『ある船頭の話』 異物としての人間

日本映画

監督・脚本は俳優として国際的にも活躍するオダギリジョー

撮影はウォン・カーウァイ作品で知られるクリストファー・ドイルが担当し、音楽にはアルメニア出身のティグラン・ハマシアン、衣装にはワダ・エミと、国際色豊かな面々が揃っている。

物語

周囲を緑の山々に囲まれたとある川が舞台。

船頭のトイチ(柄本明)は川辺の小屋に寝泊まりしながら、その川で渡しをしている。川の上流には大きな橋が架けられようとしていて、その工事の音が遠くから聞こえてくる。

ある日の夕暮れ時、船を漕いでいたトイチは、川を流れてきた何かにぶつかりバランスを崩す。流れてきたのは瀕死の少女だった。

川沿いという場所

『タロウのバカ』でも川沿いにアウトサイダーが集まっていたように、『ある船頭の話』でも川沿いは居場所のない人たちの集う場所となっている。トイチは村の子供たちに石を投げられていたが、過去に何かがあって地元の村に居られなくなったため、川沿いの小屋に住み船頭をして暮らしているらしい。トイチに拾われて命を救われた少女(川島鈴遥)も居場所を失くした人間だ。

トイチが客からの噂話で聞いたところによると、上流の村で凄惨な一家殺害事件が発生したらしく、しかも少女が一人さらわれたとのこと。流れてきた少女はその娘なのだろうか?

(C)2019「ある船頭の話」製作委員会

近代化の流れで失われつつあるもの

本作では時代設定に明確な説明があるわけではないのだが、渡しの料金は五厘とのこと。厘というのは銭の10分の1の単位で、それが使われていたのは明治時代まで遡るらしい。その後の近代化による物価の上昇で、1円以下の単位である銭や厘というお金が使われることがなくなり、廃止となったらしい。

すでに役目を終えた古いお金と同じで、本作の船頭の仕事も橋ができれば不要となる仕事だ。確かに橋ができれば川を行き来する人々は便利になるだろう。それまではいちいち船頭を呼び付け、川を渡らなくてはならなかったわけだから。だが、そんなふうに利便性ばかりを追求すると失われてしまうものがあるんじゃないかと語るのが本作だ。

本作の後半になって橋が出来上がると、人々は橋を使って向こう岸へと渡ることになる。橋は通過点でしかないわけで、足を止めて川の風景を眺める人もいなくなる。資本主義の世の中では橋をつくる労働者たちが何かに追われるかのように働いているように、船に乗って水上からの風景を眺めるという優雅さは失われていくことになる。

 

 ※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2019「ある船頭の話」製作委員会

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人間の異物感

少女は一度トイチの小屋から姿を消すものの、再び戻ってくる。ただ、ほとんど自分のことを話そうとはしない。上流の村で起きた一家惨殺事件と少女を結びつけるとすれば、誘拐された少女が命からがら逃げだしたということかもしれないのだが、ともすれば少女自身がその犯人であることも否定できないのだ。ここでは一応伏せておくが、ラストで起きる出来事によっても、少女が犯人である可能性は高いような気もする。

唐突とも感じられる展開だが、本作では予告されていたことでもある。トイチは船頭としての暮らしに自足しているようにも見える。冒頭に登場した川を眺めるトイチの表情がそのことを物語るのだ。日々客を向こう岸へと運んで日銭を稼ぎ、川で魚を釣り、それを食料として生きる。「これ以上、望むものはない」といったトイチの表情だが、それが曇る時もある。

トイチでも橋を出来上がりつつあるのを見れば、自分の仕事が必要とされなくなるのを感じ、居場所を失う不安に駆られる。そんな気持ちが影響したのか、トイチは風の動きに不穏なものを感じるようになる(ちなみに少女の名前も「ふう」と言い、「風」を意味するものだ)。その不穏なものが霊という幻想となって姿を現すのも、トイチが妄想のなかで橋をつくる労働者たちを殺害するのも、美しい映像世界とはかけ離れた違和感を抱かせるものと言える。

本作は川沿いの風景ばかりが描かれていく。村人が川を渡ってから向かう場所や、村の様子はほとんど描かれることがない。その川のゆったりとした流れと同化するかのように、クリストファー・ドイルのカメラが捉えた山水画のような風景が続いていく。ここでは人間の姿もそうした風景に一体化しているようにすら感じられる。しかし、実際にはそれは間違いだったようだ。

トイチの内面を見てみればそんな自足とは縁がなかったように、人間はそうした山水画の風景に馴染むような存在とは異質であるからなのだろう。人間は自然のなかに生まれ、自然のなかで暮らしているが、人間は自然とは異質なものを抱えている。トイチが見る幻想も自然には収まりきらない人間の異物感のようなものを示しているようにも思えた。

監督オダギリジョー

演出として印象的なのが、橋が作られているという設定にも関わらず、橋の姿を見せないところ。船の客たちが橋の方向を眺めるだけで、あとはその工事の音だけで済ませている。そうして耳を澄ませると、本作には様々な音が聞こえてくる。風の吹く音や、蜩の鳴く声、焚き木のはぜる音。そんな音が丁寧に拾われていて、美しい風景とマッチしていた。

以下は個人的な思い込みのレベルとして記しておくのだが、オダギリジョー自身は何も語ってはいないのだが、本作ではキム・ギドク作品の影響をあちこちに感じる。本作の朝靄の川の風景は『魚と寝る女』を意識しているようにも思えるし、劇中で少女が突如として川に飛び込んで人魚のように泳ぐ場面の水中撮影は『鰐』のそれを思わせるからだ。少女がケガをして流されてきたという設定を崩しかねないこの場面は、オダギリジョー監督が水中撮影をしたかったからとしか思えないわけで、なおさらギドクからの影響を感じてしまうのだ。

ちなみに私自身は未見なのだが、オダギリジョーの中編作品『さくらな人たち』(小田切譲名義)は、自らが主演した『オペレッタ狸御殿』(鈴木清順監督)の影響を感じさせるのだとか……。恐らく自分が出演した作品の監督から学んでいることは多々あると思われ、オダギリジョーはギドク作品の『悲夢』に主演しているし、ギドクの脚本作品『プンサンケ』にもわざわざ自費でカメオ出演したというほど親密な関係でもあったらしいので、それほど突飛な思い込みではないとも思うのだがどうだろうか?

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