監督・脚本は『猿の惑星: 新世紀』などのマット・リーヴス。
DCコミックスのヒーロー、バットマンの新シリーズ。
物語
優しくもミステリアスな青年ブルース。両親殺害の復讐を誓い、悪と敵対する存在“バットマン”になって2年が過ぎた。
ある日、権力者を標的とした連続殺人事件が発生。犯人を名乗るリドラーは、犯行の際に必ず“なぞなぞ”を残していく。
警察や世界一の名探偵でもあるブルースを挑発する史上最狂の知能犯リドラーが残した最後のメッセージは――「次の犠牲者はバットマン」。
社会や人間が隠してきた嘘を暴き、世界を恐怖に陥れるリドラーを前に、ブルースの良心は狂気に変貌していく。リドラーが犯行を繰り返す目的とはいったい――?
(公式サイトより抜粋)
狂気のコスプレ男
本作のブルース・ウェイン(ロバート・パティンソン)は、バットマンとして活動し始めて2年目という設定だ。本作では描かれることはないが、ブルースがそんなことをやり始めたのは、両親を強盗に殺されたからだ。
その闘いぶりは、正義の味方が悪を懲らしめるというよりも、怒りや恨みを彼らにぶつけているようでもある。ブルースは「恐怖は利用できる」と語る。バットマンが下す暴力は悪党たちに恐怖を与えることになるのだろう。バットシグナルが夜空に灯ると、悪党たちも逃げたほうがいいとビビらせるほどに……。ブルースは恐怖の力でゴッサムシティを変えようとしているのだ。
本作はノーラン版の『ダークナイト』三部作と比べても、より一層リアルなバットマンとなっている。ムササビ風に滑空するものの着地には失敗してしまうのも、メインのヴィランであるリドラーの造形が、『バットマン フォーエヴァー』でジム・キャリーが演じた緑のタイツ姿とはまったく違うのも、現実的な世界を意識しているからだろう。
そもそも大の大人がコスプレをして夜の街を監視して回るという行動は、普通に考えたら常軌を逸している。本作は冒頭でハロウィーンの夜が描かれるが、普通ならハロウィーン以外でそんなことをする人はいないだろう。その意味でもバットマンの行動はちょっと異常なのだ。
ゴードン警部補(ジェフリー・ライト)の協力を得て、警察の手助けをしているバットマンだが、多くの警官は彼を胡散臭いものとして見ている。マスクで顔を隠して行動するような輩は、何かしら後ろ暗いところがあるのだろうと思われているのかもしれない。本作はバットマンが狂気を帯びた存在であることを強調しているのだ。
おもしろいのだが……
全体的な感想としては、陰鬱とした佇まいを見せるロバート・パティンソンの雰囲気もダークな色調の作品に合っていて魅力的だったし、『セブン』のようなミステリーとしておもしろいのは確かなのだけれど、176分はやはり長いというところだろうか。
これほど長くなるのは登場人物が多いからだろう。メインのヴィランはリドラー(ポール・ダノ)だが、キャットウーマン(ゾーイ・クラヴィッツ)やペンギンも登場するために長尺になっているのだ。
言ってしまえば、本作はペンギンは居なくても成立する話だ。ペンギンの役割は、バットモービルを登場させるためのカーチェイスを促すだけだったようにも見えてしまう。バットマンに捕まった後に、手枷足枷でペンギンのようなヨチヨチ歩きになるシーンは唯一の笑えるシーンとして貴重なのかもしれないけれど……。製作側の事情としては、ペンギンを主役に据えたスピンオフドラマが決まっているから、本作で顔出ししておかなければならないということなのかもしれない。
ティム・バートンの『バットマン リターンズ』では、ダニー・デヴィートが演じたペンギンというキャラはフリークスとして悲惨な人生を歩んできたことが描かれるわけだが、本作のペンギンは人相の悪いおじさんにしか見えない。ちなみにペンギンを演じているのはコリン・ファレルだ。しかし、それは外見からはまったくわからない。特殊メイクで別人になってしまっているからだ。
バットマンやリドラーがマスク姿だったように(キャットウーマンはコソ泥風のニット帽だが)、本作ではマスクの下に嘘を隠しているということがイメージされている。ペンギンの顔もコリン・ファレルにとってのマスクということなんだろうか。スピンオフのテレビシリーズで本当の顔としてコリン・ファレルが登場するならおもしろいけれど……。そんなわけで脱線気味のペンギンのエピソードがなければ、もっと短くまとまってスッキリしたんじゃないかと思わなくもない。
ブルースの自己欺瞞
『ジョーカー』では虐げられるジョーカーに同情し、彼がやることに共感してしまう部分があり、そうなると悪党であるはずのジョーカーの“悪”というものも揺らいでくるように感じられた。『THE BATMAN-ザ・バットマン-』では、正義の味方であるはずのバットマンの“正義”というものが揺らいでくることになる。
