原作は14世紀の作者不明の叙事詩「サー・ガウェインと緑の騎士」。これに関しては、『指輪物語』のJ・R・R・トールキンが現代英語に翻訳したものがあるのだという。
脚本・監督は『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』や『さらば愛しきアウトロー』などのデヴィッド・ロウリー。
物語
アーサー王の甥であるサー・ガウェインは、まだ正式な騎士ではなかった。彼には人々に語られる英雄譚もなく、ただ空虚で怠惰な日々を送っていた。クリスマスの日。アーサー王の宮殿では、円卓の騎士たちが集う宴が開かれていた。その最中、まるで全身が草木に包まれたような異様な風貌の緑の騎士が現れ、“クリスマスの遊び事”と称した、恐ろしい首切りゲームを提案する。その挑発に乗ったガウェインは、彼の首を一振りで斬り落とす。しかし、緑の騎士は転がる首を堂々と自身で拾い上げると、「1年後のクリスマスに私を捜し出し、ひざまずいて、私からの一撃を受けるのだ」と言い残し、馬で走り去るのだった。それは、ガウェインにとって、呪いと厳しい試練の始まりだった。1年後、ガウェインは約束を果たすべく、未知なる世界へと旅立ってゆく。気が触れた盗賊、彷徨う巨人、言葉を話すキツネ・・・生きている者、死んでいる者、そして人間ですらない者たちが次々に現れ、彼を緑の騎士のもとへと導いてゆく。
(公式サイトより抜粋)
アート寄りの映像美
デヴィッド・ロウリーの『セインツ -約束の果て-』という作品が初めて日本で公開された際、日本の著名な映画評論家は「テキサス育ちのこの新人監督の長編第二作には、二十一世紀に撮られた最も美しいショットと、最も心に浸みるオーヴァーラップがまぎれ込んでいる。これを見逃してよい理由はない。」などと宣伝していた。
日本公開は2014年なのに、その時点で“二十一世紀に撮られた最も美しいショット”などと言い切ってしまうのは、この映画評論家独特の外連味なのだが、実際に『セイント』にはとても美しくて素晴らしいショットがあったことは確かだろう。
一方で、物語の部分は、ある程度の古典の素養がないとよくわからないとも言えるのかもしれない。公式サイトにも「徹底解説キーワード」なるページがあって、本作の背景となるキーワードについて解説がされている。そういう背景に関して詳しい人ならより楽しめる作品なのかもしれない。
実際に本作はエピソードも満載で、突如として『進撃の巨人』のような裸の巨人が現れたり、しゃべるきつねが道案内をしたりもするのだが、それでも方向性としてはアート寄りでエンターテインメントではないから退屈に感じる人もいるかもしれない。
個人的にはファンタジーは苦手で、未だに『ロード・オブ・ザ・リング』も1作目しか観ていないくらいなのだが、本作はわからない部分があるにしても映像面ではなかなか楽しめる作品になっていたと思う。
アーサー王の物語の外伝?
“アーサー王の物語”は、ヨーロッパでは誰でも知っている有名な話ということになるのだろう。私も“円卓の騎士”とか、“エクスカリバー”という剣の名前などは聞いたことはある。それでもそれを詳しく調べたこともなかったのだが、この物語群には様々な話が組み込まれているらしく、有名な「トリスタンとイゾルデ」などもこの中に含まれる話とされているらしい。とにかく由緒正しい物語ということなのだろう。
ただ、このアーサー王の物語自体が伝説だからか、確たる原典というものは存在しないようだ。様々な民間伝承がアーサー王と円卓の騎士という名前で語り継がれてきたということだろうか。本作も「サー・ガウェインと緑の騎士」から題材は採っているけれど、かなり自由に改変されてもいるようだ。
ガウェインという騎士は、円卓の騎士の中でもランスロットなどと並び称されるような重要なキャラクターらしい。しかし本作のガウェイン(デヴ・パテル)はまだ何も成し遂げていない若者であり、遊び歩いているという状態だ。本作では、そんなガウェインが試練に立ち向かうことで成長していく話となっているのだ。
騎士道精神とは?
