聞記者で「世の中はクソだ」とばかり言っている。吉高はスポイルされた町田くんなのだ。純粋な心が社会に裏切られると、そんなふうに反転することは決して珍しいわけではないのだ。

『月』の後半には、そんな優生思想に囚われたさとくんと洋子との長い対話がある。ここでさとくんは「洋子さんと同じだ」と語る。さとくんは障害者を殺す前に「心はありますか」と確認すると予告している。それに対して受け応えができないような障害者は「人ではない」と判断するということなのだ。このことと洋子が検討していた出生前診断も同じだろうというのがさとくんの考えだ。

それに対して洋子は反論し、「わたしはあなたを絶対認めない」と言い放つ。しかし、洋子のそんな言葉はさとくんを止めることはできないし、それ以上に観客を納得させることもできていないだろう。さとくんがやったことと、洋子が検討していたこと、ここには大きな違いがあるのだろうか。いや、それはないのかもしれない。

さとくんの「人か、人でないか」の判断は恣意的だ。さとくんの彼女(長井恵里)は聴覚障害者だが、彼女は読唇術でさとくんと意思疎通ができるためにそのことは問題にならない。一方でさとくんは意思疎通ができない者を「人ではない」と判断する。これは間違った考えに思える。

だとしたら出生前診断で産むか否かを判断しようとする洋子は恣意的とは言えないのか、間違ってはいないのかということなのだ。ここには簡単には答えを出せない問題があるだろう。

(C)2023「月」製作委員会

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なぜ主人公は作家なの?

洋子は書けなくなった小説家だ。また、旦那の昌平はアニメーションを作っている。本作にはほかに施設の職員として陽子(二階堂ふみ)も登場するが、彼女も小説家を志している。そして、さとくんも紙芝居を描いたりして絵を描くことを得意としている。主要なキャラクターがすべて創作活動をしているのだ。こうした設定もまた映画オリジナルだ。わざわざこんな設定を用意しているのはなぜなのだろうか?

『月』という映画は、原作小説の映画化ということになっているけれど、それと同時に実際に起きた相模原障害者施設殺傷事件にどれだけ迫ることができるのかということが問われているからだろう。これは表現することについて問われているということでもあるのだ。

洋子はかつて東日本大震災のことを描いて、ある有名な文学賞を獲得した。その受賞作を、同僚の陽子は批判する。その作品では震災の現実が書かれていなかったというのだ。陽子にはその作品はキレイ事に思えたのだ。

では、どんなふうに相模原障害者施設殺傷事件の現実に迫っていくのだろうか。

(C)2023「月」製作委員会

障害者施設の現実

原作小説では、事件を起こす犯人のさとくんではなく、被害者の側からその現実に迫ろうとしている。原作における主人公は“きーちゃん”だ。きーちゃんは映画にも登場するが脇役としてだ。それというのも、きーちゃんは重度の障害者で身体を動かすことすらできずにベッドに寝ているだけの存在だからだ。

原作は、さとくんが「人ではない」と見限ることになったきーちゃんの側から描かれる。しかし、きーちゃんの内面では、われわれが想像もつかないような精神活動が行われている。もちろんこれは原作者が重度障害者の内面を想像して描いたフィクションではあるわけだが、さとくんの「人か、人でないか」という判断に疑問を呈することになっているのだ。

それに対して映画の場合は、すべてを内面描写で済ませるわけにもいかないわけで、別の主人公として洋子が用意されている。

映画において特徴的なのは、障害者施設内の“暗さ”だろうか。多分、現実の障害者施設はもっと光が入ってくるはずだが、映画の中では施設は昼でも薄暗いし、夜にはほとんどお化け屋敷じみた暗さになっている。

これは障害者施設というものが、一般的な人の住まう現実とは別の現実にあることを示しているようでもある。劇中の障害者施設は森の奥に隠されているとされる。それが「見たくないもの」だからだ。重度の障害者がいる家庭と、そうでない家庭は別の世界になっているのだ。

施設という隔離された場所に見たくない障害者を閉じ込めることで、それ以外の人たちが快適に暮らすことができるわけだ。しかし、施設で働く職員は大変だ。劇中では、施設の職員は「異常であることが正常」という状態になるとも言われているのだ。われわれ多くの人はそういう「見たくないもの」を誰かに押し付けているということなのだ。

(C)2023「月」製作委員会

自分の価値は?

