『エルヴィス』 愛のために死す

外国映画

『ロミオ+ジュリエット』『ムーラン・ルージュ』などのバズ・ラーマンの最新作。

エルヴィス・プレスリーの生涯を描いた伝記もの。

物語

禁断の音楽“ロック”が生まれたライブの日から世界は一変する。

エルヴィス・プレスリーのセンセーショナルすぎるパフォーマンスは若者に熱狂的に愛される一方で、中傷の的になり警察の監視下に置かれる。型破りに逆境を打ち破る伝説と、その裏側の危険な実話。そして彼を殺したのは誰なのか?

――その真実を知ったとき、あなたもきっと心を揺さぶられる!

(公式サイトより抜粋)

最も売れたソロアーティスト!

公式サイトには「世界で最も売れたソロアーティスト!」だとか、「エルヴィスがいなければ、ビートルズもクイーンも存在しなかった!」など、ものすごい惹句が並んでいる。

もちろんエルヴィスをまったく知らないわけではない。「好きにならずにいられない(Can’t Help Falling In Love )」とか「やさしく愛して(Love Me Tender)」は聴いたことがあったはず。それでもビートルズ好きとしては、ジョンが言っていた“太ったエルヴィス”という言葉のイメージがあったのかもしれない。

〈ヘルプ〉を作った時、僕は本当に助けを求めて叫んでいたんだよ。“太ったエルヴィス時代”だった。完全に自分を見失っていたね。

ジョンはそんなふうに語っていたのだ。エルヴィスは世界的に有名だから、慣用句としてエルヴィスの名前が使用されることがあり、たとえば「Elvis has left the building.」という言葉が英語では慣用句として使われるらしい。これは『アマンダと僕』という映画で使われていた。そして、この“太ったエルヴィス”という言葉も、一種の決まり文句として使用されることもあるようだ。

晩年のエルヴィスはかなりの派手なけばけばしい衣装をしていて、これはリベラーチェの影響があったらしい(リベラーチェに関してはマイケル・ダグラスが主演した『恋するリベラーチェ』に詳しい)。初期のロックなエルヴィスが好きだったと思しきジョンとしては、そういったスタイルは嫌いだったのかもしれない。

そんなわけで“太ったエルヴィス”というあまりよくないイメージばかりがあったのだが、なぜエルヴィスがそうなってしまったのかという点に関しては知らなかった。映画『エルヴィス』はそうした疑問についても答えてくれるものになっていて、エルヴィスの素人にとって、とても丁寧な入門編となっているんじゃないだろうか。

(C)2022 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved

“キング・オブ・ロック”という称号

エルヴィスについてあまり知らない状態では映画そのものも楽しめないと思い、本作にはちょっと予習してから臨んだ。you tubeなどで有名な曲を聴いてみると、どこかで聴いたことのある曲ばかりだった。さらにはドキュメンタリー作品の『THIS IS ELVIS』も観た(U-NEXTにて配信中)。若い頃のエルヴィスはギラギラしていて精悍だ。この中では軍隊に入る場面もあるのだが、長いモミアゲを切られてスッキリした時などは特に甘いマスクが際立っていた。そうした面も当然ながらエルヴィスの人気に火を付けたのだろう。

しかしながら、二枚目だからと言って簡単にナンバー1の存在になれるわけもない。映画『エルヴィス』は、それだけではないエルヴィスの魅力をとてもよく伝えていたんじゃないかと思う。エルヴィスは曲を作っていたわけではないけれど、パフォーマンスは独特で誰もやっていなかったものだった(これはエルヴィスを演じたオースティン・バトラーのなりきりぶりが大いに寄与している)。もしかすると黒人の中ではありふれていたのかもしれないけれど、白人でそんなことをやった人はいなかったのだ。

エルヴィスのデビューしたのは1950年代の半ばだが、この時代、白人と黒人は分離されていた。たとえば1962年を舞台にした『グリーンブック』でも、アメリカの南部では未だに黒人は公共施設の利用を制限されていたことが描かれていた。この頃は、黒人の悪い影響により、白人が堕落するなどと言われている時代だったのだ。

エルヴィスはメンフィスというアメリカ南部で、黒人たちに交じって育った。教会ではゴスペルを聴き、それと同時にブルースにも接していた。そんな中でエルヴィスは黒人の歌い方を吸収し、そのリズムを感じ取っていた(黒人が歌っていた「That’s All Right, Mama」がやけにカッコよかった)。劇中で初めて客の前で演奏した時、白人の客たちが目撃したのは、腰を振りながら歌うエルヴィスだ。これは今まで見たことのないような衝撃的なパフォーマンスだったのだ。

エルヴィスにとっては自分のやっていることが特別だという意識はなかったのかもしれない。彼は自分のパフォーマンスが女性ファンを熱狂させ、卒倒させるような事態に戸惑っているようでもあった。彼は黒人歌手がやっていたものを自分なりにやってみせただけであり、その踊りも特別なものという意識はなかったらしい。ただ、黒人と分離されていた白人の世界でそんなことをやっている人はいなかったわけで、だからこそそれは衝撃的なものとして映ったのだ。

