『裸足で鳴らしてみせろ』 監督の顔は?

日本映画

監督・脚本は『オーファンズ・ブルース』工藤梨穂

『オーファンズ・ブルース』は「PFFアワード2018」でグランプリを受賞した作品で、『裸足で鳴らしてみせろ』はPFFスカラシップ作品として製作された商業映画デビュー作。

物語

父の不用品回収会社で働く直己なおみ(佐々木詩音)と、盲目の養母・美鳥みどり(風吹ジュン)と暮らすまき(諏訪珠理)。
二人の青年は、「世界を見てきてほしい」という美鳥の願いを叶えるために、回収で手に入れたレコーダーを手に“世界の音”を求めて偽りの世界旅行を繰り広げていく。
サハラ砂漠を歩き、イグアスの滝に打たれ、カナダの草原で風に吹かれながら、同時に惹かれ合うも、互いを抱きしめることができない二人。
そんなある日、想いを募らせた直己は唐突に槙へ拳をぶつけてしまう。
それをきっかけにして、二人は“互いへ触れる”ための格闘に自分たちだけの愛を見出していくが……。

(公式サイトより抜粋)

映画的記憶の産物

工藤梨穂監督は京都造形芸術大学映画学科の卒業制作で『オーファンズ・ブルース』を作り、それが「PFFアワード」でグランプリを獲得し、本作で商業デビューしたとのこと。この『オーファンズ・ブルース』は、ある意味では自主製作らしくない作品とも感じられた(現在U-NEXTにて配信中)。というのは“自分語り”みたいなものがほとんど感じられなかったからだ。

私自身がちょっとだけ知っている、大学の映画サークルの製作したそれとはかなり異質なような気もしたのだ(単なる映画サークルのそれと、芸術大学映画学科の卒業制作を同じものとして見てはいけないのかもしれないけれど……)。

『オーファンズ・ブルース』では、まだ若い主人公が記憶障害を患っているという設定だ。多分、実際にこんな病にかかった人がそうそう周囲にいたとは思えないわけで、工藤監督の何かしらの映画的記憶がそんな映画を作らせたということなのだろう。

そして、この『裸足で鳴らしてみせろ』という作品も、工藤監督がこれまでに観てきた映画的記憶から生まれたと言える。本作の劇中で「イグアスの滝に行く映画」と言われているのはウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』だろうし、男ふたりの微妙な関係性は監督自身がインタビュー等で語っているように、トリュフォー『隣の女』のラストの台詞「一緒では苦しすぎるが、ひとりでは生きていけない」にインスパイアされたとのことだからだ。

(C)2020 PFFパートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人PFF

世界を巡る旅へ

直己(佐々木詩音)は父親(甲本雅裕)の不用品回収会社で働いている。父親は悪い人ではないのだが、押し付けがましいところがあるようで、直己はちょっと息苦しさを感じている。実家はその父親とのふたり暮らしで、直己は父親からの避難場所として、使用していない会社の倉庫を自分だけの居場所にしている。

そんな直己が槙(諏訪珠理)と親しくなったのは、たまたまその時期直己が孤独だったからだろう。それまでの仲間が地元から離れ、直己は地元に残されることになったからだ。その孤独の時期に直己は槙と出会うことになる。

一方の槙は天涯孤独なのか、盲目の女性・美鳥(風吹ジュン)の養子となっていて、彼女の世話をしている。ところがその美鳥が病気になってしまう。槙は美鳥の代わりに世界を一周し、それぞれの場所で録音したテープを美鳥に贈ることにする。直己は槙と一緒に、世界を巡る旅に出ることになるのだ。

(C)2020 PFFパートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人PFF

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サハラ砂漠は公園で

きっかけは世界各地の音を美鳥に聞かせてやりたいという思いだ。最初はサハラ砂漠から始まる。しかしながら、本当に海外旅行するほどの金銭的な余裕はない。美鳥は若い頃の貯金が残っていると勘違いしているのだが、その残額はほとんどなかったからだ。そのため槙は近所の公園の砂場をサハラ砂漠に見立てる。砂場の砂を足で踏む音をレコーダーに録り、それを美鳥へ贈ることになるのだ。

