『万引き家族』などの是枝裕和の最新作。
『万引き家族』でカンヌ映画祭のパルム・ドールを獲得した是枝監督が、初の国際共同製作作品としてフランスを舞台にして完成させた作品。
出演陣もカトリーヌ・ドヌーヴ、ジュリエット・ビノシュ、イーサン・ホークなど国際色豊かな面々が集まっている。
物語
セザール賞を二度も受賞している大女優ファビエンヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は自伝を出版する。それに合わせて娘のリュミエール(ジュリエット・ビノシュ)が夫と共にファビエンヌ邸を訪れる。リュミエールは自伝に何が書かれているかが気になっていたのだ。しかし、出来上がった自伝に書かれていたことはまったく嘘ばかりだった。
母と娘の確執
リュミエールが久しぶりにフランスに帰ってきたのは、母ファビエンヌの自伝の出版祝いのためというのが表向きの理由。実際にはリュミエールは自伝の中身を確認したかったらしい。そして、それがファビエンヌの人生の真実とはまったく違っていることに憤慨する。
ただ、ファビエンヌはそんなことは気に留める様子もない。女優というのは嘘をついてなんぼだと言わんばかりで、本当のことを書いたってつまらないと考えているのだ。それでも周囲にとっては自伝の内容は大問題だったのか、長年務めていた執事はファビエンヌ邸から去っていく。自伝でまったく自分のことが触れられていないことで、存在を否定されたかのように感じたらしい。
同じようにリュミエールが気に入らなかったのは、おばであるサラのことがまったく書かれていなかった点だ。サラはリュミエールにとって母親代わりのような人物で、同時にファビエンヌのライバルとも言える女優でもあった。ファビエンヌがそのサラのことに関して何も書いていないことがリュミエールには許せなかったのだ。
サラの亡霊
ファビエンヌは自伝ではサラのことを無視したわけだが、今でも彼女のことが気に掛かっている。それは現在撮影中の映画が、「サラの再来」と呼ばれているマノン(マノン・クラヴェル)という女優が参加していることからも明らかだろう。
この劇中劇『母の記憶に』はSF仕立てで、マノンが演じるキャラは地球では2年ほどしか生きられない。そのために宇宙を旅しているという設定で、7年に一度だけ地球に戻ってくる。光速の宇宙船に乗っているのかまったく歳をとることがないマノンと、地球で歳を重ねていく娘。その老境に達した段階の娘を演じるのがファビエンヌで、未だ若々しい母親マノンと向き合うことになる。
この場面では若くして亡くなったサラと、生き永らえ女優を続けているファビエンヌの姿が重ねられている。ファビエンヌはサラの亡霊のようなマノンの前で演技をすることに過敏になっていて、途中で逃げ出そうとしてみたりもする。ファビエンヌは女優として生きていくために、ライバルだったサラを追い落とした過去があり、今になってそのサラと対面するような気持ちになっていたのかもしれない。
※ 以下、ネタバレもあり!
