『Girl/ガール』 このループから逃げ出したい

外国映画

監督のベルギーのルーカス・ドン。本作が長編第1作とのこと。

カンヌ国際映画祭でカメラ・ドール(新人監督賞)を受賞した作品。

物語

冒頭、主人公のララ(ヴィクトール・ポルスター)が鏡の前でピアスをつけている。そこに父親(アリエ・ワルトアルテ)が現れ「ピアスの穴を開けたのか」などと会話をする様子を見ていると、どう見ても思春期の女の子と父親の様子にしか見えない。しかし、ララはトランスジェンダーなのだ。

ララは今ふたつのことにチャレンジしている。難関のバレエ学校に編入し一流のバレリーナになることと、男性ホルモンを抑える治療をした上で性別適合手術をして肉体的にも女性の身体になることだ。

バレエとトランスジェンダー

ララのバレエ学校では女性は皆レオタードに身を包んでいる。身体に密着した衣装の場合、ララは肉体的には男性のままだから不都合が生じる。ララは股間をテーピングで固めて目立たないようにして練習に取り組む。練習後もシャワーを浴びることすらできないし、こっそり個室のトイレでテーピングを剥がす場面が痛々しい。ララはそこまでしてもバレリーナになることを望んでいるのだ。

そうでなくともバレエの練習は過酷を極める。バレリーナはトウシューズで爪先立ちとなって踊るため、練習後のララの足先には常に血がにじんでいる。そんなハードな練習と共に、ホルモン治療中のララは別の心配事も抱えることになる。

バレエを踊るためには体重を制限しなければいけない。しかし、ホルモン治療とその後の手術のためには体力が必要でしっかり食べなければならない。バレリーナになりたいと願いと、肉体的にも女性になりたいという願い、そのどちらも手放したくないララはふたつの間のジレンマに苦しむことになる。

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ヴィクトール・ポルスターという少年

この作品はカメラ・ドール受賞など評価された反面で、批判も受けたとのこと。

その一つは主人公のララが肉体の変化に執着しすぎなのではないかという点。これに関しては劇中の医者の台詞で「見た目にあまり執着しすぎるな」と注意されているし、バレリーナという肉体を駆使した芸術に携わる者として、肉体の変化というものが普通のトランスジェンダー以上に重要だったんじゃないかと思える。

そして二つ目の批判は、ララを演じたのがトランスジェンダーの人間ではないというもの。本作でララを演じているのは、実際にバレエスクールの生徒であるヴィクトール・ポルスター(撮影当時14歳)だ。彼はシスジェンダーの男性。シスジェンダーというのは、トランスジェンダーの反対で身体的性別と性自認が一致している人のことだ。

たとえば白人以外の役を白人が演じたりするとホワイト・ウォッシングなどと言われたりもするわけだが、『Girl/ガール』に対する批判は適当なのだろうか。

映画だから絵になる人を選ぶのは当然で、トランスジェンダーのバレリーナが数少ないのであれば当然の選択と思える。というよりも、ヴィクトール・ポルスターがいなければ、この作品の成功はなかったと言えるほどララにピッタリはまっていたと思う。まだ大人になる前の時期だったからこそ、奇跡的にララという女の子を演じられたということなのだろう。レオタードをまとって女性たちのなかに混じっても違和感がまったくないほどだし、元々バレエをやっていただけあって踊る姿がとても絵になっているからだ。

(C)Menuet 2018

女の子であるという確信と……

トランスジェンダーの実在の先駆者を描いた『リリーのすべて』では、主人公が性自認に疑問を抱くところから始まっていたが、『Girl/ガール』はトランスジェンダーにとっては重要なそうした過程をスルーしている。ララにとっては疑問を抱く時期は終わっていて、自分が女の子であるということに確信を持っているし、父親からもすでにそれを認められていて、ホルモン治療なども父親の支援もあって行うことができるのだ。

本作ではララが女性の仲間から冗談半分で股間を見せろと追い込まれる場面もあるのだが、どちらかと言えばベルギーという国はトランスジェンダーに理解があるように見受けられる。父親もそうで、彼は常にララの味方になってくれる存在なのだ。

とはいえ父親もやはりシスジェンダーの人間であって、近くに似たような経験者もいない状況では支えるのにも限界がある。父親は何度も「大丈夫か」と問いかけるのだが、ララはいつも「大丈夫」と突っぱねることしかできない。

ララは父親からの問いかけにうまく答えられないのだが、それはララ自身が自らの状況を理解していなかったということなのかもしれない。ララは自分の性自認には確信を抱いているが、性的指向についてはまだよくわかっていないようでもある。

ララが同じマンションの男性の家に出かけていって誘惑するのも、その男性のことが好きというよりも自分の性的指向を見極めるためのテストのようにも感じられるからだ。そして、行為の途中で逃げ出してきてしまうのも、自分のことをそれほどわかってはいなかった証拠なのだろう。彼女はまだ15歳の少女なのだし、それも当然なのかもしれない。

ララの決断は?

バレエに限らず何でもそうだが、すぐに結果が表れることはない。ララはバレリーナとしての血のにじむ努力と同時にホルモン治療にも励む。それでもすぐには望むような結果は見えてこない。

バレエの練習も薬の投与も日々の繰り返しだ。本作ではララがピルエット(つま先を軸として回転する技術)で同じところをくるくると回る姿をしつこいほど追い続ける。何度も何度もそれは繰り返されるのだ。

それによって次第に観客も焦らされてくる。いつ次のステージへと進むのかと感じるのだ。実は、この焦燥感はララの気持ちそのものだ。ララはバレエがうまくなりたくて日々の練習に励む。しかし毎日同じところをぐるぐると回るだけで、次のステージには進めない。そして、それがどうしようもないところまで到達したとき、ララはある決断をすることになる。

ララの決断が正しいものだったのかはよくわからない。ただ、人生のある時点で同じところを延々と回っているという感覚を抱くのはララだけではないはずで、そのループから逃げ出したいという思いは普遍的なものだと思えた。その行動はあまりに無謀すぎるし、批判の対象となるのかもしれないのだが、追い詰められたララの心情は痛いほど感じられて共感するところも多かったと思う。トランスジェンダーというマイノイティを題材としてはいても、描かれている感情は普遍的なのだ。

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