若手映像作家の発掘を目的とした「TSUTAYA CREATORS’ PROGRAM FILM 2016」という企画で、審査員特別賞を受賞して映画化された作品。
監督はCM制作などをやっていたという箱田優子。
物語
都内でCMのディレクターをしている砂田(夏帆)は、止まると死んでしまうんじゃないかというくらいの勢いで仕事に励んでいた。結婚はしていて夫は優しいのだが、職場の男性と不倫関係にもあって、なぜか心は荒んでいる。
そんな砂田は地元の茨城に帰る必要ができたものの、いまひとつ気が進まないでいた。ところが、たまたま一緒にいた後輩の清浦(シム・ウンギョン)が、一度田舎に行ってみたいと言うものだから、なし崩し的に茨城に帰ることに……。
田舎から都会へという動き
都会での成功を夢見て突っ走る砂田は、口汚く下請けを罵ることも平気だ。しかし同時に、大御所の俳優には平身低頭で道化のような役回りを演じたりもする。仕事終わりの飲み会で酔いつぶれて我を失うのは、自分の現状に満足がいかないことの表れなのだろう。
この主人公・砂田のキャラ設定は、監督である箱田優子のプロフィールと被っているようだ。監督の地元も茨城で、仕事はCMディレクターだからだ。この脚本は監督自身のことをさらけ出して書いた個人的な作品ということになのだろう。
本作の砂田は何もない田舎から夢を追って東京へ出てきたのだろう。だが一方では、東京へ出ることがそんな積極的なものである必要がないのは、前回取り上げた『楽園』でも描かれていたことだ。
田舎が息苦しいから東京へと逃避している場合もあるのだ。砂田の場合も、積極的に東京を選んだのか、ただ田舎から逃げたかったのか、自分でも決めかねていたのかもしれない。東京で頑張っている砂田が、田舎に帰ることを躊躇するのは、東京で夢を見ることが田舎からの逃避かもしれないことを明らかにしてしまうからなのかもしれない。
※ 以下、ネタバレもあり!
清浦という秘密の友達
本作を結末のほうから読み解いていくと、清浦という後輩は、実は砂田のイマジナリーフレンドということになる。このネタバレはそれほど驚くべきことではなくて、最初から仄めかされていたことである。
子供のころ、誰もいないブルーアワーの時間帯に全力疾走することが好きだった砂田。そうすることで無敵になれるように思えたのだ。そのときに砂田の後ろを一緒に走っていたのが誰だったのかが示されることはないのだが、それが清浦というイマジナリーフレンドだったのだ。
イマジナリーフレンドとは、言葉の通り「想像上の友達」ということになるわけだが、解離性障害に似たところがあるようだ。ただ、イマジナリーフレンドの場合は病理性は高くなく、異状とまでは言えない。こうした解離性障害が酷くなって別人格のような状態になってくると、『ファイト・クラブ』の主人公が陥ったような状況になるということだろう。
なりたかったもう一人の私?
砂田の前に清浦が姿を現すのは、砂田が田舎に帰ろうかと迷っているときだ。踏ん切りがつかずにいたときに、喫茶店で突然清浦が登場する。そして、用意していた車で砂田を田舎まで運んでいくことになる。大嫌いな田舎に帰ろうとする砂田を後押しする役割を担っているのだ。こんなふうに書くと、大嫌いな田舎に帰るために、砂田がイマジナリーフレンドを出現させたかのようにも思える。
本作のキャッチコピーは「さようなら、なりたかったもう一人の私」とされている。これをそのまま信じれば、清浦は砂田の理想像ということになり、『ファイト・クラブ』の構図と同じということになるのだが、本作を観ると清浦は砂田の理想像とはちょっと違うようにも感じた。
清浦を演じるのはシム・ウンギョンという韓国の女優だ。最近では『新聞記者』という作品でも重要な役を演じていて注目された。このシム・ウンギョンは本作で韓国なまり丸出しで、片言の日本語を話している。清浦の背景に関しての説明はないのだが、日本の田舎に関してもよく知らないようで、だからこそ特別に見るべきところもない田舎に積極的に行ってみたいと言い出したりもする。
そして砂田の実家においては、何も知らない部外者だからこその気軽さで誰よりも自由に振舞っている。清浦の態度は周囲の空気を読むなどという配慮とは無縁なのだ。砂田が家族のなかでオロオロとしているのに対し、清浦はそんな砂田のことを冷静に見守っている。そんな客観的な見方をしているのが清浦なのだ。
東京でデビュー?
