原作はウィリアム・リンゼイ・グレシャムの小説『ナイトメア・アリー 悪夢小路』
監督は『シェイプ・オブ・ウォーター』などのギレルモ・デル・トロ。
本作はアカデミー賞において作品賞・撮影賞など4部門にノミネートされた(受賞には至らなかったが)。
物語
死体らしきものと一緒に自宅に火を放ったスタン(ブラッドリー・クーパー)は、そのままバスに乗って生まれ育った町を離れ、見知らぬ町の巡回カーニバル一座へ紛れ込む。金も職もないスタンはたまたま潜り込むことになったそこで仕事をすることになり、新しい人生を始めることになる。
時代は1930年代。巡回カーニバルも見世物小屋と言ったほうが当てはまるようないかがわしい雰囲気がある。突然迷い込んだスタンでも受け入れられるように、そこには様々な素性の人がいる。スタンはそこでギークと呼ばれる獣人にも出会うことになるのだが……。
新しいジャンルへの挑戦
本作は『シェイプ・オブ・ウォーター』でアカデミー賞の作品賞と監督賞を受賞し、以前よりもやりたいことができることになったギレルモ・デル・トロが、満を持して選んだ作品ということになるのだろうか。デル・トロのこれまでの作品は不気味なクリーチャーが登場するようなファンタジーが多かったわけだが、この作品ではこれまでやっていなかったジャンルのフィルム・ノワールに挑戦している。
フィルム・ノワールの定義は様々あるのだろうと思うが、“ファム・ファタール”と呼ばれる女が登場し、それに惹かれた男が破滅していくという物語は一種の典型なのだろう。本作もそうした物語を踏襲している。ただ、デル・トロは古典的なフィルム・ノワールを目指したわけではないようで、ファム・ファタールの役割は3人の女性に割り振られている。
スタンという男は巡回カーニバルで人生をやり直すことになるわけだが、そこで生きる術を教えてくれるのがジーナ(トニ・コレット)という女性だ。それからスタンは感電ショーをやっているモリー(ルーニー・マーラ)を好きになり、彼女に「この世のすべて」を手に入れさせたいと願い、巡回カーニバルを飛び出していくことになる。2年後、スタンは都会で読心術師として成功することになるのだが、そこに現われるのが心理学者のリリス(ケイト・ブランシェット)で、彼女と出会ったことがスタンを破滅に導いていくことになる。
因果応報の物語
今もやっているのかどうかはわからないけれど、東京の某神社で見世物小屋を見たことがある。様々なショーがある中に“クモ女”というものがあり、それはクモの体が描かれた壁の後ろから少女(外国籍のように見えた)が顔を出しているだけというものだった。妖しいというよりも何とも長閑なものだった。
『ナイトメア・アリー』でも、それとそっくりな見世物が登場している。その際の口上では、かつて悪いことをしたから、今ではこんな姿(何かしらのゲテモノ)になってしまった云々と説明していた。
子供たちはさして怖がる様子もなくアイスなんかをかじりながらそれを眺めているのだが、とりあえずは「悪いことはしちゃいけない」という道徳的教訓を伝えることにはなっているのかもしれない。本作もスタンが悪いことに手を染めることで破滅していくことになるわけで、教育的な映画と言える。
監督のデル・トロは、インタビューで「私にとって、『ノワール』とは“感覚”なのです。詩的な堕ちてゆく感覚です。悲運の感覚です。」と語っている。本作はまさに堕ちてゆく男が描かれることになる。
私の中でギレルモ・デル・トロのエピソードとして特に印象に残っているのが、彼がリドリー・スコットの『悪の法則』が好きで「35回も観た」と豪語していたという話だ。『悪の法則』がフィムル・ノワールと呼ばれるのかどうかは知らないけれど、『悪の法則』には“堕ちてゆく感覚”があり、デロ・トロはそれに魅せられたということなのだろう。
『悪の法則』の登場人物たちも、『ナイトメア・アリー』のスタンも、何度も警告されている。それ以上やると破滅すると言われつつも、自分だけは大丈夫と高を括り破滅の道を進むことになるのだ。
本当のオレの姿
