『熊は、いない』 熊とハッタリとパナヒ

外国映画

監督・脚本は『白い風船』『チャドルと生きる』などのジャファル・パナヒ

ヴェネチア国際映画祭では審査員特別賞を受賞した。

物語

国境付近にある小さな村からリモートで助監督レザに指示を出すパナヒ監督。
偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている男女の姿をドキュメンタリードラマ映画として撮影していたのだ。
さらに滞在先の村では、古いしきたりにより愛し合うことが許されない恋人たちのトラブルに監督自身が巻き込まれていく。
2組の愛し合う男女が迎える、想像を絶する運命とは……
パナヒの目を通してイランの現状が浮き彫りになっていく。

(公式サイトより抜粋)

今、見ているものは?

ジャファル・パナヒ監督はすでにベルリン国際映画祭やヴェネチア国際映画祭などで多くの賞を獲得している名のある監督らしいのだが、私自身は実は今回が初めて。

パナヒはイラン政府にとって不都合な映画を撮ったということで、逮捕されたりもしており、出国も禁じられていているし、映画製作もダメとされている。本作では、そんなパナヒ自身が映画の中に登場する。映画の中のパナヒも出国を禁じられているという設定で、パナヒ監督そのものの役柄を自身で演じているのだ。

冒頭がうまい。この長回しのシーンでは、国外へ脱出したいと考えている男女が描かれることになる。ところがザラ(ミナ・カヴァニ)がその計画を台無しにする。ザラは偽造パスポートを手に入れてくれたバクティアール(バクティアール・パンジェイ)も一緒に出国しなければ絶対に行かないと言い出すのだ。

そんな男女のイザコザがしばらく続くのだが、そこに「カット」という声がかかり、カメラの前に男性が現れて観客に向って話しかけてくる。実はこのシーンはパナヒ監督が現在撮影中の映画のワンシーンだったのだ。

今まで観客が見ていたものは、パナヒ監督が見ていたPCのモニターであり、カメラがゆっくりと引いていくと、今まで見ていた虚構の層とは別の現実世界へと移行してくることになるのだ。もちろんここで言う現実世界は『熊は、いない』という作品内部の現実という意味で、そのこちら側にはわれわれ観客がいる本当の現実世界がある。

劇中の撮影隊はトルコで活動しているのだが、パナヒは出国を禁じられているためにトルコとの国境近くの村に滞在している。そこからリモートで撮影隊に指示を出しているという設定だ。

今、撮影している映画も、ドキュメンタリードラマという形式のもので、演じているザラとバクティアールも実際に国外に出ようと考えている二人で、それを自分たちで演じている。撮影している映画自体がフィクションなのかドキュメンタリーなのか曖昧なものとなっているのだ。そして、この『熊は、いない』という映画そのものも、監督自身が登場してくるドキュメンタリーのようにも見えるわけで、今、見ているものが虚構なのか現実なのかが曖昧で、その境界線を行き来するような作品になっているのだ。

(C)2022_JP Production_all rights reserved

二組のカップルの行く末

本作では二組のカップルが登場する。最初のカップルは、パナヒが撮影している映画に登場するザラとバクティアールだ。この二人は国から出たいと考えている。そして、もう一組のカップルは、パナヒ監督が滞在する村のゴザルとソルデューズだ。こちらのカップルは村のしきたりから自由になりたくて村を出ようとしている。どちらも外へ出たいと考えているわけだ。

パナヒは村のカップルの騒動に巻き込まれることになる。彼が撮影していた村の写真の中に、ゴザルとソルデューズが村のしきたりを破っている証拠があるかもしれないというのだ。

パナヒ監督の作品は初めてだから、監督の人となりとか彼を取り巻く諸々の事情についても知らないのだが、彼自身はイランという国を出たいと考えているのだろうか。それとも『裸足になって』ムニア・メドゥールのように困難はあっても国に留まることを望んでいるのだろうか。本作では支援者の尽力によってトルコ側に渡ることは可能だったように見える。しかし、パナヒはそれを断ることになる。その時のパナヒは「こんな簡単に出国できるはずがない」と感じているようでもあった。

