『パレード』 方向転換の訳は?

日本映画

監督・脚本は『新聞記者』などの藤井道人

主演は『MOTHER マザー』などの長澤まさみ

企画には亡くなった河村光庸の名前が挙げられている。

Netflixで2024年2月29日から配信中。

物語

大災害の混乱で離れ離れになった息子を捜す母親は、自分がすでに死者となっていること、そして今いる世界が、この世に未練を残した者たちが集まる特別な場所だということを知り…。

(公式サイトより抜粋)

この世に未練を残した人々

冒頭、海辺に打ち上げられた美奈子(長澤まさみ)の姿がある。美奈子は気がつくとすぐに息子のことを捜し出そうとする。海辺には大量の瓦礫があり、津波によってそこが壊滅的な被害を受けたことがわかる。

美奈子は救助隊らしき人に声をかけるものの、忙しいからなのか無視されてしまう。というよりは、美奈子はほかの人には見えていないのだ。声をかけても、その声は誰にも届かない。というのも美奈子は亡霊になってしまっていたのだ。美奈子は津波に襲われて亡くなったものの、息子のことが心配で亡霊となって現世に彷徨い出てしまったのだ。

美奈子はアキラ(坂口健太郎)という青年に出会い、彼に拾われて廃墟となっている遊園地にやってくる。そこには美奈子と同じように、この世に未練を残している人たちが集まっていたのだ。

こうした設定は『天間荘の三姉妹』とよく似ている。『天間荘の三姉妹』は東日本大震災がきっかけとなって制作された作品だったわけだが、『パレード』の場合も主人公の美奈子が亡くなった津波やその後の壊滅的な被害の状況を見ると東日本大震災がモデルとなっていることが推測される。ところが本作は途中からちょっと趣きを変えていくことになる。

Netflixにて配信中

“その先”とは?

美奈子は本作の世界の案内人の役割を果たしている。観客(視聴者)は美奈子の目を通して、本作の世界像を理解していくことになるのだ。

廃墟の遊園地に集まっている人たちがそこにいる理由は様々だ。美奈子はたまたま震災と津波で亡くなったわけだけれど、そんな自然災害ではなくとも人は死ぬわけで、ほかの人たちも未練を抱えたまま亡くなり、亡霊となって現世に留まることになったのだ。

彼らはそこで何をやっているのかと言えば、その先”に進む前の待機状態にある。“その先”というのが、“あの世”と呼ばれるところになる。現世にやり残したことがあって先に進むことができない人は、そのやり残したことをやり遂げた時はじめて、“その先”へと進んでいける。言わば“成仏”できたということになるのだろう。

ヤクザ者の勝利(横浜流星)は、ヤクザ同士の抗争の中で死んだようだが、恋人みずき(深川麻衣)のことが気になっていた。勝利はみずきが真面目そうな男性と新たな生活を築いて行こうとしていることを知った時、現世に対する未練がなくなったのか廃墟の遊園地から姿を消すことになる。

かおり(寺島しのぶ)の場合は子供たちの成長が気になっていたようだし、アキラの場合は父親のことが心残りだったらしい。そして、美奈子の場合は、息子がどうなっているかだけが心残りだ。ところが中盤あたりで息子は避難所で発見され、無事に生きていることが明らかになる。

本来ならば美奈子はすぐに“その先”に進むはずなのだが、その場所の監視員となっている田中(田中哲司)のお目こぼしもあって、美奈子はもう少しだけそこに留まることになるのだ。

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方向転換の訳は?

本作の主役は美奈子であることは間違いないのだが、本作は途中で方向転換したかのようにも見える。というのは、本作の企画に名前を挙げられている河村光庸プロデューサーが亡くなってしまったからかもしれない。

藤井道人監督は、河村プロデューサーが亡くなった後にこの脚本を書き上げたらしい。企画自体はあったけれど、途中で河村プロデューサーが亡くなったことで、本作におけるマイケル(リリー・フランキー)というキャラクターの役割が大きくなったということなのかもしれない。

『パレード』はマイケルに捧げられており、そのマイケルの言葉として「映画こそ、自由であるべきだ」というものが登場する。この言葉は生前の河村プロデューサーが言っていたものらしい。つまりはマイケルというのは河村プロデューサーのことであり、本作は河村プロデューサーに捧げられているのだ。