本作では洋子という主人公に対し、同じ読み方をする陽子という同僚がいる。これは二人の共通点を際立たせるためだろう。

ちなみに洋子は、さとくんとの対話の中ではさとくんに成り代わったりするし、きーちゃんと全く同じ生年月日ということから、きーちゃんにも成り代わることもある。ほかのキャラクターとの共通点があるからこそ、洋子は他人のことを自分のこととして捉えられることになる。

しかし洋子にはほかのキャラクターとの共通点もあれば、差異もある。さとくんと洋子の共通点と差異については、二人の対話の場面で見えてくることは先に記した。そして、洋子と陽子にも差異がある。

二人は同じように小説を書いているわけだが、そこには才能の差があるようだ。陽子としては洋子の才能に嫉妬している。そして、陽子はそのことで自分の価値というものに疑問を抱いているとも言える。

人の価値なんてものはそんなことでは測れないはずだが、それでも陽子はそんなふうに感じている。しかし、陽子が世話をしているきーちゃんのような自分の身体をコントロールすることすらできない障害者はどうなるのか。何もできない障害者には生きる価値はあるのか否か、そんな問題につながってくるのだ。

洋子は同じ生年月日のきーちゃんに自分とのつながりを感じる。そして、さとくんが意思疎通ができない者を殺すと言い出した時、きーちゃんの側に立つことになる。しかしながら、なぜきーちゃんには価値があると言えるのかについては、さとくんを間違っていると否定するだけで、積極的な価値を見出みいだせてはいないのかもしれないのだ。

(C)2023「月」製作委員会

あの現実を前にして……

本作は相模原障害者施設殺傷事件や障害者施設の現実に迫ろうとしている。劇中の施設には誰も近寄ってはならないとされる部屋があった。そこには糞尿まみれで延々と自慰行為に耽っている男がいた。

障害者施設の現実を小説に書こうとしている陽子は、その現実を目の当たりにしてどうしたかと言えば「これは見ちゃダメだ」と扉を閉ざしてしまう。一緒にいた洋子とさとくんもそうするほかない。あの現実を前にして一体何をすることができるのだろうか。

このエピソードは原作に書かれているものだ。私はさすがにこのエピソードは映画ではやれないんじゃないかと思っていたが、本作は果敢にもそれをあからさまに描いてみせた。

このシーンはおぞましい。しかしながら、それでもやはり映画の中に描かれたフィクションであることも確かだろう。

さとくんは洋子たちとの飲み会で、人の死のリアリティについて論じていた。そこで重要なのは音と匂いだという。実際に本作ではラストのさとくんの凶行において、鎌で人を斬りつける音が生々しく捉えられている。

一方で糞尿まみれの男は、やはり映画の中の作り物でしかない。実際の施設の現場ではその糞尿がこちら側に飛んでくることだってあるだろうし、その匂いは耐え難いものになるだろう。映画ではそこまでは表現できないわけで、そこには自ずから限界があるということなのかもしれない。

それでも事件が提示していたのは、そういう現実をどうすればいいのかということであり、映画はあくまでもそのためのきっかけということなのだろう。

(C)2023「月」製作委員会

本作は様々な問題を提起している。それは簡単に片付く問題ではないだろう。洋子と昌平は新たな子供をどうすることになるのか、その点について本作では結論は出されない(どんな結論になったとしても誰もが納得することなどないのだろう)。

ラストでは洋子は新しい小説を書き上げ、昌平はアニメーションで賞を獲得する。二人には明るい未来が待っているとでも言うように、二人に明るい光が差してくる。

石井裕也作品では、たとえば『茜色に焼かれる』などではかなり絶望的なことが描かれつつも、ラストでは唐突に希望が謳われたりもする。本作のラストもそんな希望に満ちていたのだろうか?

私にはそんなふうには思えなかったのだが、どうだろうか? それというのも二人の成功と新しい出発は、障害者たちのいる現実とは別の現実へと離れていくことになるように思えたからだ。

洋子と昌平の二人が明るい光を感じている頃、施設では惨劇の子細がようやくわかり始める。そこは未だに暗いままの現実なのだ(しかし、わざわざこんなエピソードを最後に付け加えているのには意図がありそうな気もする)。

本作を製作するにあたり、石井裕也監督は「覚悟」ということを語っている。それほど大きな問題を孕んだ作品だからだろう。エンドロールの流れ方がいつもよりも遅く感じられたのは気のせいだろうか。クレジットに名前を載せたいと考える協力者が少なかったのだろうか。もちろん題材が題材だけにそんなふうに考える人や企業があったとしてもおかしくない。それほど厄介な作品なのだ。

あれこれと書いた気もするけれど、うまく自分の考えがまとまらないし、まだまだ何か言い足りない。そんな感じが未だに続いている。

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