『裸足になって』 表現あるいは闘争としてのダンス

外国映画

監督・脚本は『パピチャ 未来へのランウェイ』ムニア・メドゥール

原題は「Houria」。このタイトルは主人公の名前を示している。これはアラビア語で「自由」を意味しているらしいのだが、公式サイトなどに記載はなく正確なところはよくわからない。

物語

北アフリカのイスラム国家、アルジェリア。
内戦の傷が癒えきらぬ不安定な社会の中でバレエダンサーになることを夢見るフーリアは、貧しくもささやかな生活を送っていた。しかしある夜、男に階段から突き落とされ大怪我を負い、踊ることも声を出すこともできなくなってしまう。すべてを失い、死んだも同然の抜け殻となったフーリア。
そんな失意の中、彼女がリハビリ施設で出会ったのは、それぞれ心に傷を抱えたろう者の女性たちだった。「あなたダンサーなのね。わたしたちにダンスを教えて」その一言から始まったダンス教室で、また再び“生きる”情熱を取り戻していく―。

(公式サイトより抜粋)

ろう者とダンス

本作の製作総指揮には、『コーダ あいのうた』でアカデミー賞の助演男優賞を獲得したトロイ・コッツァーが関わっているのだという。そんな意味では、『裸足になって』において障害という要素は小さくはない。主人公のフーリア(リナ・クードリ)はバレエをやっていたのに足を大怪我をし、さらにそのショックで言葉をしゃべれなくなってしまうのだ。本作はそんなフーリアの再起を描いていくことになる。

フーリアも最初はさすがに落ち込むことになるのだが、声が出ないということを積極的に捉え直しているようにも見える。『コーダ』においても、ろう者が単なる弱者では終わらなかったのとも似ていると言えるかもしれない。フーリアは声が出ないことで、より一層ダンスというものの大切さに気づくことになるのだ。

フーリアはリハビリ施設で出会ったろう者たちと親しくなるのだが、怪我から回復したフーリアが久しぶりにみんなの前で踊った瞬間に、何かしらの感情が周囲にも伝わることになる。そのことがフーリアが再びダンスにのめり込むきっかけとなり、ろう者たちと一緒にダンス教室のようなことを始めることになるのだ。

そのダンスは手話なども交えたコンテンポラリーダンスとなり、ダンスが自分たちを表現するものとなっていくのだ。彼女たちは言葉をしゃべれない代わりにダンスで自分たちを表現しているわけで、障害というものを前向きに捉えているとも言えるかもしれない。

(C)THE INK CONNECTION – HIGH SEA – CIRTA FILMS – SCOPE PICTURES FRANCE 2 CINÉMA – LES PRODUCTIONS DUCH’TIHI – SAME PLAYER, SOLAR ENTERTAINMENT

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内戦後のアルジェリア

そんなわけで本作においては障害というものも大切な要素ではあるけれど、それ以上にもっと重要な要素がある。それは本作の舞台がアルジェリアという国であることに関わってくる。しかしながら本作は、そんなアルジェリアの特殊事情を細かく説明することはない。その点でちょっとわかりづらいところがあるのかもしれない。

ちなみに私自身はアルジェリアについてはほとんど何も知らないけれど、本作の前にムニア・メドゥール監督の前作『パピチャ 未来へのランウェイ』を観ていたので、そのつながりからすんなりと物語に入り込めることができた。もしかすると『パピチャ』を観ていなかったとしたら、アルジェリアの情勢についてよくわからないことだらけで、説明不足だと感じていたのかもしれない。

アルジェリアでは、1954年から62年にかけてフランスからの独立戦争を戦い、何とか独立を達成することになったようだ。この時代のことは、たとえば1966年の『アルジェの戦い』(ジッロ・ポンテコルヴォ監督)などで詳しく描かれているし、そのほかにも1994年の『野性の葦』(アンドレ・テシネ監督)という青春映画もこの戦争を背景としていた。

ところが独立後に何があったのかはわからないけれど、その後の1991年から2002年にかけては内戦が勃発したようだ。この内戦をわかりやすく整理すれば、アルジェリア政府軍とイスラム原理主義勢力との戦いということになるということらしい。

『パピチャ』では、この内戦時代のことを描いている。“パピチャ”というのは「愉快で魅力的で常識にとらわれない自由な女性」のことで、アルジェリアの若者たちもほとんど欧米と変わらないような娯楽やファッションを享受している一方で、イスラム原理主義勢力が女性に対してヒジャブを強制してくるような状況がある。