マイケルは廃墟の遊園地の住人のひとりだが、後半はマイケルのことが中心となっていく。このマイケルはかつては映画のプロデューサーだった人物だ。大言壮語を吐くだけのお調子者かと思われていたのだが、プロデューサーだったというのは嘘ではなかったのだ。

マイケルの心残りは制作していた映画が未完成のまま亡くなってしまったことだ。その映画はマイケルの自伝的な作品らしい。マイケルは学生運動に参加していたものの、逮捕されるのが怖くなって逃げ出してしまう。それによって恋人だった麻衣子(黒島結菜)とも別れることになり、過去にフタをして生きてきたのだ。そして、マイケルはそのことを映画にし、それを麻衣子に見せるつもりが、志半ばで亡くなってしまったということになる。

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映画を牽引していた人

以下は推測でしかないけれど、本作は最初の企画の段階では、東日本大震災で亡くなった人の心残りをテーマとするものだったのかもしれない。それが河村プロデューサーの死で予定変更され、河村プロデューサーへの追悼のような作品となったようにも見えるのだ。

藤井監督と河村プロデューサーは、親子ほども歳の離れた関係でありながらも、二人の共同作業で『新聞記者』『ヤクザと家族 The Family』などの傑作を生み出してきた。

劇中、マイケルは「テーマもストーリーも、全部、自分で最後まで決めていたから」と語っていた。この台詞を言わせているのは、脚本を書いた藤井監督だ。藤井監督も河村プロデューサーが作品を牽引しているという意識もあったのだろうし、そんな河村プロデューサーに導かれて監督として成長したという気持ちもあるのだろう。

本作で最も印象的だったのはパレードのシーンだ。このパレードというのは新月の夜に亡霊たちがそれぞれの会いたかった人を捜して町を練り歩くものだ。このシーンは藤井監督の前作『ヴィレッジ』の祭りのシーンとよく似ている。

『ヴィレッジ』では、村人たちが能面を被り同じところへと行進していく。この場面は日本の同調圧力を象徴的に示したシーンとなっていた。多分、このシーンは河村プロデューサーの想いが表現されていたシーンだったのだろうと思う。

本作におけるパレードは意味合いは、『ヴィレッジ』とは異なる。本作においては現世に未練を残した人たちが、みんな一緒にパレードをすることで協力し合っているということなのだろう。これは映画の制作現場とも重なってくるものであり、マイケルたちは未完成の映画を完成させることになるのだ。

暗い中でみんなの灯火がゆっくりと進んでいくパレードの様子は、上空に広がる星空と交じり合ってとても幻想的なものになっていた。魂が連なるようにして宇宙を漂っているかのようにも見えてくるのだ(ここでみんなを先導していたのがマイケルで、彼が滑るように進んでいくところも印象的)。

藤井監督としては河村プロデューサーから引き継いだものを、新しい形で表現しているということだったのだろう。本作は構成的には途中で方向転換したような居心地の悪さがあるけれど、藤井監督から亡くなった河村プロデューサーに向けてのメッセージとしては感動的なものがあったんじゃないだろうか。

本作ではマイケルと一緒に映画作りに参加することになったナナ(森七菜)というキャラが登場する。そのナナが長じて映画監督になったことが描かれる(ナナは臨死状態だったようで、その後に回復したらしい)。マイケルからバトンを受け取る若者ナナが登場するのも、河村プロデューサーの意志を引き継ごうという意味合いなのだろう。

マイケルを演じたリリー・フランキーはやはりうまい(毎度、同じことを言っているけれど)。マイケルが実在の人物をモデルとしているからか、いつものリリー・フランキーが演じるキャラとは違って吃音気味のしゃべり方になっていて、そんなところに変化をつけながらも、どこかに存在しているんじゃないかと思わせる人物になっていたと思う。

Netflix作品だからか、結構予算がかかってそうだし、小さな脇役に至るまで様々な役者陣が顔を出しているのも楽しい。『ベイビーわるきゅーれ』シリーズでカッコいい殺し屋だった髙石あかりも意外な役柄で登場している。

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