スタンがジーナとその相棒であるピート(デヴィッド・ストラザーン)から学んだのは“読心術”だ。もちろん本当に心が読めるわけではない。そこにはタネも仕掛けもある。それでも心の中を読まれたかのように感じた相手は、読心術を持つ人に絶大な信頼を寄せたりすることになったりもする。
しかし、それはかなり危ない技でもある。読心術を使う側は自らを神のように考え増長することになるだろうし、それを信じ込んでしまったほうにとっては単なる見世物ではなくなってくるからだ。
スタンはさらにエスカレートして交霊術まで使うようになると、それを信じた老婦人(メアリー・スティーンバージェン)はあの世で息子に会えると信じたまま夫を巻き込み無理心中をしてしまう。
そして、最後には破滅が待っている。スタンがカモにしようとした大富豪のエズラ(リチャード・ジェンキンス)が望んでいたことは、亡くなった妻に再び会うことだった。しかし、そんなことが不可能なのは言うまでもない。それでもスタンはその不可能を可能にするとエズラに信じさせてしまう。そして、当然のごとくボロが出ることになる。
エズラは「金があれば希望さえも手に入れられる」と語っていたが、これこそ強欲そのものだろう。エズラもスタンもその強欲ゆえに破滅することになるのだ。ラストはリリスに裏切られすべてを失ったスタンが、ギークになるのを宿命として受け入れるところで終わる。
前半部分でギークが「本当のオレはこんなんじゃない」とつぶやいているのを不思議そうに眺めていたスタンは、自分が同じ立場に堕ちたのを知り、それを泣き笑いで受け入れる。これこそが本当のオレの姿だとでも言うように……。
説明は興醒め?
本作は2時間半というなかなかの長尺なのだが、退屈することもなく堕ちてゆく感覚というものを満喫できた。雨の巡回カーニバルの妖しい世界は見事だったし、デル・トロはアカデミー賞監督として、クリーチャーなどなくても極めて真っ当な映画を作れるということを証明して見せたと言えるかもしれない。
しかしながら釈然としない部分もある。リリスがスタンに近づいた動機は何だったのか? 劇中ではリリスの胸元には大きな傷痕があることが示され、それはエズラに関係があることも仄めかされるけれど、リリスの行為に関して具体的な説明はない。
デル・トロのインタビューによると、リリスの“真の企み”が明らかにされるシーンも撮影したのだけれど、『刑事コロンボ』の“タネ明かし”みたいになってしまったためにカットしたとのこと。インタビューによれば、リリスは自分の復讐というよりも、スタンという男を止めようという意図があったということになるらしい。傲慢な男たちに鉄槌を下すという役割だ。
劇中に描かれたことだけでそこまで読み取れる人がいるのかどうかはわからないけれど、わかりやすく説明してしまうとかえって興醒めということはあるのかもしれない。たとえばフィルム・ノワールの代表的な作品ともされる『マルタの鷹』は、ある映画評論家に言わせれば何度見ても話がわからないとされる(私も多分二度ほど観たのだがよくわかっていない)。わからないままにしておいたほうが妖しい魅力も増すということもあるのかもしれない。
本作は様々なネタが放り出されている。“エディプス・コンプレックス”というキーワードが登場したり、ホルマリン漬けの胎児“エノク”という不気味な存在を示して見せたりする。多分、ジーナとリリスが似たような風貌なのも大いに意図があるのだと思うのだが、それに関しても観客に説明するつもりはないのだろう。私もこのレビューでそのあたりを解説してみよう試みたのだが、かえって退屈になるばかりだったので止めておいた。
それでも観客は理解するのではなく、何となく感じればいいということなのだろう。最後の場面のブラッドリー・クーパーの表情にはどこか安堵のようなものも感じられる。不安な予感に怯えるよりも、それが的中してしまったほうがマシというのはわかる気もする。
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