『葬送のカーネーション』 棺桶を担いだロードムービー

外国映画

監督・脚本はベキル・ビュルビュル。本作は長編第2作とのこと。

原題は「Bir Tutam Karanfil」で、「クローブをひとつまみ」という意味。英語版のタイトルは「Cloves & Carnations」で、東京国際映画祭で上映された時には『クローブとカーネーション』というタイトルだったらしい。クローブとカーネーションはトルコ語ではどちらも「Karanfil」だから、原題は「一輪のカーネーション」的な意味合いにもなるということなのだろう。

物語

荒涼とした冬景色のトルコ南東部。
年老いたムサは、亡き妻の遺体を故郷の地に埋葬するという約束を守るため、棺とともに旅をしている。
紛争の続く場所へ帰りたくない孫娘のハリメだったが、親を亡くし、仕方なく一緒に歩いている。
亡き妻とともに故郷への帰還を渇望するムサ。旅で出会う様々な人たちから、まるで神の啓示のような“生きる言葉” を授かりながら進んでゆく。
国境、生と死、過去と未来、自己と他者、棺をかつぐ祖父と孫娘の心の融和。
トルコから届いた3人のおとぎ話は、境界線の先に小さな光を灯す。

(公式サイトより抜粋)

棺桶を担いだ旅

イエスが十字架を担いでいく場面のような、棺桶を担いで歩いていくが心に残る作品だ。棺桶と一緒に旅をするロードムービーということになる。

生首を持ってそれに愚痴りながら旅をする『ガルシアの首』あたりをイメージしていたのだが、本作はちょっと毛色が異なる。というのは、『葬送のカーネーション』の主人公たちはとても寡黙で、亡くなった人との対話どころか、生きているふたりですら一緒に旅をしていてもほとんど会話もないような関係なのだ。

舞台となっているのはトルコで、じいさんのムサ(デミル・パルスジャン)とその孫娘ハリメ(シャム・セリフ・ゼイダン)はどういうわけか棺桶と一緒に旅をしている。冒頭ではのべつ幕なししゃべり続ける男たちの車に乗っていたのだけれど、ムサたちが目指している国境とは方向が異なるということで、何もない場所で放り出されてしまうことになる。ムサはトルコ語ができないらしく、それに関して抗議することもできずに、ふたりは棺桶と共に途方に暮れることになってしまう。

ムサはそれでも諦めない。ハリメが遊んでいたおもちゃから車輪を取り外し、それを棺桶に取り付けて、何とか棺桶をうまく転がして行けるようにしたのだ。ふたりはそんなふうにして棺桶を担いだまま国境を目指していくことになる。

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祖父と孫娘の関係

ムサとハリメのふたりはあまり仲が良さそうには見えない。次第にわかってくることは、ムサは故郷に帰りたがっているのだが、ハリメはそうではないということだ。ふたりは戦争で隣国からトルコに逃げ出してきたということらしい。

ハリメが大事にしているスケッチブックには、故国での戦争の様子が描かれている。そこでは飛行機から爆弾らしきものが降ってくる様子が描かれていたりする(「爆弾」と記したけれど、それは「棺桶」にも見える)。ハリメの両親がいないのは、かつて戦争で殺されたということなのかもしれない。

だからハリメはそんな恐ろしい場所に戻りたくないと感じている。一方で祖父のムサは、亡くなった奥さんに故郷の土に埋葬することを約束していたらしい(棺桶の中身は奥さんの遺体ということになる)。だからふたりの願いはまったく正反対ということになり、故郷に戻りたくないハリメは終始とても憂鬱そうな顔をしているのだ。

ムサのハリメに対する態度は、普通の祖父とはかけ離れている。孫のことを「目に入れても痛くない」と感じている祖父も多いわけだけれど、ムサはハリメに対してとても素っ気ないのだ。荒野で野宿をすることになった時には、ムサは遺体を棺桶から出して、その中にハリメを入れてフタを閉めてしまう。これは寒さ対策なのだけれど、孫を守るためとは言え、何も言わずに棺桶に閉じ込めるわけだから、ハリメは寝覚めの悪い夢を見ることになるのだ。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

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たどり着いた場所は?

