監督・脚本は本作が劇映画デビュー作となるテオドラ・アナ・ミハイという女性。
プロデュースには『ロゼッタ』のダルデンヌ兄弟や『4ヶ月、3週と2日』のクリスティアン・ムンジウ、『或る終焉』のミシェル・フランコなどの錚々たる面子が揃っている。
原題は「La civil」。
物語
メキシコ北部の町で暮らすシングルマザー、シエロのひとり娘である十代の少女ラウラが犯罪組織に誘拐された。冷酷な脅迫者の要求に従い、20万ペソの身代金を支払っても、ラウラは帰ってこない。警察に相談しても相手にしてもらえないシエロは、自力で娘を取り戻すことを胸に誓い、犯罪組織の調査に乗り出す。そのさなか、軍のパトロール部隊を率いるラマルケ中尉と協力関係を結び、組織に関する情報を提供したシエロは、誘拐ビジネスの闇の血生臭い実態を目の当たりにしていく。人生観が一変するほどのおぞましい経験に打ち震えながらも、行方知れずの最愛の娘を捜し続けるシエロは、いかなる真実をたぐり寄せるのか……。
(公式サイトより抜粋)
何の力も持たない一市民は
『母の聖戦』はメキシコを舞台にした映画で、ご多分に漏れず麻薬絡みと思われる犯罪組織が関わっている。昨年日本でも公開されたメキシコ映画『息子の面影』も信じがたい話だったけれど、映画で見る限りメキシコは今一番物騒な国みたいなイメージすらあるとすら言えるかもしれない(実情は知らないけれど)。本作では、実際はあまり表沙汰にはならないけれど年間6万件以上の誘拐事件が起きていると推定される、メキシコの“誘拐ビジネス”が描かれていく。
主人公シエロ(アルセリア・ラミレス)は、ある日、突然娘のラウラを誘拐され、ある若者に身代金を要求される。シエロは周囲のアドバイスもあり警察に通報することは避け、別居中の旦那グスタボ(アルバロ・ゲレロ)の協力を得て身代金を支払うことになる。
しかし、誘拐犯はラウラを返すことはなく、シエロはその後に警察に相談することになるわけだが、すでに身代金を払ってしまっていることもあり、犯人につながる情報もなくほとんど取り合ってもらえない。
警察に相談した日、シエロの家に不審な電話がかかってくる。そして次の日、首を切断された若い女性の遺体が見つかったと報道がある。シエロは葬儀屋に押しかけて遺体を確認するのだが、それはラウラではない別人だったものの、一つの身体に対して首が二つ見つかったのだという。そんな恐ろしいことが起きてしまうのがメキシコという国らしい。
シエロのほかにも家族を誘拐されている人は多い。しかし、銃で武装している組織に逆らうことは危険だし、泣き寝入りしてしまうことになる。警察がまったく役に立たないから、何の力も持たない一市民としてはそれが当然なのかもしれない。
こんな無法状態がまかり通っているのは、たとえば『マッドマックス2』とか、それにインスパイアされた漫画『北斗の拳』みたいな非現実的な世界だとも思えるのだが、これがメキシコの現状らしい。しかし現実世界にはマックスもいなければ、ケンシロウもいないわけで、シエロは警察が頼れないと知ると、自分一人で犯罪組織を調査し始める。
誰も無関係ではいられない
シエロはパトロールに来ていた軍隊に助けを求める。そしてラマルケ中尉(ホルヘ・A・ヒメネス)と協力関係を築き、シエロが情報を提供し、軍が武力で組織を制圧していくことになる。そうなると次第に明らかになってくるのは、誰もが何かしら組織と関わっているということだ。
ドン・キケ(エリヒオ・メレンデス)と呼ばれる地元の有力者は、シエロの旦那グスタボの同業者で身代金について相談に乗ってもらっていたのだが、実はドン・キケも誘拐に絡んでいる。というのも、ドン・キケは息子の件でトラブルを抱えていて金が必要だったらしい。それからグスタボの彼女のロシは、恐らく組織に情報を流した人間だろう。また、ラウラの彼氏は、ラウラのために何かしたくて敵対する組織の側に潜り込んだらしい。メキシコでは誰もが犯罪組織と無関係ではいられないということなのだろうか? ごく普通の母親だったはずのシエロは、娘を取り戻すために犯罪組織と闘うことになり、自らも暴力を厭わない人間になっていく。
最終的にはドン・キケの背後にいたのが、最初にシエロに接触してきたプーマ(ダニエル・ガルシア)という若者だったことが判明する。シエロは監獄内部でプーマと接触するのだが、プーマはラウラのことを何も語ることはないために、組織の全容は何もわからずに終わり、収容された多くの遺体の中からラウラの肋骨だけが見つかることになる。
リアルというものの感覚
本作は当初ドキュメンタリーとして企画されていたのだとか。とはいうものの、犯罪組織と闘うようなドキュメンタリーはそもそもカメラを回すことすら難しい。実際に、シエロのモデルとなった女性は、本作が完成する前に犯罪組織によって殺されてしまったとのこと。
そんなわけでドキュメンタリーとしての企画は断念されたらしい。しかし取材で判明したメキシコの現実をフィクションとして再構築することで本作が生まれたということになる。
ちなみに本作のプロデューサーには各国の有名映画監督の名前が連ねている。これはテオドラ・アナ・ミハイ監督の経歴によるのだろう。彼女はルーマニア生まれのベルギー育ちであり、16歳の時にサンフランシスコに留学しメキシコにルーツを持つ友人と多く知り合うことになったらしい。そのことがメキシコを舞台とした本作の製作につながっている。
本作は主人公シエロの姿を延々と追う形になっており、プロデューサーに名前を連ねているダルデンヌ兄弟の手法とも似ている部分もあるのかもしれない。しかし似ているようで違う気もするのは、ダルデンヌ兄弟の場合は主人公のことを追うカメラの存在はあまり意識されることはないのだが、本作はカメラの存在を観客に意識させるようなところがある。
たとえば車の運転をしているシエロを、カメラが助手席から撮るだけではカメラの存在はあまり意識されないが、本作ではカメラが助手席に留まったままでシエロが運転席に戻ってくる姿を捉えてしまったりする。シエロとカメラが一体となって動いていくのではなく、シエロが取材対象であるかのように離れた場所からシエロを捉えているのだ。これはもともと犯罪組織に娘を誘拐された母親のドキュメンタリーとして計画されていた企画だけに、その名残があるということなのかもしれない。
本作はそんなふうにドキュメンタリーのように見えるシーンもあるのだが、同時に『ボーダーライン』とまではいかなくとも犯罪組織と軍との間で派手な銃撃戦が繰り広げられたりもする。しかもシエロはその只中に放り込まれたりもするのだ。このあたりは平和な日本の観客からすると“絵空事”のように見えてしまい、ドキュメンタリータッチに描かれる部分とごった煮のようになっているようにも感じられた。メキシコではリアルというものの感覚すらわれわれとはズレてくるのかもしれないけれど、これがメキシコのリアルだとすればやはり信じがたいことだし何とも恐ろしい……。
ラストは希望を抱かせるようなエピソードとなっているのだが、これはシエロが見た夢だったのだろうか?
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