『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』 懲りずにやり続けること

日本映画

企画・脚本・監督は『戦争と一人の女』などの井上淳一

主演は『福田村事件』などの井浦新

若松孝二監督が率いる「若松プロダクション」に集まった面々を描いた『止められるか、俺たちを』の続編。

若松プロの懲りない面々

前作『止められるか、俺たちを』は、70年代の若松プロの面々を描いた話で、本作はその続編という形になっている。とはいえ、物語上のつながりはない(前作で主人公だった吉積めぐみを演じた門脇麦の写真が出てきたりもするけれど)。

『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』は、井浦新が演じる若松孝二と、その若松に突然呼び出されて映画館の支配人になる木全きまた純治(東出昌大)の物語として始まる。映画監督の若松孝二については、色々な逸話があるけれど、元ヤクザで映画の中で警官を殺すために映画監督になったとされる人物だ。木全純治については「知る人ぞ知る」というところなのか、彼のことを描いたドキュメンタリー映画『シネマスコーレを解剖する。 コロナなんかぶっ飛ばせ』があったりもする名物支配人らしい。

若松孝二は自分の映画が常に上映できるような環境を整えたくて、名古屋に映画館を作ったらしい。なぜ東京や大阪ではなかったのかと言えば、単に金銭面の問題だ。

木全は突然若松からの電話で呼び出される。若松が新しい映画館を作るから支配人をやってほしいというのだ。若松は文芸座(池袋にある名画座)でも上映プログラムを組んでいた木全が名古屋に戻っていることを知り、声をかけたのだ。こんなふうにして名古屋にシネマスコーレ(「映画の学校」という意味)という映画館が誕生し、本作はそこに集まってくる人たちの物語となっていく。

©若松プロダクション

映画が青春をジャック?

タイトルとなっている「青春ジャック」という言葉は、映画に青春をジャックされた、つまりは映画に囚われてしまったということを示しているのだとか。映画が好きで映画監督になろうという人もいる。しかし、それを叶えられる人は限られている。それでも映画が好きな人はそれにしがみつこうとすることになる。本作の主人公はそんな人たちなのだ。

若松に引き抜かれてシネマスコーレの支配人になった木全も、映画を作りたかった人のひとりだ。前作は1969年から1971年あたりを描いていたわけだが、シネマスコーレが出来たのは1983年ということで、時代としては映画は斜陽の季節ということになる。

木全が東京で大手の映画会社に行った時には、そこは閑散としていたらしい。木全はそれでも映画に関わりたくて文芸座で働くことになったようだ。そのつながりでシネマスコーレの支配人の仕事が舞い込んできたということになる。木全の奥さん(コムアイ)は彼のやることに協力的で、木全はビデオカメラのセールスマンを辞め、劇場支配人として働くことになったのだ。

とはいえ、木全も本作の主人公ではない。本当の主人公となるのは、杉田雷麟が演じた井上淳一という青年ということになる。この井上淳一というのは、もちろん本作の脚本・監督を務めている井上淳一だ。前作では脚本だけを担当し、監督は白石和彌だったわけだが、本作では自分のことを描きつつ監督も務めているのだ。

©若松プロダクション

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井上青年を救ったものは?

若松は映画の中で警官を殺したいと考え、それを実現させてしまうバイタリティがあった。しかし、そんな力を持つ人は限られているわけで、そんな才能ある人物を横目で見ながらも自分のテーマを見つけられず、「何者かになりたい」と思いつつも叶えられない人もいる。

前作の吉積めぐみはそちら側の人であり、その点では井上青年も共通している。彼はシネマスコーレで若松と出会い、そのまま弟子入りするほど行動力のある人だが、かといって撮影現場では失敗ばかりで打ちひしがれることになる。

ただ、井上青年は前作の吉積めぐみのように死ぬこともなく、こうして本作の監督・脚本をすることになったわけだ。井上青年だって吉積めぐみと同じようになる可能性もあったかもしれないわけだが、それを回避できたのは世代の違いもあるかもしれないけれど、ひとつには同じような仲間が周りにいたからだろう。それが本作のもうひとりの主人公とも言える金本法子(芋生悠)だ。