このことは本作のタイトルとも関わってくる。劇中では熊の話は後半になって登場することになる。村人は何らかの脅しとして、このあたりには「熊がいる」とパナヒに嘘をつく。これは権力の側が被支配者に対して何らかの行動を妨げるための嘘ということだろう。

たとえばシャマランの『ヴィレッジ』における怪物のようなものだ。『ヴィレッジ』の村の支配者は、村人たちに森の向こう側のことを知られたくなくて、森の中には怪物が出るという嘘を代々受け継いできたのだ。支配者側はその脅しによって、村の秩序を維持してきたというわけだ。

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熊はいるの? いないの?

そんな意味で、熊は権力の側が被支配者を脅すための嘘だ。しかし、村人はその嘘をすぐにバラしてしまう。「熊なんかいるわけないじゃないか」と明らかにしてしまうのだ。これは村人がすでに目標を達したからだろう(パナヒにある宣言をさせることを確約させたからだ)。だとすれば「熊は、いない」のだろうか?

そんなふうにも思える。パナヒ監督はトルコに渡ろうとしたが、何らか不穏なものを感じて止めたようだ。これはパナヒが政府から国外に出れば恐ろしいことになるというふうに仄めかされていたからだろうか。しかし政府の脅しはハッタリで、実際には熊なんかいないのだろうか。

しかし、先ほどの二組のカップルの顛末を見ていると簡単に「熊は、いない」とも言い切れないようにも思えてくる。撮影中の映画の中のカップルは国を出たがっていたがそれは叶わない。ザラは偽造のパスポートを使うことや、嘘というものを極端に嫌がっている。それがなぜ出国を取りやめることになるのかはよくわからないのだが、ともかく二人は国を出られずに終わる。

そして村のカップルも、同様に村から出られずに終わる。村にはしきたりがある。女はへその緒を切る前に許嫁を決められる。ゴザルは決められた許嫁とは別の男性ソルデューズと駆け落ちをしようと計画していたわけだが、結局はソルデューズは誰かに殺されてしまうのだ。

ゴザルとソルデューズは、村のしきたりなんて駆け落ちして村を脱出してしまえば関係ないことだと考えていたのだろう。しきたりを守らないと大変なことになるとは聞かされていても、それは「熊がいる」という嘘と同じで、村人を従わせるためのハッタリだと考えていたのかもしれない。しかし実際にはそうではなかったわけで、やはり「熊はいた」ということなのかもしれないのだ。

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虚構のパナヒ/現実のパナヒ

劇中のパナヒは二組のカップルの悲劇を目撃することになる。それを見たパナヒは何を思ったのだろうか? パナヒは村から追い出されてそこを去るだけだ。

しかし、劇中のパナヒとは異なり、現実世界のパナヒ監督はそれだけでは済まなかったようだ。パナヒはこの映画を撮影した後、政府によって逮捕されることになったからだ。ここでも「熊がいる」という脅しは単なるハッタリではなかったということになる。

本作を観ているだけだとパナヒはどちらかと言えば無愛想で、劇中のパナヒの感情も見えてこないようにも思えたのだが、『人生タクシー』という作品を観ると、とても人が良くて笑顔を絶さないおじさんという印象だった。

本作は冒頭で虚構から現実へと移行するカメラの動きがあり、それがカメラの存在を意識させるのだが、『人生タクシー』もカメラを意識させる映画になっている。イラン政府によって映画撮影を禁止されているにも関わらず、何本もの映画を発表しているのは、『人生タクシー』はタクシーの中に据えられた防犯カメラがたまたま撮影したものであり、「映画ではない」というカラクリになっているかららしい。

もちろんそんな嘘が通じるわけもないのだけれど、そんな不自由な手法を駆使してまで映画を作り続けているわけで、表面的には穏やかなのだけれど内に秘めたるものには熱いものがあるということは伝わってきた気がする。

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