監督・脚本は『春原さんのうた』などの杉田協士。
主演は『スウィート・ビター・キャンディ』や『天国はまだ遠い』などの小川あん。
ヴェネチア国際映画祭ヴェニス・デイズ部門に出品された作品。
物語
書店員の春は駅前のベンチに座っていた雪子に道を尋ねるふりをして声をかける。春は雪子の顔に見える悲しみを見過ごせずにいた。一方で春は剛の後をつけながら、その様子を確かめる日々を過ごしていた。春にはかつてこどもだった頃、街中で見かけた雪子や剛に声をかけた過去があった。春の行動に気づいていた剛が春の職場に現れることで、また、春自身がふたたび雪子に声をかけたことで、それぞれの関係が動き出す。春は二人と過ごす日々の中で、自分自身が抱えている母親への思い、悲しみの気持ちと向き合っていく。
(公式サイトより抜粋)
悲しみを見過ごせず
杉田協士監督の作品は以前『ひかりの歌』を観た。『ひかりの歌』は短歌を原作とした映画で、原作となっている短歌と同様に情景描写はあっても説明的なものはなく、余白が多い作品だった。『彼方のうた』という作品もそれは同様で、何も知らずに観ていたとしたら迷子になる場合もあるのかもしれない。
それでも『彼方のうた』に関しては、公式サイトから上に抜粋した「ストーリー」の文章が参考になる。主人公となる春(小川あん)は、ベンチに座っていた雪子(中村優子)に声をかけるわけだが、それは「悲しみを見過ごせず」にいたからであり、剛(眞島秀和)という男性にストーカーめいたことをしているのも、同じような気持ちからということになる。
本作でもそうした出来事がほぼ説明なしに展開していく。春はかつて雪子にも剛にも会ったことがあったらしい。しかし、その過去の出来事について詳しく語られることはない。
ただ、春と剛との出会いについては、剛が春のストーカーめいた行為に気づいたことで、少しだけ触れられることになる。それでも春は「駅のホームで」という言葉をつぶやくだけだ。それによって剛はなぜか涙を流すことになるわけだが、剛はその言葉だけですべてが合点がいったということらしい。しかしながら、その詳細は語られることはなく、ただ春と剛の不思議な関係がその後も描かれていくことになる。
あの日、あの時、あの会話
上映後の杉田監督の舞台挨拶によれば、それぞれのキャラクターの背景についてはかなり詳細に設定されているようだ。しかし、劇中ではそうした過去は描かれない。もちろんキャラクターの行動によって観客が推測できることはあるけれど、それでも余白が多いことは確かで、観客としては勝手に想像を膨らませることになる。だから以下も私の勝手な解釈ということになる。
春は不在の母親の姿を捜しているのだろう。春は映画を製作するワークショップに参加している。このワークショップでは、「あの日、あの時、あの会話」というテーマでのワンシーン・ワンカットの短編作品を作ることになる。
春がその時に作った短編は、春が子供の頃の母親とのエピソードが描かれている。そこでは買い物に出かけようとする母親を春が見送ることになる。「キャラメルがいい」などと欲しい物を頼む春に対して、母親は「わかった」という言葉を残して去っていく。何気ない日常の一コマのようでいて、この瞬間は春にとっては母親との最後の瞬間だったということなのかもしれない。
そんなわけで春は母親の姿を追い求めている。だから絵画のカルチャーセンターでは、ある年上女性に「わたしのことを見てたでしょう」などとちょっとしたトラブルになったりもするし、春が雪子に声をかけたのもどこかで母親の姿を重ねていたからなのかもしれない。
ちなみに本作の英語版のタイトルは「Following the Sound」というもので、本作冒頭では春がカセットテープの音を聴くシーンが描かれる。これは川のせせらぎの音らしく、春は雪子が運転するバイクに乗ってその音を捜して旅に出たりもすることになるのだ。
そういう者に私はなりたい
それでも春が気にかけていたのは、剛という男性もいるわけで、単純に母親の姿だけを追い求めているわけでもなさそうだ。そこはやはり「悲しみを見過ごせず」という気持ちがあるということだろう。春のこんな姿を見ながら私が思い浮べたのは、宮沢賢治が「雨ニモマケズ」という詩に描いた人物のことだ。
本作の春は誰かの傍に寄り添う人物だ。先ほども言及したワークショップで製作した短編には、ある女性が久しぶりにピアノを弾くという短編もあった。この女性は久しくピアノに触れていなかったのか、途中で「忘れちゃった」と言いながら助けを求めるように隣の女性を視線を交わす。このピアノを弾いている女性に寄り添う人物を演じていたのが春なのだ。
春は何も語るわけではないけれど、ただその女性に寄り添い、彼女の視線を受け止める。春が雪子や剛にやっていたことも、これと同じようなことだろう。悲しみを抱えた人の傍にただ寄り添うのだ。私にはそんな春という人がとても愛おしい人物に思えて、ずっと目が離せなかった。
とはいえ、春は「雨ニモマケズ」に描かれた人物とは異なる部分もある。「雨ニモマケズ」は宮沢賢治が法華経の精神から学んだ理想的な姿ということになる。「そういう者に私はなりたい」と詠われているのは、宮沢賢治の理想が込められているということだろう。
一方で春にはそんな理想像とは違って、弱さもある。春自身も悲しみを抱えているからだ。だから春は雪子の自宅に赴く途中で、道端に立ち止まって動けなくなってしまう。春は悲しみを抱えた人に寄り添うことは出来た。しかしそれだけでは自分の悲しみはどうにもならない。そこに弱さがあり、春は寄り添ってくれる誰かを求めていたということでもあるのだろう。
ラストはそんな春の想いが思いがけず通じた瞬間だったのかもしれない。タイトルの「彼方」というのはどこを指すのかはわからないけれど、そこには何かしらの希望が込められていたように感じられた。
小川あんの大きな目が印象的な作品で、バイクの後部座席であらぬ方向を見ている瞬間がなぜか心に残る。杉田監督の作品はどうやらソフト化されていないらしく、とても評判が良かったらしい前作『春原さんのうた』をスルーしてしまったことが今さらながら悔やまれる。どこかでやってくれないものだろうか。
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