カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した作品。
監督のラジ・リはこれまで短編やドキュメンタリーを撮っていた人で、本作が初の長編作品とのこと。
物語
舞台はパリ郊外に位置するモンフェルメイユ。そこに引っ越してきたばかり警察官のステファン(ダミアン・ボナール)は、警察の犯罪防止班に加わることに。同僚の2人と一緒にパトロールに出ると、その街ではさまざまなグループがひしめき合うようにして暮らしている。そして、イッサという少年のいたずらから発したトラブルは、街全体を巻き込むような騒動となっていく。
バンリューを描いた作品
フランスと言えばパリのことを思い浮かべてしまうわけだが、パリは家賃も高いそうで、貧乏人が住めるような街ではないらしい。本作の舞台はパリから20kmくらい離れた位置にあるモンフェルメイユという街。ここは移民などの低所得層が多く住むところで、そんなパリ郊外のことを“バンリュー”と呼ぶのだとか。
バンリューを描いた作品としてはマチュー・カソヴィッツの『憎しみ』(1995年)などがあるわけだが、本数としては限られているらしい。本作の舞台は監督ラジ・リの出身地とでもあるということで、ここで描かれていることは監督自身の経験が多くを占めているようだ。
タイトルはヴィクトル・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』から採られたもの。というのは、モンフェルメイユという街は、その小説の舞台でもあったからだ。日本では「ああ無情」という名前で知られるこの作品は、「悲惨な人々」を意味している。本作に登場してくる移民たちの姿と重なってくるところがあるという意味合いからだろう。
いたずらから暴動へ
主人公は初めて街にやってきたステファン。同僚のクリス(アレクシス・マネンティ)とグワダ(ジェブリル・ゾンガ)に連れられて街をパトロールするのだが、警察であるはずのふたりの態度は荒くれ者みたいにも感じられる。というのは彼らが担当する地域は治安のよくない場所で、そんな場所を仕切るには警察もなめられてはいけないという意識なのかもしれない。
本作『レ・ミゼラブル』の冒頭では、ワールドカップでのフランス優勝にパリが歓喜している様子が描かれる。モンフェルメイユの子供たちもパリへと出かけ、フランスの優勝を祝う。そこでは誰もがフランス国民として一体となって歓喜しているのだが、ちょっと電車にのってモンフェルメイユに戻ってくると、そこでは移民たちがヤクザの抗争さながらの関係性のなかで暮らしている。
団地には“市長”と呼ばれる男がまとめるアフリカ系移民たちがおり、近くにはイスラム教の信奉者たちもいる。さらにロマ族のサーカス団もいて、それぞれグループを形成している。一応はクリスたち警察はそれらを仕切っていることになっているのだが、傲慢とも言える警察のやり方には不満もあるようだ。
騒動のきっかけとなるのはイッサという少年が、サーカス団のライオンの子供を盗み出したこと。それに気づいたロマ族たちは“市長”のグループに対して怒鳴り込んでくる。その場はクリスたち警察が収め、犯人探しをすることになり、イッサを捕まえることになるわけだが、子供たちの抵抗に遭い、誤ってゴム弾でイッサを撃って傷つけてしまう。しかもそうした騒動のすべてがドローンによって盗撮されていたことが判明する。事が公になると警察に対しての暴動が起きかねないという懸念から、クリスたちは傷ついたイッサのことをそっちのけで動画データの回収に奔走することになる。
イッサに何が起こったか
本作は初めて赴任したステファンの視点からこの街の騒動を追っていくことになる。ライオンの子供を盗まれたロマ族と、それを盗んだイッサのいる“市長”たちのグループ、そして動画を撮影した少年がいるのはイスラム教のグループ。そんな対立を仲裁するのが警察ということになるわけだが、一度は事態は収束したかに見えるのだが、次の日になるとイッサを中心とした子供たちのグループが大人たちを襲撃し始めることになる。
ラストで引用されるユゴーの言葉によれば、環境が人をつくることになる。つまりはイッサが大人たちの手に負えない悪ガキになってしまったのも、周囲の環境が悪かったということになるのだろう。一度は収束したはずの騒ぎが、翌日になって子供たちの暴動となって表れてくるのはバンリューの環境が引き起こしたということなのだろう。
衝撃的とも言えるかもしれないラストだが、イッサを中心とした子供たちが一丸となって大人たちに立ち向かっていく理由がいまひとつつかめず、唐突にも感じられた。そもそものきっかけはイッサのいたずらだし、自業自得にも見えてしまうからだ。イッサは、田舎では盗みをした者が焼き殺されるという噂を仲間たちに語っていて、盗みをすればどんな目に遭うかわかっていたのではなかったのだろうか。
『キネマ旬報』誌ではラジ・リ監督のインタビューが掲載されていた。それによるとイッサの怒りは大人たちが事態を丸く収めたことが気に食わなかったということらしい。確かにイッサはゴム弾で顔に傷を負ったにも関わらず、警察はそれを謝罪もせずに、グループのリーダーたちによる手打ちのような形で事態を収束させる。ケガを負わされたイッサとしては、そうしたトラブルそのものをなかったものとするような大人たちの汚いやり方が許せなかったということなのだろう。
ただ、本作ではあくまで視点はステファンの側にある。モンフェルメイユが初めてのステファンは、観客の目の代わりとなってその街を体験していく役割を担っている。後半では警察側のリーダーであるクリスのやり方に反発するようになっていくのだが、ステファンが主人公である必然性はあまり感じられない。ステファンはこの街が初めてだし、イッサが抱える複雑な感情を理解できなかったんじゃないだろうか。
監督のラジ・リはもともと警察の横暴な姿を撮る側にいた人らしい。劇中でドローンを飛ばして騒動を撮影している少年は、監督の息子さんとのこと。視点を少年の側に設定していたとしたら、イッサの怒りの部分がわかりやすくなったんじゃないかと思うのだがどうだろうか。
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