『生きる LIVING』 強調点の違い

外国映画

1952年の黒澤明監督作品『生きる』のリメイク。

脚本を担当したのは『日の名残り』などのノーベル賞作家カズオ・イシグロ

監督は『Moffie』などの南アフリカ出身のオリヴァー・ハーマナス

物語

1953年。第二次世界大戦後、いまだ復興途上のロンドン。公務員のウィリアムズ(ビル・ナイ)は、今日も同じ列車の同じ車両で通勤する。ピン・ストライプの背広に身を包み、山高帽を目深に被ったいわゆる“お堅い”英国紳士だ。役所の市民課に勤める彼は、部下に煙たがられながら事務処理に追われる毎日。家では孤独を感じ、自分の人生を空虚で無意味なものだと感じていた。そんなある日、彼は医者から癌であることを宣告され、余命半年であることを知る――。
彼は歯車でしかなかった日々に別れを告げ、自分の人生を見つめ直し始める。手遅れになる前に充実した人生を手に入れようと。仕事を放棄し、海辺のリゾートで酒を飲みバカ騒ぎをしてみるが、なんだかしっくりこない。病魔は彼の身体を蝕んでいく…。ロンドンに戻った彼は、かつて彼の下で働いていたマーガレット(エイミー・ルー・ウッド)に再会する。今の彼女は社会で自分の力を試そうとバイタリティに溢れていた。そんな彼女に惹かれ、ささやかな時間を過ごすうちに、彼はまるで啓示を受けたかのように新しい一歩を踏み出すことを決意。その一歩は、やがて無関心だったまわりの人々をも変えることになる――。

(公式サイトより抜粋)

人はいかに生きるべきか?

『生きる』は名作として世界的にも名高い作品だ。たとえばアメリカの雑誌『タイム』が2005年に選んだ「歴代最高の映画ベスト100」でも、黒澤明作品は『生きる』と『用心棒』が選出されている。日本映画でほかに選出されているのは小津安二郎『東京物語』溝口健二『雨月物語』だから、多くの人が納得するような順当なリストになっている。

そんなわけで『生きる』は名作の誉れ高い作品だが、黒澤明本人の評価は微妙なところもあったようだ。後年には「これはね、もういまさら話す気になれない作品なんだな。『白痴』を作ったからできた映画シャシンだということは確かだけど。『生きものの記録』を作っちゃうと、極端にいえば、なんて俺はつまらないことをやってたんだ、とさえ思うくらいでね。『生きる』はまだまだ気取りもあるし、何か着飾ってる映画です、あのときのぼくとしては精一杯だったにしても」(『黒澤明集成3』「自作を語る」より)などと語っていたようだ。

ここにはもしかしたら何らかの“照れ”みたいなものがあるのかもしれない。「人はいかに生きるべきか?」といった生真面目な問いは避けては通れない一方で、真正面からそんな問いに取り組むのは青臭いというイメージもあるからだろうか。ちなみに制作時のプレスシートにはこんな言葉が掲げられていたらしい。

僕は時々ふっと自分が死ぬ場合のことを考える。すると、これではとても死にきれないと思って、居ても立っても居られなくなる。もっと生きているうちにしなければならないことが沢山ある。僕はまだ少ししか生きていない。こんな気がして胸が痛くなる。

『生きる』という作品は、そういう僕の実感が土台になっている。この映画の主人公は死に直面して、はじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつく。いやこれまで自分がまるで生きていなかったことに気がつくのである。そして、残された僅かな期間を、あわてて立派に生きようとする。

僕は、この人間の軽薄から生れた悲劇をしみじみと描いて見たいのである。

生きているうちにしなければならないことが沢山ある」。誰でもそんなふうに考えるだろう。それでも実際には何をしていいのかわからないし、いつまでも生きていけると勝手に思い込んでいるのかもしれない。『生きる』の主人公・渡辺勘治は胃ガンに侵されていることを知り、残り少ない人生で何をすべきかと思い悩みあちこちを彷徨った挙句、それまでの「無意味な生き方」を変えることになる。

『生きる』は日本を舞台にした作品であり、日本文化を背景にしているけれど、「人はいかに生きるべきか?」ということに真摯に迫る普遍的な物語になっている。後年の黒澤自身の言葉とは裏腹に、世界の多くの人にもその真摯さが伝わったからこそ、名作という評価を勝ち得ることになったということなのだろう。

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(C)Number 9 Films Living Limited

“紳士”というもの意味

今回のリメイク作『生きる LIVING』は、基本的に元の『生きる』にかなり忠実だ。モノクロではないけれど画面アスペクト比はオリジナルと同じスタンダードサイズで、上映時間は40分ほど短くなっていて『生きる』をうまく凝縮した感じになっている。

もちろん違いもいくつかあって、たとえば『生きる』にあった第三者からの断定的なナレーションはなくなっているし、『生きる』では渡辺が生まれ変わる瞬間(『花とアリス殺人事件』岩井俊二がまるごとアニメとしてコピーしている部分)が劇的に捉えられているのに対し、『生きる LIVING』は意外とあっさりしている。

主人公のキャラクターも雰囲気が異なる。『生きる』の志村喬はかなり情感豊かに渡辺を演じている。背中をまるめて歩く姿はうらぶれた感が満載だし、突然の余命宣告に大粒の涙をこぼしてみせ、何かに憑りつかれたかのように残りの人生を生きることになる。それに対して『生きる LIVING』でビル・ナイが演じたウィリアムズは、一度も涙を見せることはないし、感情表現はかなり抑制されている。そして、どれだけ酒を飲んでも最後までダンディズムみたいなものを崩さない。