ファビエンヌというキャラ
カトリーヌ・ドヌーヴが演じるファビエンヌというキャラクターは、ドヌーヴ本人がモデルとなっているのだろう。ドヌーヴは1964年の『シェルブールの雨傘』で一躍スターとなって以来、今に至るまで女優として活躍しており、ファビエンヌと同様にセザール賞を二度受賞している。
さらにはファビエンヌの姉であるサラという女優が若くして亡くなったという設定は、カトリーヌ・ドヌーヴ自身が実姉であるフランソワーズ・ドルレアック(『ロシュフォールの恋人たち』でドヌーヴと共演)を亡くしていることを踏まえている。
キャラクターを演じる役者の世間的なイメージをうまく利用している点は、『そして父になる』で福山雅治のイメージをキャラクターに反映しているところとよく似ている。ドヌーヴが実際にファビエンヌのような尊大で自己中心的な女性なのかはわからないが、あれだけの大女優で貫録もあると、どうしても世間はそんなこともあるかと思いがちだろうし、本作はほとんどファビエンヌ=ドヌーヴのような気持ちでその姿を追っていくことになる。
母と娘の愛憎劇
本作を観ながら私が思い浮かべていたのはベルイマンの『秋のソナタ』。この作品でも母と娘の確執が扱われていて、しかも母を演じるのは大女優イングリット・バーグマン。この映画の母親が、夫と娘を放り出して別の男性の元に走ったりしているという点は、バーグマンの実人生とよく似ている。それが『真実』のドヌーヴの立場とも重なって見えたのだ。
『秋のソナタ』は母と娘が壮絶なまでの言い争いを演じることになるのだが、『真実』ではそこまでいさかいが発展することはなかった。母と娘の関係に憎しみが付きまとうことはあるのかもしれないが、それは愛情を欲する気持ちと裏腹になったものだろう。
『秋のソナタ』は憎しみの部分をグロテスクに拡大して描いているが、現実にはあそこまで正面切って本音をぶちまけることは難しい。関係を完全にぶち壊してしまいかねないからだ(とはいえ家族だから無関係にはならないのだが)。
それぞれの真実?
『真実』でも母と娘の愛憎が描かれるわけだが、久しぶりの再会で過去を振り返るうちに、それぞれの立場にそれぞれの真実があるということも理解されてくる。
リュミエールは子供のころに出演した演劇「オズの魔法使い」を母親が見てくれなかったことを寂しく思っていた。だが、実はファビエンヌは劇を見ていながらも嘘をついていたのだ。ファビエンヌは演技に関して嘘をつくことはできないから、リュミエールを傷つけるのを避けるために見ていなかったことにしていたわけで、母親なりの気遣いだったのだ。今になって考えてみれば、どちら側にも言い分はあるのだ。
ファビエンヌは「よい母親だがダメな女優」よりも「ダメな母親でも素晴らしい女優」であることを望んでいる。女優にとっては虚構の世界がすべてであり、女優が現実世界の環境問題にコミットしたりすることをファビエンヌは嫌う。それは虚構の世界で生きていくことをあきらめ、現実世界に逃げ込むことだから(これは普通の人の考えとは真逆とも言える)。だからこそ、自伝でさえも女優としての虚構の人生で作り上げたということになる。
対するリュミエールは女優にはなれなかったが、母親への対抗心はある。アメリカから夫と娘を連れて帰ってきたのは、夫(イーサン・ホーク)から言わせると自分の幸せな姿を母親に見せつけたかったからということになる。そして、リュミエールが職業として脚本家を選択したのもその対抗心の現れと言える。女優は脚本家の書く台本に従って演じるわけで、リュミエールは母親をコントロールするような立場になりたかったのかもしれない。
複雑で曖昧なまま
ファビエンヌとリュミエールは和解することになるわけだが、完全に歩み寄るわけでもない。「あなたとは今のままで十分」というファビエンヌの台詞がそれを示しているし、和解した直後にあっけらかんとファビエンヌは女優としての顔を見せることにもなるからだ。また、次の日の朝、娘の助けを借りて、リュミエールがちょっとだけ母親を騙すのも仕返しというには可愛げがあってシャレていたと思う。
同じように母と娘の確執を描きつつもベルイマンの『秋のソナタ』の極端さとは異なり、『真実』は中庸を狙っているとも言えるかもしれない。悪く言えばぼんやりとしているのだが、それは複雑で曖昧な現実を反映してのことなのだろう。個人的には、ファビエンヌとリュミエールの間にいるサラというキャラの立ち位置がもっと明確になればよかったんじゃないかとも感じた。
とはいえ、日本人監督が海外で撮影したという不自然さのようなものは感じられなかったし、子役の扱い方などはとても手慣れたものだったと思う。カメに変えられたピエールを探し回る子役(クレモンティーヌ・グルニエ)がとても愛らしかったし、全体的にはなぜか幸せな気持ちになってしまうところに軽妙さが感じられて後味はスッキリとしている。
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