本作はロードムービーというわけで、トルコのアナトリア地方の風景がとても印象的に捉えられている(『昔々、アナトリアで』を思い出したりした)。ただ、不思議なのは、ふたりが旅の果てにどこかにたどり着いて終わるわけではないところだろうか。

本作は難民であるふたりが国境を目指すという旅でもあるけれど、同時に夢など非現実的な世界も描かれていくことになる。そして、ラストは幻想の中でムサはフェンスの向こう側に渡り、ハリメはこちら側に取り残されたまま終わることになる。

ラストが幻想だというのは、ハリメがそのシーンではムサに対して「おじいさん」と呼びかけていることからも明らかだろう。ハリメは悪夢を見た場面で「おじいさん」と呼びかけていたけれど、現実の場面では一切そんな呼びかけをすることはなかったからだ。

これは本作が現実的なロードムービーであると同時に、ベキル・ビュルビュル監督が考える「心の旅」でもあるからということらしい。

ビュルビュル監督はインタビューにおいて、本作がイスラム教神秘主義の影響の下で作られたものだということを語っている(公式サイトの言葉にもそうしたことは読み取れる)。本作がわかりにくい部分があるとしたら、ビュルビュル監督が考えるイスラム教神秘主義がわれわれにとって慣れ親しんだものとは言えないからかもしれない。

ビュルビュル監督はこんなことを東京国際映画祭のインタビューで語っている。

私はこれを難民に特化した話ではなく、私自身の心の旅として書き始めました。人生は旅であり、まず精神があって、母の胎内から生まれ育っていく。そして老いて死んだ後は、また精神に戻っていく。これがスーフィズムというイスラム神秘主義の核心にある考え方であり、この思想に触発されて私は現実レベルから解き放たれた夢の世界も描きました。人生は夢であり、死ぬことによって覚醒する。旅は夢と現実の間を往来するんです。

ビュルビュル監督の考えるイスラム神秘主義というものは上記のようなものということになる。「人生は夢であり、死ぬことによって覚醒する」というのだから、現世は不自由な肉体に拘束されているような状況で、精神(魂)に戻ることで自由になるという考えなのだろう。

こうした考えは決して珍しいものではないけれど、現実的かと言えばそうではない。ビュルビュル監督も語っているように、本作は「夢と現実の間を往来する」わけで、イスラム神秘主義というのは一般的に言えば「夢のようなもの」ということなのかもしれない。

©FilmCode

「現実的な旅」と「心の旅」

ムサとハリメは何度も車を乗り換えて棺桶を運ぶことになるけれど、その度に運転手の話を聞かされることになる。ある女性はハリメに「リンゴの種を植えるとどうなるか?」と訊ねる。リンゴの種は大地に植えられると、大きな木となって成長する。これは人間も同じなのだという。死んだ人間は土の中に埋葬される。そうすると人間は腐るのではなく、来世で大きな木となるというわけだ。この話はイスラム教神秘主義にも通じるものがあるだろう。

しかし一方でふたりが最後に乗ったトラックでは、ラジオがこんなことを語っている。人が生きていることには何の意味もないというのだ。生きることは義務でしかなく、生まれてしまったから仕方なく生きている。本当は生まれないほうが良かったのだ。そんなニヒリスティックな考えが語られることになる。これはある意味では現実的な認識とも言えるだろう。

ラストでムサとハリメがあちら側とこちら側に分断されたままで終わってしまうのは、ふたりの世代の違いとも言えるかもしれないけれど、宗教的な認識の違いでもあったのかもしれない。

ムサはハリメがいつまでも子供っぽいことをしているのを露骨に嫌がっている。泥に絵を描いていた枝を折ってしまったりもするし、「早く大人になれ」といったことを口にしたりもする。ムサはハリメが早く大人になって、自分が考えている思想を理解することを望んでいたということなのかもしれない。

本作は「現実的な旅」と「心の旅」、その両方が描かれていることになるわけで、何だか意味不明とも思える夢のシーンは、ビュルビュル監督が考える思想の反映ということなのだろう。アナトリアの風景は印象的だったけれど、よくわからない部分が多かったのも確かで、背景にある思想を頭に入れて観れば、もっとしっくり来るものになったのかもしれない。

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