そんなふうに始ったふたりの音を録る旅は、直己の倉庫で独自の音を作る作業になっていく。波の音はざるに豆を転がす音になり、どこかの小麦畑を歩く乾いた音はビデオテープの中身を足で踏む音で代用される。

ところが、次第に盲目の美鳥に贈るテープとしては不可解な場所も登場してくる。カプリ島の「青の洞窟」や、アンテロープキャニオンの洞窟に射し込む陽の光などは、音として残るものではないからだ(映像としてはとても映えるのだが)。ここではすでに、ふたりが一緒に音を録る作業をしていること自体が重要になっているのだ。

(C)2020 PFFパートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人PFF

ラブバトル

ふたりの関係が同性愛なのかどうなのかはよくわからない。後半では、ある出来事でふたりは別の道を辿ることになり、その後に直己はかつて地元を去っていった友人である朔子(伊藤歌歩)と再会し恋人同士となる。その際には、直己は彼女とはごく自然にセックスもしている。それまでは異性愛者として過ごしてきたということであり、だからこそ槙との関係性を自分でもわかりかねていたということなのかもしれない。

それでも触れたいという意識はある。「触れられるものしか信じない」と言っていたのは直己のほうだ。直己は映画をコレクションする趣味があり、避難所である倉庫には多くのビデオカセットがあった。観たという記憶が残ればいいじゃないかという槙に対し、直己は物として手元にないとダメなのだという。そんな直己だから「触れられるものしか信じない」という台詞が出てくることになるし、槙にも触れてみたいという気持ちになったのだろう。

ただ、その触れ方が問題で、それは愛撫のようにはならない。そんな触れ方をして相手に拒否されたらという不安がそうさせるのかもしれないのだが、直己は子供がじゃれ合うように槙を小突き、それは取っ組み合いのようになっていく。

工藤監督曰く、こうした格闘シーンは『ラブバトル』(ジャック・ドワイヨン監督)のそれから影響を受けたらしい。『ラブバトル』では、男と女が肉体的な闘いを繰り広げることになる。その闘いは最終的にはセックスへと結びついていくことになるわけだが、『裸足で鳴らしてみせろ』の場合はそうはならない。何度もそうしたじゃれ合いが繰り広げられ、最終的には直己が槙のことをケガをさせるまでになるのだが、性的な関係に結びついてはいかないのだ。

ゲイの関係が常に暴力的な始まり方をするわけではないのだろうと推測するのだが、たとえば『ゴッズ・オウン・カントリー』みたいに暴力的に相手を組み伏せたりする場合もある。

こうした場合の暴力は最終的な目的地がはっきりしているわけだが、本作の直己と槙のじゃれ合いは目的地が曖昧だ。触れ合いたいという気持ちだけがあってスタートし、それは格闘へと発展するけれど、暴力によって相手を痛めつけることが目的ではないわけで、行き場を失ったうやむやな形で相手を手放すほかなくなってしまう。

ふたりは自分たちの関係が同性愛なのかどうかすらよくわかっていないのだろう(「LGBTQ」などと表記される時の「Q」の部分に分類されるような関係ということなのだろうか)。そんな微妙で不思議な関係が本作では描かれている。

(C)2020 PFFパートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人PFF

監督の顔は?

ふたりの関係性は独特でおもしろかった。とはいえ、若干冗長には感じられた。ラブバトルをもっと短くして2時間以内でまとめてもよかったんじゃないかとは思う。

本作と同様に「PFFスカラシップ作品」として製作された『猫と塩、または砂糖』に関してはちょっと前にレビューした。この『猫塩』は、監督が“元ニート”というちょっと珍しい出自が話題になったりもしていたし、作品にも監督の顔みたいなものが見えた気がした。それに対して『裸足で鳴らしてみせろ』は、よくも悪くも工藤監督の顔みたいなものがあまり感じられないような気もした。それはもしかするとプロ意識の表れなのかもしれないけれど、どこかで“自分語り”と感じられる部分があってもよかったんじゃないかとも感じた。

よくわからなかったのは、『ブエノスアイレス』に使われていたとか劇中で語られていた“サルベーション・ドーターズ”のアルバム。直己はそのレコードを朔子にプレゼントすると言いつつも、結局は劇中でその曲がかかることもないし、プレゼントもされることはない。これは架空のグループだったのだろうか? 妙にそれが気になった。

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