アメリカの人口構成を調べてみると、全人口における黒人の比率は2020年の時点で約12%ということ。この比率は1950年代でもそれほど大きな変化はないらしい(ネットで調べただけで情報が正しいのかはあやしいけれど)。とりあえずは一番人数が多いのが白人であることも変わっていないようだし、支配者層が白人であることも間違いないだろう。そんな状況だから、ロックという音楽が市民権を得るようになったのも、それが世界中に広まっていったのもエルヴィスの存在がとても大きかったのだろう。だからこそ“キング・オブ・ロック”という称号はエルヴィスにこそふさわしいということになるのだ。

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エルヴィスは誰に殺された?

こんなふうに伝記映画が作られるようなロックスターだから、当然、その栄光が描かれることになるわけだが、その後には必ず凋落の時代が来る。浮かれ騒いだ時代の後には、苦悩の時代がやってくる。しかし映画としては、そんな“太ったエルヴィス”というトーンダウンした状態で終わっていくとすると、観客には物悲しい印象ばかりが残ることになってしまうだろう。それを防ぐために脚本・監督のバズ・ラーマンは、本作の語り部として、トム・パーカー(トム・ハンクス)というエルヴィスのマネージャーを用意したのだろう。

この人物は自分で勝手に大佐を名乗っている、素性の知れないいかがわしい人物だ。パーカー大佐は冒頭に登場すると、「エルヴィスを殺したのは誰だ?」と観客に問い掛ける。そして、「世間的にはわたしが殺したと言われているようだが、それは違う」などと言い訳をする。

これには嘘も混じっているだろう。劇中でエルヴィスは知らぬ間に借金を背負わされ、ラスベガスのショーに縛り付けられることになるが、これはパーカー大佐の仕業であり、それによってエルヴィスは精神的に参っていき身体を蝕まれていくようになるからだ。

パーカー大佐の言葉は信用できない。しかしながら、そんなパーカー大佐が語り部だったからこそ、本作の最後においてエルヴィスは愛のために死んだという物語が完成することになったのだ。栄光からの凋落を導いたのもパーカー大佐だが、映画の中でエルヴィスの最期を感動的な物語としてまとめていたのもパーカー大佐なのだ。

世間から見れば、エルヴィスを殺したのは、彼を騙して飼い殺しにしたパーカー大佐ということになる。しかしながらパーカー大佐から見れば、別のようにも見える。パーカー大佐は時に的確なことも言う。エルヴィスを最初に発掘した時、「人々が楽しんでいいかどうか戸惑うようなものこそ、最高の見世物だ」と語り、それは的中する。エルヴィスの卑猥なものを感じさせるパフォーマンスは全米から非難を浴びることになったけれど、それ以上の熱狂を巻き起こしたのだ。

そんなパーカー大佐の目には、エルヴィスは愛によって殺されたと映ることになる。パーカー大佐曰く、奥様のプリシラからの愛は、ファンからの熱狂的な愛に敵わないということになるのだ。

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映画『エルヴィス』のロゴをよく見ると「TCB」というイニシャルが入っている(稲妻のマークがそれをわかりにくくしているけれど)。これはエルヴィスの従えていたバンドの名前にもなっていたらしいのだが、「taking care of business」ということらしい。エルヴィスはこの言葉を好んで使っていて、ネックレスなどにも「TCB」のロゴが入っていたらしい。意味としては「(やるべきことを)きちんとやる」ということだ。

劇中でも奥様のプリシラ(オリビア・デヨング)と別れる時に、「俺はやるべきことをやる」という台詞があったと思う。エルヴィスは生真面目なところがある人だったのだろう。母親にキャデラックを買うと約束して、それの約束をあっという間に果たし、家族と一緒に住むために、グレイスランドという邸宅まで作り上げた。ラスベガスのショーに縛り付けられるようになってからも、ショーでは全力投球だったように見える。特に最後の「Unchained Melody」のシーンは、金のためにやっているだけではない、何かしら鬼気迫るものがあり、パーカー大佐の言葉もまんざら嘘ではないような気がしてくるのだ。

バズ・ラーマンは躁病的な大騒ぎのシーンを得意としている。『ムーラン・ルージュ』『華麗なるギャツビー』でもそうした賑やかなシーンがとても決まっていた。本作でも前半のエルヴィスがロックスターへ駆けあがっていくあたりにはそんな雰囲気がある。しかしながら後半のエルヴィスは、“太ったエルヴィス”と言われるような状態で死んでいくことになる。そんなエルヴィスの姿を、ファンへの愛のために死んでいった物語として蘇らせるためにも、パーカー大佐の視点が必要だったのだ。そして、このラストは『ムーラン・ルージュ』という作品が「何よりも愛を讃える物語」とされていたように、バズ・ラーマンらしい映画となっていたんじゃないだろうか。

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