この時代の夜の街角ではイスラム原理主義勢力が勝手に検問をしていて、たとえば『聖地には蜘蛛が巣を張る』でも描かれたような“道徳警察”的なことをやっていて、実際にそこで殺されたりすることもあったようだ。

ちなみにムニア・メドゥール監督も90年代にはアルジェリアを逃れてフランスへと亡命したらしい。さらに付け加えておけば、本作と『パピチャ』で主人公を演じているリナ・クードリも、やはりフランスへと亡命したらしい。多くの人が命が危険だと感じられるような状況がアルジェリアにはあったということなのだ(監督によれば、内戦では15万人が亡くなったのだとか)。

『裸足になって』では、すでに内戦は終わっている。特に時代が特定されることはないけれど、闘羊の名前として“オバマ”や“トランプ”という名前が登場してくることからすれば、恐らく現代ということになるだろう。ただ、内戦が終わったと言っても、その傷跡は未だに残っている。元テロリストという危なっかしい連中が政府からの恩赦を受けて街に野放しにされており、本作の主人公フーリアが大怪我をすることになったのは元テロリストのアリという男が原因となっているのだ。

フーリアがリハビリ施設で知り合った女性たちの中にも、テロリストによって酷い目に遭ったという女性が何人もいて、内戦は終わったとしてもアルジェリアの情勢は未だに不安定なところがあるのだ。

(C)THE INK CONNECTION – HIGH SEA – CIRTA FILMS – SCOPE PICTURES FRANCE 2 CINÉMA – LES PRODUCTIONS DUCH’TIHI – SAME PLAYER, SOLAR ENTERTAINMENT

ダンスによる闘争?

ムニア・メドゥール監督が本作や前作の『パピチャ』で言いたいことをまとめてしまえば、アルジェリアという国の状況を変えるために闘いたいということになるんじゃないだろうか。

『パピチャ』ではヒジャブを強制してくるイスラム原理主義勢力に対して、主人公は自分たちで作ったドレスでのファッション・ショーを開催することになる。そして、本作においてはフーリアはダンス・スタジオを閉鎖するなどしてフーリアたちの活動を妨げようとする警察に対して挫けることもなく、自分たちの表現を諦めることはない。

もちろんファッション・ショーやダンスがアルジェリアの現状に何かしらの影響を与えることはないだろう。しかし、自分たちがやりたいことを自由にやることができるか否かということは重要だ。劇中ではアルジェリアでは「生きたいのに自由がない」とも言われていて、自由が切実に求められているとも言えるだろう。その意味では、ファッション・ショーやダンスも闘争の手段ということになるのだ。

フーリアはアリという元テロリストに大怪我をさせられることになったけれど、警察はアリを逮捕しようとはしない。これがなぜなのかはわからないけれど、政府が恩赦を与えた者だからということなのだろうか。とにかくアルジェリアではそんな理不尽なことがまかり通っていて、閉塞感が充満している。

それにうんざりしてフーリアの親友ソニア(アミラ・イルダ・ドゥアウダ)は、自由を求めてスペインへと渡ろうとする。フーリアは何度もソニアからスペイン移住を誘われているのだが、それを断ることになる。問題だらけのアルジェリアだけれど、フーリアはそこから逃げるのではなく、そこに留まって闘うことを選んだのだ(このことは前作でも強調されている)。

ちなみにムニア・メドゥール監督は一度はフランスへと亡命したものの、今ではアルジェリアに戻って活動しているとのこと。フーリアがアルジェリアに留まって闘うことを望んだように、ムニア・メドゥール監督もそれを望んでいるのだ。それによってアルジェリアを変えたいという思いがあるからなのだろう。

本作はフーリアとろう者の女性たちの連帯が美しく描かれている。脇役の女性たちもとても魅力的で、ちょっとペネロペ・クルスっぽいお母さんとか、子どもを失って精神的に不安定なハリマなども小さい役柄にも関わらず丁寧に描かれている。スペインへ行こうとして事故死してしまうソニアのキャラも印象深かった(この女優さんは『パピチャ』でヒジャブ姿だった女性だ)。

『パピチャ』でも主人公を演じたリナ・クードリは、すでに『GAGARINE/ガガーリン』『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』などにも出演する人気女優だ。本作や前作でリナ・クードリが演じた主人公は闘う女性であり、女性たちの連帯の中心に位置する存在だ。リナ・クードリの魅力は、そんな主人公の存在を説得力のあるものにしていたと思う。

ラストのまとめ方は意外とあっさりしているけれど、クドクドしいよりは好印象で、前作よりもとてもテンポよくまとまっていて99分に収まっているのもいい。

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