これはウィリアムズがなりたかったものがイギリス流の“紳士”というものだったからなのかもしれない。ウィリアムズは病によってそれまでの生き方を変えることになるわけだが、その理想的なあり方が彼にとっては“紳士”という言葉で表現される“何か”だったということなのだ。だから『生きる LIVING』はそこに関してはくどくどと説明せずに、「“紳士”になりたかった」という言葉だけでウィリアムズの変化を示してみせることになる。

これは日本人にはピンと来なくても、舞台となったイギリスにおいてはわかりやすいのかもしれない。いわゆる「タイタニックジョーク」と言われるものでは、沈没しかけた船に乗り合わせた乗客を船長が説得する時、アメリカ人の際には「飛び込めばあなたはヒーローになれます」という言葉で説得する。それが日本人になると「皆さん飛び込んでます」という言葉になるのだが、イギリス人にとって有効なのは「飛び込めばあなたはジェントルマンになれます」というものだとか。イギリス人にとって“紳士”というものは特別な意味合いがあるということなのだろう。

(C)Number 9 Films Living Limited

強調点の違い

本作と元の『生きる』との差異の中でも一番大きなものは、『生きる LIVING』には主人公ウィリアムズの想いを受け継ぐキャラクター・ピーター(アレックス・シャープ)が存在することだろうか。

“ゾンビ”とあだ名を付けられてしまうようなウィリアムズだが、かつてはそうではなかったはずだ。若い頃はもっと希望に満ちていた時もあったのだろう。しかし奥さんの死をきっかけにして、彼は死んだように生きるようになってしまった。『生きる LIVING』では、最後にウィリアムズがピーターに対して手紙を遺している。それによって彼の遺志というものが受け継がれていくという部分が強調されている。

『生きる』では、渡辺課長の死に感化された役所の面々が一時は「頑張ろう」と決意するものの、それは長くは続かずに結局役所は元のままの「何もやらないこと以外は過激行為」という無気力状態へと戻ってしまうのだが、『生きる LIVING』のほうがちょっとだけ前向きにも感じられるのだ。

(C)Number 9 Films Living Limited

また、ピーターはマーガレット(エイミー・ルー・ウッド)と付き合うことになり、そのマーガレットはウィリアムズが胃ガンを患っているということを唯一知らされていた人物だった(ウィリアムズを歓楽街に連れていくサザーランドという男を別にすれば)。ピーターとマーガレットのふたりによって、ウィリアムズの想いが受け継がれたようにも見えるのだ。そして、その受け継がれ方には、脚本を務めたカズオ・イシグロの解釈が混じっているように感じられる。

カズオ・イシグロはインタビューでこんなふうに語っている。

黒澤監督のものの見方で印象深い点が1つあります。それは『人生で英雄になることは可能だ。だが、それで名を残せる、賞賛されると期待してはいけない』という姿勢です。自分の良い行い、英雄的な行動を社会が認めてくれると思ってはいけない、あくまで自分のためにやるべきだというのです。

(中略)

黒澤監督は私たちを次のように戒めています。『称賛されるために何かをすれば失望することになる。ほかならぬ自分の満足のため、夢を実現するためにやるのだということを学ばなければならない』と。成功や失敗の判断基準はその人の胸の内にあり、他者の影響を受けないものだ、ということです。

『生きる』では、渡辺課長は小田切とよ(小田切みき)の生き生きとした姿に感化され、「ものを作る」ということに意義を見出し、地元住民から要望されていた公園建設に奔走することになる。これは「人はいかに生きるべきか?」ということに対するひとつの答えということになるわけだが、カズオ・イシグロは『生きる』のメッセージを上記のように捉えている。人のために働くというのではなく、あくまでそれは自分のためであり、「成功や失敗の判断基準はその人の胸の内」にあることが強調されているのだ。だから『生きる LIVING』では、そうした側面がより強調されることになる。

『生きる』では、雪降る公園のブランコで渡辺課長が満足そうに歌を歌っていたという事実が、通夜に集まったみんなの前で語られることになる。渡辺課長の心情が多くの人にも共有されることになるわけだが、一方の『生きる LIVING』ではウィリアムズが公園で歌っていたことを知るのはピーターだけになっている。

ウィリアムズの心中は誰にも知られずに死んでいくことになる可能性もあった。しかし、「成功や失敗の判断基準はその人の胸の内にあり、他者の影響を受けないもの」という考えからすれば、そんなことはまったくウィリアムズにとっては関係ないということになる。ウィリアムズ本人が心の中で満足していたとするならば、それは誰に評価されなくても問題ないわけだ。

だからこそ『生きる LIVING』では、ウィリアムズが満足そうにブランコに乗る姿はひっそりとピーターだけに伝わることになるのだ。こうした部分はカズオ・イシグロの解釈による新しい『生きる』になっていたんじゃないだろうか。

有名な『生きる』の「ゴンドラの唄」は、『生きる LIVING』ではスコットランド民謡の「ナナカマドの木」になっている。ただ、ビル・ナイは妙に歌がうますぎて観客に曲を聴かせ過ぎてしまうような気もして、志村喬のかすれた声で魂を絞り出すような歌い方のほうが心に残るような気もした。それから『生きる LIVING』のラストシーンでは、ブランコが1台だけ揺れる様子が捉えられているのだが、これは亡くなったウィリアムズの幽霊が揺らしているようにも見えて、とてもいいシーンだったと思う。

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