私が奇妙に思えたのは、東京で仕事中の砂田と、清浦が現れてからの砂田には変化があるように見えるところ。東京での砂田は突っ走りすぎて周囲から抑えられるような側面があるのだが、田舎に帰った砂田は家族の振る舞いに圧倒されているようにも見えるのだ。
大声で愚痴ばかり垂れ流している母親(南果歩)に、仕事もせずに骨とう品ばかり集めている父(でんでん)。笑えない冗談がキツい兄(黒田大輔)。あまりに個性的すぎて対処に困るような状態で、そのなかにいると普通すぎる砂田は受け身に回りがちで、どこか居心地が悪そうなくらいなのだ。
東京だと傍若無人に振舞う砂田は、田舎だと周囲の押し出しの強さに戸惑うばかり。これはどういうことなのかと考えてみると、砂田は東京で新たな人生をデビューしていたということなのだと思う。嫌いな田舎から離れ、誰も知らない土地で再スタートを切るとき、砂田は清浦というイマジナリーフレンドを自分のなかに取り込むことで新しい人格としてデビューしたということなのだ。
清浦のどこか部外者然として空気を読まない部分は、砂田が下請けにキツく当たるところに表れているのだろうし、反対に大御所俳優にへつらい難所を切り抜けようとする部分は素の砂田が出ているのだろう。東京の砂田がちょっと二重人格のように見えたのは、清浦という無敵キャラを自分に取り込んでいたからなのだ。
しかし田舎に帰るときにはそうはいかない。砂田は素に戻り、清浦と分裂した形になる。家族たちが清浦という友達をおもしろがっていたのは、砂田が今まで見せることのなかった一面を、今回の帰省において垣間見ることができたということなのだろう。
繰り返される動き
『ブルーアワーにぶっ飛ばす』は、田舎に帰ることで都会で再び頑張ろうと思い直すという点で『ブルックリン』を思い出した。『ブルックリン』の主人公は一度田舎へと帰ることで、忘れていた田舎の窮屈さを思い出し、都会へ帰ることを望むのだった。
とはいえ、『ブルーアワーにぶっ飛ばす』は田舎の嫌なところだけを見せているわけではなく、おばあさんの姿を通して生きることを見つめさせ、家族というものを見直す側面もある。家族を嫌っていたためか夫と向き合えなかった砂田だが、今回の帰省をきっかけに不倫関係を清算することになるのだろう。
私自身もそうだが、田舎から東京に出てきている者にとって、毎回帰省に際しては砂田と似たようなことが起こっているようにも感じる。砂田は東京では清浦というキャラを取り込んで虚勢を張っているわけだが、地元に帰ると素に戻る。そして、東京へ戻るときに清浦は消えるわけだが、それは清浦を再び取り込んだことのようにも見えた。だから砂田は東京という都会でまたぶっ飛ばすことになるのだろう。
タイトルの「ブルーアワー」というのは、朝と夕の二回現れる「空が青色に染まる静寂の時間」だという。清浦が出現したのは朝のブルーアワーであり、消えたのは夕方のブルーアワーだった。日々、陽が昇り、また沈むように、それは繰り返されるわけだが、われわれも一度ならず田舎と都会を行ったり来たりを繰り返す。本作では一度限りの帰省が描かれているだけだが、実際には何度も繰り返されるそうした動きが象徴的に描かれているようにも感じられた。われわれは毎回何か新しいものを田舎から持ち帰っているのかもしれない。
最後に付け加えておけば、本作は脇役が光る作品でもあった。日焼けして農家のおばさんになりきった南果歩や、にやけながらのしゃべりが気味が悪かった黒田大輔。さらには特段本筋とは関係ないところにいながらもインパクトを残した伊藤沙莉はやはり巧い。
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