メインのヴィランであるリドラーは、犯行後バットマンに対して“なぞなぞ”を残し、探偵でもあるバットマンがその謎を解くということが繰り返される。バットマンはリドラーの共犯者のようにも見えてくる。リドラーの犯行計画には最初からバットマンが組み込まれているからだ。
このふたりの関係はおもしろい。というのも、ふたりは似た者同士で、実はバットマンがリドラーを生み出したということが明らかになってくるからだ。市長殺害の場面では、誰かが市長の部屋を覗いているシーンがある。これはその後に市長を殺害するリドラーの視点だったのだろう。これと同じような覗きのシーンがある。それはバットマンがキャットウーマンを監視している場面だ。ふたりが同じことをしているシーンをわざわざ用意しているのは、ふたりが似た者同士であるということを示すためだろう。
さらに、リドラーは同調者たちに「オレは復讐だ」と名乗らせている。これはバットマンが悪党たちに対して使っていた台詞だ。リドラーはバットマンに似ているというよりも、バットマンの模倣犯なのだ。
リドラーは逮捕後にバットマンと対峙した時、彼の正体がブルース・ウェインだと見抜いている。バットマンは警察の手伝いなどをして正義のフリをしているが、実はその根底にあるのは復讐だと見抜いていたのだ。これはバットマンの嘘というよりは、ブルース自身も気づかずにいた自己欺瞞だろう。バットマンはキャットウーマンには復讐を否定しているのに、自分では同じことをしているということに気づかずいたのだ。
そして、リドラーにも復讐したい相手がいた。それがリドラーの犯行で犠牲になったゴッサムシティの権力者たちということになる。
人の振り見て我が振り直せ
バットマンとリドラーが対峙する場面は、どこか『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンとスメルジャコフの対峙を思わせるような気がした。『カラマーゾフ』ではイワンの心中を忖度したスメルジャコフが、勝手に殺しを実行してしまうことになる。これはスメルジャコフの思い込みが交じっているのだが、イワンはそれをまったく望んではいなかったとは否定できないのだ。
これと同じように、バットマンはリドラーのやることを完全には否定できないのかもしれない。ゴッサムシティの不正を暴くという仕事は、本当は自分がやるべきだったとも感じる部分もあったのかもしれない。そもそもリドラーはバットマンが正義の名の下に復讐を実行していることに影響されたのだから。
ただ、リドラーのやり方は間違っている。リドラーは市長や検事を殺し、その不正の中心にいる人物を暴こうとする。不正を暴くのは正義なのかもしれないけれど、目的を重視するあまり手段を選ばないのは害悪でしかないだろう。
多分、バットマン=ブルースはリドラーの姿に自分の姿を見たのだろう。「人の振り見て我が振り直せ」ということわざもあるけれど、自分の姿を客観的に見せてくれたのがリドラーだったのだ。
そうなると、暴力による恐怖で悪党をビビらせるというバットマンのやり方も間違いであることも理解されてくる。それとは別のやり方が必要なのだ。そして、そのとりあえずの答えが、ゴッサムシティの市民たちに手を差し延べるということだったのだ。バットマンは自らの間違いを否定するために、一度自殺めいた飛び降りをし、蘇ることになる。
『ダークナイト』三部作がダークナイト(闇の騎士)からホワイトナイト(光の騎士)へという流れを描いたように、本作のバットマンも光のほうへ歩むことになる。バットマンは冒頭の語りの中で、闇に紛れるのではなく、自分が闇なのだと言っていたのだが、バットマンは闇から出て光のほうへと歩むことを選んだのだ。このシリーズは若くて未熟なブルースの成長を描く三部作となるのだろう。
『THE BATMAN-ザ・バットマン-』は、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』などの「DCエクステンデッド・ユニバース」とは無関係の世界と設定されているらしい。あちらの世界のちょっと歳と経験を重ねたはずのバットマンは、「1パーセントでも敵になる可能性があれば敵」などと危ういことを言っていた。バットマンの正義はいつも危ういものを含んでいるようだが、ロバート・パティンソンのまだ若いバットマンは一体どんなふうに成長していくんだろうか。
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