金本は大学映研で8ミリを撮っていたのだが、結局完成させることが出来ず、金銭面の問題もあってシネマスコーレでバイトをしていて、井上青年とも顔を合わすことになる。ただ、二人はこの時点ではあまりいい感情を抱いていない。

井上青年は自主制作で8ミリをやっている人を軽蔑しているところがあったのだ。一方で金本からすれば、井上青年は恵まれ過ぎていて、嫉妬の対象であり憎たらしい存在ということになる。金本は自分の「三重苦」ついて大学の仲間に語っていた。それは女性であることと、才能がないこと。さらに金本はもうひとつ、人には言えない苦しみを抱えている。実は金本は在日だったのだ。

そんな金本からすれば、井上青年は自分にないものを持っているということになる。男であって、日本人でもあるからだ。しかし、共通する点も見つかることになる。それは才能のなさに苦しんでいるところだ。

若松は自分がやりたいことを明確に持っていて、しかもそれを実現させてしまうバイタリティもある。それに対して、井上も金本もそうした力に欠けている。それでも二人は木全の気遣いもあって、互いの悩みを知ることになる。井上青年と金本はそうした悩みを共有することが出来たことで、ある意味では辛い時期を乗り越え生き永らえることになり、吉積めぐみと同じ轍を踏むことを免れたというわけだ。井上青年と金本の関係は微妙なもので、男女の仲になるわけでもないけれど、二人の関係は沁みるものがあったと思う。

©若松プロダクション

自分にしかできない作品

劇中でも語られるように井上青年は若くして35ミリ作品を撮ることになったけれど、それ以降は脚本家として活動していくことになったようだ。しかし若松孝二が2012年に急逝して以降は、弟子として役割が回ってきたということなのか、2013年には『戦争と一人の女』で再び監督をすることになる(これに関しては劇中では触れられていないけれど)。

『戦争と一人の女』の制作経緯はわからないけれど、多分、企画を担当している寺脇研とか、脚本家である荒井晴彦が作品を引っ張っていた形なのだろう。『戦争と一人の女』という作品は、坂口安吾の同名小説を原作にしながらも、さらに殺人鬼の話を付け加えて、『堕落論』をやろうとしていた作品だったように思えた(レイプ殺人のエピソードがかなりおぞましい作品なのだけれど)。

この作品のDVDには特典としてドキュメンタリーが収録されているのだが、脚本家の荒井晴彦と井上監督の関係を見ていると立場の違いは歴然としている様子でもあった。言い方は悪いけれど、井上監督は雇われ仕事として携わっているようにも見えたのだ。

しかし、本作の場合はそうではないだろう。井上監督は自分のことを主人公に据えて本作をやり切ったわけで、自分にしかできない作品をようやく完成させたということになるのだから。これは前作の吉積めぐみがやり残したことを、井上監督が引き継いだ形になっているようにも思えた。懲りずにやり続ければいいこともある、そんなふうに思える前向きな作品になっているのだ。というのも、本作には前作とは異なり“笑い”があったからかもしれない。

そのひとつには若松孝二という人物のデタラメさみたいなものがあるだろう。この調子のいい人物は、令和の時代にはとても受け入れられないほどのパワハラ男でもあるし、言ってることがコロコロ変わったりもする。撮影現場では女優には優しく、弟子には容赦ない。ただ、若松孝二のそれは撮影現場を円滑にさせるためのもので、悪気はないのだろう。井浦新が演じた飄々とした若松孝二の姿からは、そんな感じが伝わってくるから本作には“笑い”に溢れていたのだ。

映画に青春をジャックされた人たちのための映画として、昔の映画が色々と登場するのも楽しい。シネマスコーレはピンク映画を上映するなどしながら厳しい時代を生き永らえ、今でも個性的なプログラムを上映しているらしい。『水のないプール』に衝撃を受けて若松孝二に弟子入りした井上青年としては、木全支配人が組んだ大林宣彦特集(『廃市』ともう一本は何だったろうか?)は気に入らなかったようだけれど、そんな悪口も微笑ましいものに聞こえた。

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