原作は『告白』などのベストセラー作家・湊かなえの同名小説。
監督は『ヴァイブレータ』、『さよなら歌舞伎町』などの廣木隆一。
物語
女子高生が遺体で発見された。その真相は不明。事件はなぜ起きたのか?
普通に見えた日常に、静かに刻み込まれた傷跡。愛せない母と愛されたい娘。
同じ時・同じ出来事を回想しているはずなのに、ふたりの話は次第に食い違っていく……
母と娘がそれぞれ語るおそるべき「秘密」ー
2つの告白で事件は180度逆転し、やがて衝撃の結末へ。
母性に狂わされたのは母か?娘か?
(公式サイトより抜粋)
どこからネタバレ?
この映画はどこからがネタバレってことになるんだろうか? バラしてはいけないような謎があったのかもどうかもわからないような、ぼんやりとしたところがある映画とは言えるのかもしれない。
原作者の湊かなえはゆわゆる“イヤミス”の第一人者とされている人なのだろう。確かに話題となった『告白』はなかなかどぎついことが描かれていたし、とてもイヤな気持ちになる映画だったと言える。それに比べると『母性』は意外にも真っ当なことを描いているようにも見える。
原作者は『母性』について「これが書けたら作家を辞めてもいい」と語っていたとのことで、とても思い入れのある小説ということなのだろう。私自身は原作を読んでいないので、それに関しては何とも言えないけれど、映画を観た限りではちょっと原作者の思い入れがどこにあるのかわからないような気もする。
原作小説のほうは叙述トリックを使っていて、それが読者にサプライズを与えることになっているようだ。ただ、それを映像媒体でやることは難しい。どうにもそのあたりで本作は何か大きなものが抜け落ちてしまったような映画になってしまったのかもしれない。
愛せない母と愛されたい娘
本作は二人の主人公がいて、母親であるルミ子(戸田恵梨香)と、その娘である清佳(永野芽郁)のそれぞれの視点から描かれていく。
まずはルミ子とその母親(大地真央)の関係が描かれる。この母親はとても真っ当な人だ。娘のルミ子に対し無償の愛を注ぎ、それに応えるようにルミ子も素直に育つ。
ただ、母親が完璧すぎたのか、ルミ子は母親のことを否定することがまったくできない。母と娘とはいえ別人なのだから、感性の違いはあってしかるべきなのに、ルミ子は絵画の好みまで母親と一致させようとするのだ。
ちなみにこの家族にはまったく父親の影がない。まるで母親が単為生殖でもしたかのように、ルミ子は母親のコピーになろうとしていくのだ。
もしかするとこのこと自体はそれほど問題ないのかもしれない。ルミ子の母親は完璧な人だからだ。しかし、ルミ子は母親のことを崇拝するあまり、すべての価値観を測る基準が母親になってしまう。そのことがルミ子の娘・清佳を苦しめることになる。
視点が変わって清佳になると、ルミ子が母親ありきという価値観だということが鮮明になってくる。ルミ子の母親は無償の愛を注いでくれるけれど、ルミ子は「母親によかれ」ということが基準になり、すべてはその基準に合うような条件付きの愛になる。ルミ子が忖度する母親の希望と合致すれば対価として褒められるけれど、それに合致しなければ否定されるようになる。そんなふうにして清佳はルミ子の目を気にしなければならなくなるのだ。
ちなみに清佳の父親(三浦誠己)は結婚した途端に影が薄くなるのだが、いないわけではない。ルミ子は清佳が自分のコピーではなく、旦那の血が混じっているから気に入らないようでもある。これも旦那への最初の印象を覆してまで母に合わせようとしたことの弊害とも言えるのかもしれない。
やはり映画化は難しい?
本作はそんなふうにルミ子と清佳、二人の視点からそれぞれ描かれることになるのだが、これはそれほど珍しいものではないし、最近の『最後の決闘裁判』のように見事にその手法が決まっていたとは思えない。『最後の決闘裁判』がやったのは、起きた出来事は同じでも、視点が異なれば主観の違いによって受け取り方も違うものになるということだった。
本作において決定的な出来事となっているのは、火事が起きてルミ子の母親が亡くなった日のことだろう。この頃はまだ清佳は幼くて、その日どんなことがあったかという記憶は曖昧になっている。一方でルミ子にとってはその日のことがトラウマとなっているわけだが、主観の違いによってというよりも清佳が幼すぎて覚えていないだけだから、視点を変えて描くことにそれほど意味があるとは思えないのだ。
その後の展開でルミ子は清佳を抱きしめたけれど、視点が変わるとルミ子が清佳の首を絞めているというのも、どちらかの嘘が混じっているだけで、どちらが語っていることが真実なのかという点はスルーされてしまう。
ほかにも本作は原作を映画に落とし込むところで苦慮している感じは伺える。叙述トリックが映画ではうまく機能しないため、本作では始めて「清佳」という名前がルミ子から発せられるシーンを印象的に撮っているわけだが、これも恐らく叙述トリックの名残であって、原作では驚きのシーンになったとしても映画ではちょっと意味不明なシーンとも感じられる。
ルミ子が娘の清佳の名前を呼ぼうとはしなかったというのは普通ではないけれど、そこまで強調するほどとは思えないわけで、本作は映画化が難しいと言われた原作に挑戦してみたけれど、やはりうまくいかなかったという印象なのだ。
真っ当なメッセージ
本作で言わんとしているのは、女には二種類あるということであり、母性というものは決して先天的なものではないということだろう。二種類の女というのは、母と娘ということだ。
順番としては、まず娘になり、そして母になる。しかし、なかなか母になれない人もいる。子供ができないという意味ではなく、ルミ子のように娘という立場に安住してしまい、いつまでもそこに留まりたいと思う人もいるからだろうか。とにかく母性は後天的に獲得していくものであって、天与のものではない。そんなことを本作は描いている。極めて真っ当なメッセージだろう。
最後も清佳が子供を授かり、ルミ子から母親譲りの言葉を授かるというちょっとだけ和解っぽい感じで終わっており、『告白』のようなどぎついものを期待していると肩透かしなのかもしれない。
もちろんそれなりにイヤな気持ちになる部分はある。大地真央演じるルミ子の母親はあまりに完璧すぎるためにかえって気味が悪い気もするし、高畑淳子が演じた義母は今では完全に総スカンを喰らうような鬼婆っぷりで吐き気がするくらい。そんな意味では、湊かなえの原作らしいところは感じなくもないのだけれど……。
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