物語の発端にあるのはグリーン・ナイト(ラルフ・アイネソン)の登場だが、これには魔女であるガウェインの母親(サリタ・チョウドリー)が関わっている。ガウェインはグリーン・ナイトにゲームに参加させられ、1年後に自らの首を差し出すという理不尽な誓いをさせられることになるわけだが、それもこれも放蕩息子に業を煮やした母親が試練を与えたという設定となっているのだ。
一方でアリシア・ヴィキャンデルが演じる二人の女性は、母親とは対照的な役割をすることになる。エセルという娼婦は、ガウェインとグリーン・ナイトの誓いを聞いても、名誉なんて何の意味があるのかと騎士道精神を否定する。さらには後半に登場する貴婦人は、ガウェインを誘惑する。原作ではガウェインはこの誘惑をはねのけることになるらしいが、映画の未熟なガウェインはその貴婦人の誘惑に負けてしまうことになる。
そもそも「騎士道精神とは何なのか?」ということだが、武士道のそれにも通じる部分もあるようだが、これはある種の行動規範であり、騎士道精神を謳う者は、卓越した武力だけではなく徳の高い立派な人間になることを目指しているということだろう。そして、騎士道には武士道とは違い、「貴婦人への愛」というものがあるようだが、これは精神的な愛ということであり、あくまでも貴婦人を守る立場にあるのが騎士道精神を持つ者のすべきことということになるだろう。だから貴婦人の誘惑に負けているガウェインは、ここでも騎士道にもとることをしているわけで、その貴婦人から笑われることになってしまうのだ。
※ 以下、ネタバレもあり!
国破れて山河あり
1年後、ガウェインは約束通りにグリーン・ナイトの前に現れることになるが、往生際が悪いことに首切りの直前になって「待った」をかけ、あろうことかその場を逃げ出してしまうことになる。そして、国に戻ったガウェインは、亡くなったアーサーの王座を継ぐことなる。
ここまでの展開を見ていると、ガウェインはまったく騎士とは言えない男であることがわかり、この物語は騎士道を揶揄するようなもの含んでいるのかとも思えたのだが、最後にそれがひっくり返されることになる。
実はグリーン・ナイトから逃げ出したというのは一瞬の幻想であり、その一瞬でガウェインはその後の人生のすべてを体験してしまう(体験する中身は正反対だが『ふくろうの河』のラストとよく似ている)。しかし、グリーン・ナイトから逃げ出してまで獲得した別の人生は、エセルとも別れさせられ、戦いの中で息子を喪い、民からの信頼も失くすという虚しいものだった。
ようやくガウェインは悟ることになる。それはわれわれ人間がどんなふうにジタバタしても、最後に残るのは自然だということだろう。グリーン・ナイトが赤でもなく、青でもなく、緑だったのは、グリーン・ナイトが自然そのものの象徴だったからということになる。人間はそのうち勝手に自滅することになるのかもしれないけれど、その後は自然の緑がすべて覆っていくことになるのだ。
これは中国の故事で言えば、「国破れて山河あり」ということになるかもしれない。ガウェインは一瞬の幻想の中でそれを悟る。そして、最初は「まだ準備ができていない」と語っていたガウェインは、最後は「準備が整った」と宣言し、グリーン・ナイトに首を差し出すことになる。この瞬間にガウェインは騎士道精神というものを獲得することになったということなのだろう。
デヴィッド・ロウリーは『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』において、時間を超越する存在としてゴーストを描いていた。ゴーストは人間の世界と重なり合いつつも、時を越えて存在し続け、われわれを見守っていた。
本作のグリーン・ナイトもそれに近い存在なのかもしれない。儚い人間たちはジタバタしながらあっという間に過ぎ去っていくけれど、自然の緑は悠久の時を過ごすことになり、地球のすべてを飲み込んでいく。そんな中ではガウェインのような人間ができることはごくわずかだし、ジダバタしたところで大局が変わるわけでもない。そんな感覚がガウェインに自分の道を受け入れる覚悟をもたらすのだ。
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