『ニトラム/NITRAM』 暗澹とさせる実録もの

外国映画

監督は『アサシン クリード』などのジャスティン・カーゼル

オーストラリア・タスマニア島で起きた「ポート・アーサー事件」を題材にした作品。

カンヌ国際映画祭では主演男優賞(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)を獲得し、オーストラリアのアカデミー賞では主要8部門での受賞を果たした。

ポート・アーサー事件

『ニトラム/NITRAM』は実際に起きた事件を扱っているのだが、事件そのものは描かれない。犯人が事件を起こすことになるまでを描いていくことになる。

まず、「ポート・アーサー事件」について触れておくと、この事件は、オーストラリア・タスマニア島の観光地、ポート・アーサーで起きた大量殺人事件とのこと。犯人のマーティン・ブライアントはセミオートマチックのライフルなどを使用し無差別に発砲し、死者35人、負傷者15人というオーストラリア史上最多の被害者を出すことになった。

犯人のマーティン・ブライアントは知的障害があったとされたものの、責任能力はあるとされ、35回の終身刑ということになったのだが、動機については今もわかっていないとされる。

(C)2021 Good Thing Productions Company Pty Ltd, Filmfest Limited

NITRAMとは?

みんなは主人公のマーティン(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)のことを“ニトラム”と呼んでいる。これはマーティン(Martin)の綴りを逆さまから読んだものだが、それは彼にとって蔑称であり、そんなふうに呼ばれることを嫌がっている。マーティンが人からバカにされたりすることになったのは、彼に知的障害があるからということになるだろう。

障害というものの程度は人によって様々なのだろうと思うのだが、マーティンの場合は未だに子供のように無邪気にはしゃいでしまう瞬間もあるということは言えるかもしれない。それだからか彼は仕事に就くこともなく、家で両親と過ごしている。

本作はマーティンが事件を起こすまでの姿が描かれるわけだが、彼が事件を起こすことになる決定的な要因が判明するというわけではない。色々な要素が複雑に絡み合い(その一つにマーティンの知的障害もある)、不運なことが重なって事件が起きてしまったというふうに描かれているように見える。

一つのきっかけとしては、自殺してしまう父親(アンソニー・ラパーリア)のことがあるだろう。父親は海辺のコテージを手に入れマーティンと一緒に経営することを楽しみにしていた。ところが資金調達にもたついているうちに他人の手に渡ってしまう。

マーティンはその時の父親の落胆ぶりを見ている。事件を起こした時にマーティンが最初にターゲットにしたのも、コテージを手に入れた老夫婦だったのだ。

(C)2021 Good Thing Productions Company Pty Ltd, Filmfest Limited

もちろんそれだけではない。「もしも」そうなっていなければ、事件は起きていなかったかもしれない。そんな仮定をいくつも挙げることができる。

マーティンが大富豪のヘレン(エッシー・デイヴィス)と出会っていなければ……。出会っていたとしても、そのままヘレンが生きていれば……。事件は起きなかったかもしれない。

あるいはヘレンが多額の遺産を遺していなければ、銃器を買い込むことはできなかっただろう。また、誰にでも簡単に銃器が手に入れられる状況がなかったなら、こんな事件は起きなかったはずだ。

だから、この事件の後、オーストラリアにおいて銃規制についての法改正がされたことは、さらなる悲劇を起こさないためにオーストラリアの社会がこの事件から学んだこととも言える。

(C)2021 Good Thing Productions Company Pty Ltd, Filmfest Limited

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障害と家族

マーティンはその知的障害のせいか、まだ子供のままのようにも、すべてを理解している大人のようにも見える。ヘレンとの関係はあくまでプラトニックなもので、そういうところではマーティンは子供のように見えるし、そのヘレンを殺してしまうことになったいたずらも同様だろう。

しかしその一方で、いたずらがバレたらマズい状況になることを理解して、警察には「何も知らない」と嘘を言うズルさは、大人の智慧を感じさせる。さらに父親の死に対しては、それを非難するかのように、「皆、絶望的な気持ちで毎日過ごしてるんだ」などとつぶやいてみたりもするのも、無垢な子供ではないものを感じさせる。こういった一貫性のなさも知的障害というものが影響しているということなのだろう。

『岬の兄妹』でも描かれていたが、障害を持つ家族がいれば、他の家族には少なからず負担が生じることはあるだろう。本作のマーティンの両親も、マーティンとの付き合い方には苦労していたし、心底困り果てている部分もあったようだ。父親が自殺してしまったのは、そんな生活に疲れ果てたからだったのだろうか。

(C)2021 Good Thing Productions Company Pty Ltd, Filmfest Limited

何とも暗澹とする映画

ラストではマーティンが事件を起こすことになるわけだが、その惨劇は描かれずに、最後のシーンはマーティンの母親(ジュディ・デイヴィス)の横顔で終わる。母親はまだ事件のことを知らないが、すぐに知ることになるだろう。母親はその際どんなことを思っただろうか? 本作においては優しい父親に対し、母親はマーティンに厳しい面もあった。というか、いささか冷ややかに見える部分すらあった。

マーティンは普段は暴力的ではないのだが、コテージが他人の手に渡って意気消沈した父親が寝込んでしまうと、それに発破をかけるかのように暴力的に叩き起こそうとする。そんなふうにマーティンが父親に対し暴力をふるっている間、母親は少し離れた場所からその事態を冷静に見守っているだけで何もしようとしない。この母親の冷ややかな態度には驚かされるのだが、これもマーティンがそんな状態になった時にはどうしようもないというあきらめだったのだろうか。

母親は子供の頃のマーティンについて、ヘレンに打ち明けている。マーティンと母親にとって、生地屋さんでのかくれんぼは大好きな遊びだったのだが、その日、マーティンはいつまでも姿を現さない。母親が涙ながらに彼を探し回って日が暮れてしまうと、マーティンは車の中に潜んでいて母親の苦悩を笑っていたという。

これはもちろん母親の主観での受け止め方ということになるだろう。母親はマーティンのことを“純粋な青年”と語るヘレンに警告を与えるかのように、この子供の頃のエピソードを語る。恐らくマーティンとしてはいつもと同じように遊んでいただけなのだが、母親はそんなマーティンの知的障害を受け入れることができなかったということだったのだろうか。

そして、そのマーティン自身も自分の知的障害をうまく受け入れることができていなかったのかもしれない。マーティンは鏡の中の自分と、なりたい自分との差異に苦しんでいたわけだから……。かといって、障害自体は親のせいではないわけで、母親の態度を責めればいいとも思えないし、「どうすればよかったのか」と問われてもよくわからないわけで、何とも暗澹した気持ちにさせる映画と言えるかもしれない。

監督のジャスティン・カーゼルの映画は今まで観たことがなかったのだが、本作の前に『スノータウン』を観た。というのは、実際に起きた事件を題材にしているという点で共通していたからだ。この2作は、オーストラリアにおける異常な事件シリーズとして、姉妹編といった趣きがある。

『スノータウン』に関して触れておくと、日本で起きた尼崎事件を思わせるところがあり、何と言うかかなりおぞましいし精神的にはキツいものがある。『ニトラム/NITRAM』と『スノータウン』は、どちらもとてもよく出来た作品なのだが、よく出来ている分、それだけに暗澹とした気持ちにさせてくれるわけで、何度も観たいと思わせるような映画とは言い難いとは言えるかもしれない。

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